ゴミ部屋世界
2011年の秋くらいに書いたもの
ゴミ部屋世界
目を覚ますとそこは紛れもなく学生寮の個室、309号室だった。
ベッドと机と小さな本棚。それらを置いてしまえば殆ど埋まってしまい他の家具を置く余裕がなくなった。加えて掃除をしようとしない俺の怠惰な性格が影響し本棚に入らなくなった漫画や文庫本、ゴミ袋に缶、ペットボトルが散在していて足の踏み場もなくなっている。不快ではない。むしろ安心出来た。物に囲まれているというのが良いなんて将来はゴミ屋敷の主になってしまう可能性が否めない。
冬が近づき、布団を体から剥がすと寒さが襲いかかる。けれど、胸に温かい感情が残っていた。親しい人と楽しい時間を過ごした時に感じるような感情。仲の良い友人や家族、恋人とか。そんな人たちと一緒にいられるから感じられるもの。
だが、この部屋には俺一人しかいない。
さっきまで高校時代の夢を見ていた。現在に流れる時間の中で誰かと過ごしていたわけではない。
夢の中で俺はまだ高校一年生。季節はたぶん冬。隣にいたあの子は紺色のマフラーを巻き、吐く息は白かった。バス停に二人きり。他には誰もいない。
夢に出てきた女の子は高校の同級生だが、実際に二人でバス停に立っていた事はなかった。二人で話した事はあるが、毎日話していたわけでもなかった。だからだろうか。覚めてもあの喜びが残っている。好きだった子と話せた。夢であっても至福の時間だった。
俺はいつまで過去の事を引きずっているのだろう。しかし、大学に入学してから一、二を争う心躍る出来事だった。
携帯を見た。時刻は午前七時。一限から授業が入っていた。
一秒ごとに胸の中の幸福量が減っていく。現実と夢との差を突きつけられる。頭が痛い。夜中に食べたカップ麺が原因なのか胸焼けがして気持ち悪い。
ベッドから這いずって出ると枕元に積み上げていた漫画が崩れ落ちた。時間も無いのでそのまま放置。床に転がっているペットボトルを足で寄せて進路を確保。しかし、適当に積み上げたボトルが倒れてしまい余計に足の踏み場が無くなった。しかたないので強行突破。カーテンは開けない。開けても向かいにあるマンションが邪魔で日光が入ってこないから。
俺の日光を浴びる権利はどこに行ってしまったのだろう。もしかすると時間帯によっては日を浴びる事が出来るのかもしれない。けれど、どうでもいいや。開けていたら開けていたで、向かいのマンションの住人が間違って俺の汚い部屋を見てしまうかもしれないし。それは気の毒な事だ。
昨晩はシャワーを浴びなかったからさっと浴びた。
この個室には小さいながらも浴室とトイレ、IHクッキングヒーターが備えられていた。どこもかしこも掃除をあまりしていない。もう汚さに慣れてしまってやる気も起きない。
まだ水が混じっている湯を浴びているとあの子の顔がちらついた。俺より頭一つ分背が低く、小ぶりなポニーテールが微かに揺れる。赤くなった頬をマフラーにうずめ、優しげな笑みを浮かべている。何を話していたか忘れてしまった。いや、何も話していなかったのかも。どちらにしても、俺はまた夢の世界に戻りたい。もう一度眠りに入ったらまた彼女に会えるだろうか。暗い影を払ってくれるような、あの笑顔にまた会えるだろうか。
座り込んだ。滝行の如くお湯が頭を叩く。
こんな状態で大学に行かないといけないのか。あの人ごみの中を歩かねばならないのか。すし詰め電車を耐えきらねばならないのか。
吐き気がする。部屋の扉を開けて外に出るのが怖い。自分以外の全員が怖い。彼女は怖くない。夢の中の彼女は俺を癒してくれる。いわゆるナイチンゲール症候群なのかもしれない。ちょっと違うか? 何でもいいや。
シャワーを冷水に変える。一瞬で体が硬くなった。頭が冷えて俺を支配しつつあった恐怖が一時的に収まった。これでなんとかいけそうだ。
着替えて部屋を出た。
秋風に体を貫かれ、枯葉を踏みにじり、石ころに躓き、水たまりで足を濡らし、肩と肩がぶつかってふらつき……。
四限まであった授業を切り抜け、帰ってきた。
コンビニから買ってきた一.五リットル入りのコーラとウーロン茶を机の上に乗せ、飲みきって空になった缶やペットボトルを床に払い落とす。中身が詰まっていない気の抜けた音がした。ますますスペースが無くなった。
目を瞑って椅子の背にもたれかかる。
呼吸が荒くなってきた。自然と息も苦しくなる。
落ち着け。誰かに何をされたわけでもない。罵倒、陰口、いやがらせ。四月に入学してから今日日、何も無かったじゃないか。もちろん過去のトラウマが蘇ってきたのでもない。大丈夫だ、俺が勝手に少しだけ疲れただけだ。すべての原因は俺なんだ。
俺はちょっとした事、例えば、日が暮れるとはびこる夕日、すれ違った人のしていた会話、ふとやって来る過去の記憶、背中で擦れるリュック、駅のホームに鳴り響く電子音。本当に些細な事で疲れてしまう。精神的に参ってしまう。原因不明の悲しみと空虚さと不安が俺を取り込み、指先から麻痺し、やがて縛り上げられる。そうなる前に逃げ切らねばならない。動けなくなってしまえば外に出られなくて、学校にも行けなくて、食べ物もいらなくて、やがて廃人になってしまう。だから、必死になって逃げないと。
馬鹿みたいだ。違う、馬鹿だ。みたいじゃない。馬鹿なんだ。俺は馬鹿だ。もっと気を払うべき事があるのに。英語の課題とか来週提出のレポートとか……。
パソコンの電源を入れた。唸り始めた。
起動するとブラウザを立ち上げて検索をかけた。あの子が通っている大学のホームページだ。大学の概要、学部学科、カリキュラム、取得資格、就職先、順々に閲覧していく。
高校の時、体調を崩しやすかったから元気でやっていればいいのだけれど。
大学には慣れた? 友達は出来た? 毎日楽しい?
色々訊きたい事があるのだけれど、俺にはその術がない。携帯には彼女のアドレスは登録されていない。聞けなかった。だから、ない。
俺は彼女がどんな学校生活を送っているか想像してみる。
あの子は真面目だからしっかり授業を受けて、昼休みは友達と談笑しながら昼食をとる。授業が終われば本屋によるかもしれない。好きな作家の新作を手に取ってみたり、漫画もよく読むらしいから面白そうなのを探したり。夜は次の日の予習をしてから読みかけの小説を読んで早めに眠る。
大学生なのだし、髪を染めたり化粧をしていたりするかもしれない。俺はあの子の艶のある黒髪が好きだから染めていてほしくないな。
いや、俺の好みなんてどうでもいい。あまり妄想が過ぎると気持ちが悪い。激しく自己嫌悪をし、自身を罵る。気持ち悪い。お前は彼女を穢す気か。ああ、気持ちが悪い。
しかし、妄想は進む。
あの子は可愛いから、チャラチャラした男にちょっかいをかけられていなければいいが。心配だ。彼女が出会う男が誠実な人でありますように。
あの子が好きなる人はどんなタイプだろう? メガネをかけていて、文学が好きで、丁寧な言葉遣い。優しくて、背が高くて、彼女より年上。サークルとかの先輩かもしれない。俺と比べて天と地の差がある。
もし二人とすれ違う事があったら俺は何と声をかけよう。そもそもあの子は俺の事を覚えているだろうか。忘れているのではないか。そうだ。覚えているとは限らない。だったら声をかけずにその場を立ち去るのが当たり前の行動だ。彼女らに水を差したくない。
はっとした。
たらればの事ばかりじゃないか。仮定に仮定を重ねた妄想が本当の事だとは限らない。それに、だからなんだ、という話だ。あの子に恋人がいようがいまいが俺に何の関係がある?
いや、ある。俺は未だに未練があるのだ。だから、夢に出てきたり取り留めもない妄想をしてしまうのだ。
なんだか、もう、なんだか……苦しい。
気を紛らわせないと。何かないか、何か。キーボードの横にあったペットボトルに手が当たってしまい倒した。音もなくそれは転がって床へ転落した。
……良いものがあった。床に落ちているこのペットボトル。積み上げてみよう。単純な作業は没頭しやすいし、小さな頃は積み木遊びが好きだった。部屋の片づけにもなる。よく暇つぶしにやるようなものではなく、丁寧に城や塔を形作る。
五百ミリリットルのペットボトルを基本として積み上げ始める。コーラのペットボトルは安定感に欠ける。カルピスのは四角いので積みやすい。底に溜まった液体が黒くなったりカビが生えていたりしている。捨てる時はちゃんと洗わねばならない。でも、まず置いておこう。
一つ、また一つ。少しずつ高くしていき腰くらいになったら、また別に積み上げる。ゆっくり、崩れないように積み上げる。
俺の部屋に幾つも塔を建設していく。ゴミの塔。どんなに注意を払ってもすぐに崩れてしまう塔。
○
あの子と初めて話したのは高校一年の夏。夏休みを一週間前に控えたある日の昼休みだった。俺は彼女の事が気になっていたけれど、同じクラスなくらいの接点しか無いのでもんもんとした日々を送っていた。
俺は図書室の隅で空を眺めていた。窓を開けて微風を感じながら流れる雲を追っていくのが好きだった。小学校から続いている習慣だった。駆け回る事よりもぼーっとしている方が断然好きだったのだ。そんな時だった。
「何見ているの?」
彼女がいつの間にか横にいた。俺は突然の事に驚いてしまい、上手く喋れなかった。俺は普段から人と話すことが多くなかったからとっさに声が出ない。会話をしてくれる友達がいなくて喋らなかったわけではない。終始誰かといる事が嫌だったため、静かな図書室で気持ちを落ち着けたりしている内に会話の回数が減っただけだ。数少ない友人とは仲が悪かったわけではない。
俺は、雲、と一言だけ呟いた。無愛想でぶっきら棒な言い方だったけれど、彼女は気にする素振りも無く続けた。片手には黄緑色のブックカバーをかけた文庫本を持っていた。
「よく図書室にいるよね」
小さく、うん、と言った。会話を繋げられない。彼女から投げられた言葉のボールを俺は持ち逃げしていた。
彼女も本を読むために昼休みは図書室に来ていた。だから、俺の事を知っていたのだろう。
「いつも雲、見ているの?」
また、うん、だけしか言えない。
「へー。私もそういうの好きだな。雲の形が何に似ているとか考えるのとか」
俺はこの言葉で舞い上がった。単純な事この上ない。
それからたまに彼女と話すようになり、俺の高校生活は彼女との会話が全てであったと言っても過言ではない。世界が彼女と話す昼休みを中心に回っていた。
だが、それだけではここまで未練たらたらにならなかっただろう。俺が彼女にある意味依存する事になるきっかけがあった。これも何気ない会話だ。彼女は男女分け隔てなく接するので、彼女にとって何ら特別な言葉ではないはずだし客観的に見ても不自然なものではなかった。
それは二年生の冬だった。
いつものように俺は図書室で外を見ていた。雪が静かに降っていた。雪の白さと曇り空が合わさって景色は青白い。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
彼女は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
確かに俺は気分が良くなかった。寝つきが悪く、嫌な夢ばかりを見て気が休まらない。よく分からない不安が迫ってきて、あと一歩で俺を捕えようとしている。些細な事で自分を責め、過剰なほど卑屈になり、良い事など一つも考えられない。潰れかけていた。
俺は適当に風邪気味だと言ってごまかした。誰にも相談しようとは思わず、自分の事を上手く語れる自信も無かった。
「そっか。無理しないでね。辛いなら早退した方が良いよ。大丈夫?」
気遣いが嬉しかった。それだけではない。救われたような気がした。
感傷的になっていたから余計に彼女の言葉が響いた。
動機や原因としてはあまりにも希薄。それでも俺には重大な事だった。
あの頃の思い出は日々劣化し、印象の薄い所は消え、自分の都合が良いように改変されていく。出来事の核とでもいうべきものが残り、俺の中に滞留し、固まって離れない。いや、離さない。しがみついているのだ。
その後、俺は彼女に対して進む事も退く事も出来ないまま卒業してしまった。わりと彼女の大学と俺の住んでいる寮は近かったはずだが、普通に生活していれば町で出会う事がない距離だった。それこそ、俺がストーカーに身を落として彼女を追い回さない限りは。だが、そんなことはしない。彼女が悲しむことはしない。そんな事をする前に俺は自分自身を殺す。
なんて、考えるけれど俺は外に出るのが嫌だし生き汚いので自殺も出来ない。大人しくかびているのがお似合いの人間なのだ。
○
休日、ずっと横になっていた。起きては眠って、起きては眠って、起きては眠って、空腹で胃が痛んだ。朝から何も食べていない。
部屋が暗いので何時か分からない。携帯を開く。時刻は午後五時。
コンビニにでも行こうと起き上がり、全部で六つになったペットボトルの塔を壊さないように用心して玄関まで出る。財布が見つからないと思っていたが、玄関の隅に落ちていた。どうしてここにあるのか疑問だが、札や小銭が入っていたので些末な問題だ。分かりやすい所に置いたつもりだったのだろう。
サケ、ツナマヨ、梅のおにぎりと緑茶を買ってきた。
コンビニの店員は年のころが近そうな女の人だった。肩に届くくらいの長さで茶髪。たぶん色素が薄く生まれつきのものだろう。透き通るような白い肌だった。
彼女はお釣りを渡す時、落とすのではなくきちんと手のひらに置いてくれた。しかも空いた手を俺の差し出した手の下に入れ、俺が小銭を落とした時のための受け皿にしてくれていた。それが嬉しかった。
まあ、いいや。早く食べよう。
照明を付けず食べ始める。暗い部屋の方が落ち着けた。
薄暗い室内。塔が六つ。本で作った城壁。ゴミの山。
俺の世界。狭くて汚い世界。そこで食事をする俺。一人だけの住人。
どうしてだろう。どうしてこんな世界になってしまったのだろう。
物は沢山ある。けれど、孤独感がぬぐえない。物に囲まれ安心する。けれど、孤独感がぬぐえない。あの子がいない。いない、いない。コンビニには綺麗な店員がいた。けど、あの子はいない。大学には女子学生が沢山いる。けど、あの子はいない。あちらこちらに女性はいる。けど、あの子はいない。俺の世界に俺はいる。もろい建物もある。けど、あの子はいない。あるのは過ぎ去った時間の名残。未練。空虚。悲嘆。苦痛。
………………。
突如訪れた破壊衝動。
食べかけの梅おにぎりを投げ出し、暴れだす。
積み上げたペットボトルの塔を突き崩す。ベッドの城壁をすべて引きずり落とす。奇声を上げ、髪を振り乱し、手足を振るった。
自分でもわけが分からない。視界がぶれにぶれて目に映る物の何もかもが得体のしれない怪物に変わった。
何なんだ。何なんだ。何なんだ。この世界は化け物だ。食い殺される。助けて、また声を聞かせて。君が世界の中心だった頃に帰らせてくれ。俺の生きる場所はそこだけなんだ。そこでしか生きられないんだ。置いていかないで。一人にしないで。もうこんな所、嫌だ。
十分も動き回っているとさすがに疲れてきて止まった。本棚は倒され、パソコンには布団が被さり、壁には米粒が張り付いていた。本もゴミもごちゃ混ぜだ。
足がもつれ何かを踏みつけて転倒した。顔面から床に突っ込む。
額に広がる鈍い痛み。触れるとぬるっとした。どうやら切れたようだ。
真正の馬鹿だな、俺は。暴れても何も解決していない。疲労が溜まっただけだ。何をやっているんだろう。
次第に意識が遠のき、そのまま視界が暗くなった。
○
バス停にいた。あの子が隣にいる。前に見た夢の続きなのだろうか。霧が深く道路の先が見渡せない。
「怖いんだね」
彼女は微笑みながらそう言った。
俺は声を出そうとしたが、息が喉から漏れるだけだった。
「私との思い出が毎日消えてしまうものね。少しずつ、確実に思い出せなくなるものね。だから、怖いんでしょ?」
小さく頷いた。
「他の人との出会いがあって私が薄められていく。それはすごく不安だよね」
彼女の吐く息は白い。頬は赤くなっている。
「でも、囚われていてはだめ。あなたも私も先へは進めない。ずっと高校生のまま時が止まっている」
バスが霧の中から現れた。何人も乗っている。見た事があるような人もいるが殆どは覚えがない。
「乗らないの?」
彼女が尋ねる。俺は足がすくんで動けなかった。
「じゃあ、私は乗るね」
彼女は手を小さく振りバスに乗り込んだ。
「ばいばい。また会えればいいね。けれど、その時は違う私。違うあなた。それじゃあ、その時まで……」
バスが走り出した。彼女は紛れてしまってもう見えない。彼女があのバスに乗っている事は確かだけれど、俺はあのバスに乗らなかった。
バスが霧の中に消えていくのを見送った。
○
本棚の上に覆いかぶさり、額から流れた血が血だまりを作っている。渇きかけていた。触れると砂のようにざらざらしている。深く切れていなく、出血量は少なかったようだ。
どれくらい気を失っていたのだろう。痛む額を押さえ、ゴミをかき分けていると雑誌の切れ端で指を切った。また血が流れた。貧血気味になりながらも漫画の下敷きになった携帯を探し当てた。画面を見るもバッテリーがない。
最後に充電したのはいつだったろうか。充電コードは意外と近くにあり、コンセントへ接続。電話もメールも全くない。三十分ほど意識が途切れていたようだ。
ため息をつき、座り込んだ。
久しぶりにアドレス帳を開いた。家族のアドレスと数少ない高校時代の友人のが二、三件。うち一人はあの子と俺との共通の友人。
彼はあの子の連絡先を知っているだろうか。彼の電話番号を選択し、通話ボタンを押せば彼の携帯にかかる。
「あー、あー」
声が上手く出るか不安だったので発声練習をした。
「あー、あー」
けれど、まず怪我した所を治療しないと。病院に行った方が良いだろうか。