第4章 とある一日 とある暗転
1.
目覚ましは鳴る。あるじを起こすために。そんなことはわかっている。でも、もう少しだけ寝ていたいんだ。
優菜は寝ぼけ眼で目覚まし時計のスイッチを押すが、こやつはあるじに逆らうのか鳴り止まないではないか。ああもう、と起き上がった優菜は、鳴っていたのが携帯電話であることに気づき、慌てて通話ボタンを押した。もしもしと話しかけると、聞こえてきたのは母の声。
『おはよう。こんな時間まで寝てたの? 学校ちゃんと行ってるの?』
のっけからお説教ですか。げんなりするが、枕元にある目覚まし時計を見て納得する。9時37分を指すそれは、あるじのお寝坊をとがめる執事のメガネのように冷たく光っていた。
いや実家に執事がいるとか、そういうわけじゃないけどね。優菜は誰にともなく心の中で弁解すると、まだ小言の続く母親の言葉を遮った。
「ごめんママ、朝ご飯作ってから改めて」
んもう、しょうがないわね。ママは嘆息とともに娘の些細なわがままを聞き入れてくれた。優菜は携帯を充電スタンドにつなぐと伸びを一つしてベッドを降りた。今日の朝ごはんはハムエッグとフレンチトーストにしようかな。
『また夏休みは帰ってこないの?』
第2戦は詰問調。なんでこううちのママは喧嘩腰なんですか。今度は優菜が嘆息する番だ。しかし、切り返す手がある。
「今回は1週間くらいなら帰れそうだから。今ボランティアのみんなと相談してるし」
6人に増えたことで、愛知出身の優菜、長野出身のるい、神奈川出身の理佐、そして大阪出身のミキマキが1週間ずつ帰ってもいいんじゃないか。今そういう線で日程調整中だ。
隼人は隣野市に実家があるが、あの事情では帰る気はないだろうし、実際彼は『こっちでバイト入れまくるつもりだから』と居残りをいち早く宣言してくれていた。その代りといってはなんだが、夏休み最終週は隼人はボランティアに来ず骨休めすることになっている。
隼人。彼のことを思い出したとき、優菜の胸はきゅうっと締め付けられた。思いもかけない自分の反応に焦っていると、通話口の向こうでは剣呑な話題に移っていた。
『優菜、彼氏とはその後どうなの?』
どきり。今度は胸の鼓動が一瞬高鳴る。眼を閉じてしばし、優菜は母に切り出した。
「それなりだよ。ちゃんと会ってるし」
母の訝しげな反応が受話口から聞こえてくるが、実際そうなんだからしかたがない。この間だって会ったさ。1時間だけファミレスでおしゃべりして、はいさようならされた。だんだん彼と疎遠になっていく自分がいる。
『お父さんがね、気にしてたのよ』
「何を?」
『初孫はいつなんだろうって』
パパ、ママ、吹き出したコーヒーで黒斑になった私のフレンチトースト返してください。会心の出来だったのに。優菜は赤い顔で、手ぶら機能オンにしてある電話に向かって叫ぶ。
「先走りも大概にしろって言っといて! そんなものこさえる遥か手前なんだから!」
『あら、そうなの? ちゃんと避妊してるのね。えらいわ優菜ちゃん』
シモに流れそうになった話を強引に終わらせるべく優菜はまた叫んだ。
「とにかく、帰る日が決まったらメールするから! 今日これから大学だし! じゃあね!」
まだ何か言っている通話を強制遮断し、優菜はコーヒーを淹れ直すことにした。
お湯が沸くまでに着替えるか。優菜はフリルが所々にあしらわれたピンクのパジャマを脱ぐ。なにげなく下着姿になった自分が鏡に映ったとき、優菜の脳裏に昨夜のドタバタが浮かぶ。
『意外とふくよかだな、と。』
たちまち全身が朱に染まる。その手の話はどうも苦手だ。自分の体の話だけではなく、シモネタ全般が。るいと理佐がその手の話題に完全対応しているだけに、自分は精神的に幼いのだろうかと軽く自己嫌悪に陥ることもある。
そういえば美紀は苦手そうだが、あのねーやんはいけるクチだろうなきっと。そこらへんにあの双子を見分けるポイントがありそうだな。
鏡に近づいて、自分の体を映してみる。ちょっと体をひねってみたり、腕で胸を寄せてみたり。
(そんなにふくよかかな)
改めてあの隼人の言葉を反芻してみて、そういえば初めてそんなことを言われた気がする。
あたしを『女』として見ている。隼人が。
そのことに思い至って赤面したとき、ケトルが甲高い音を立て始めた。びくっとした優菜は、一瞬遅れてTシャツを羽織るとレンジに駆け寄った。
2.
優菜がゼミの行われる教室に入っていくと、窓際に女の子だけの人だかりができていた。何事かと寄っていくと、ゼミ仲間の女の子の1人が泣いている。周りにいるほかの子に事情を尋ねると、どうも恋愛関係のトラブルらしい。
なにもこんなところで泣かなくてもと優菜は思ったが、周りの子たちにとってはそうではないらしい。
盛んに泣きじゃくる子を励まし、泣きじゃくる子は火に油を注がれるがごとくさらに泣きじゃくる。
(ああ、なんだ。お互い様ってことね)
振られた子は泣きじゃくって『わたしってかわいそうな女』アピールができる。現にこの集団を遠巻きに眺める男子にチラチラ視線を走らせてるし。周りの女の子たちにとっては『気遣うわたしっていい人』面できるチャンス到来というわけだ。
……こんなことを思う自分はひねくれているのだろうか。そう思いながら優菜は集団からはなれ、机に突っ伏しているゼミ仲間の1人に近づくと声をかけた。
「るい。おい、るい。……起きろよ、もうすぐゼミが始まるぞ」
返事がない。ただの屍のようだ。
まあいいかと踵を返した次の瞬間、優菜は不覚にも悲鳴を上げてしまった。お尻を掴まれたのだ。誰に? もちろん決まってる。
「うふふ、ふくよかな優菜のお尻ゲット!」
「るい掴むな! 変態!」
ゼミ仲間に悲鳴を聞かれた恥ずかしさとお尻を触られたという羞恥心と、もひとつおまけに昨日のことがまたフラッシュバックしたことと。諸々で赤面の体の優菜は、るいの手を払いのけると下手人をにらんだ。
「お前なあ、起きてるなら返事しろよ!」
「ぐう」
「寝んな!」
狸寝入りを決め込むるい。だが、彼女は気付くべきだった。優菜の横にいつのまにか教官が仁王立ちしていることを。
数分後、るいの悲鳴が教室の窓ガラスに響いた。
3.
夜7時。家庭教師先で晩御飯をいただくと、優菜はぐずる教え子にはっぱをかけて2階へと一緒に上がった。どうやら期末テストもなかなかの成績だったらしく、優菜先生のおかげねなんて照れることを言われた。
「もう、お母さんったら調子のいいこと言って」
と教え子は笑って、驚愕の事実を教えてくれた。なんと、今回の期末で成績が上がらないようだったら契約を打ち切って塾に通わせるつもりだったらしい。
この浅間市は大きな街なので、学習塾も大手から私塾まで選択肢が広い。その中で教え子の母親が目星をつけていたのは、どこだったのだろう。
「んーとね、なんだっけな。トーゴージュク?」
もしかして、東堂塾?
「あ、そうそう。あそこ、有名なんだよね? ……先生、どうしたの? 顔赤いよ?」
うかつにも隼人の顔を思い浮かべてしまい、慌てて大丈夫であることをアピールする。
「へえ、有名なんだ。そっかそっか」
教え子が言うには、教え方のうまい講師がいて人気らしい。背が高くてなかなかの男前、という点でも。
「同じクラスのみやびちゃんがね、その先生にお熱なんだけど、ほかにも先生大好きな子がいっぱいいて、毎日大騒ぎなんだって」
経験的に、この手のコイバナは大げさなものと相場が決まっている。それをさっ引いてもだ。
(あいつ、実はほんとにモテモテなのか……?)
優菜は自分のことは棚に上げて心の中でつぶやいた後、ふと思い出したことを教え子に尋ねてみることにした。
「そのみやびちゃんって子は、もしかして苗字『サカモト』さん?」
違うよ。坂本なんて子、うちの高校にいないし。教え子はそう答えると、じっと見つめてきた。
優菜が見返すとにっと笑う。
「もしかしてその講師さん、先生の恋人?」
まさか。さあ雑談はおしまい。優菜は強引に話を打ち切ると、教え子を机に向かわせた。
帰り道、彼にふと会いたくなった優菜は原付をUターンさせると、彼のマンションに向かった。今行けば部屋にいるはず。
バイトもせず親からの仕送りだけで生活できるお気楽極楽な彼は、最近はDTMにハマってるとかで部屋に篭りっぱなし。……なのだが、どうも嘘臭い。部屋に来る時は連絡入れてくれ、と何度彼に言われたか。今会いたいから会いに来て何が悪いの、とケンカになったことも1、2回ではないのだ。
彼の部屋は灯りが点っていなかった。優菜は震える指で彼に電話をする。ためらいながら通話ボタンを押して待つこと1分、ようやく彼が電話に出た。
「今、どこ?」
彼は言った。部屋でパソコンいじってるよ、と。
がんばってねと言うのが精一杯で、優菜の視界はぼやけた。