血月花
満月でもないのに滴るような赤い月の夜は、不用意に出歩かない方がいい。照灯持ち(ファロティエ)でさえベッドで毛布を被って夜明けを待つのさ。
昔、年寄り達は皆口を揃えてはそう子供に言い聞かせたものだ。
けれどいつの世にも年寄の言葉を「迷信だ」と鼻で笑う愚かな者はいる。そう、目の前の男のように闇に紛れ街を急ぐ愚か者が。
――さて、今夜は血月花のような見事な赤い月が東の空にぽっかりと浮かんでいる。「迷信」を信じない愚か者の身に、災いが降りかからなければいいのだけれど――
ロージャは薄暗い路地を注意深く歩いていた。日の高いうちは露天商や辻馬車で賑わう大通りも、日が沈めば途端に強盗や人さらいが横行する物騒な夜の顔を見せる。油断していると身ぐるみを剥がれるどころか、命まで奪われてしまうことも珍しくなかった。
「ああ、馬車を帰すんじゃなかったな」
いつもなら夜でも辻馬車の二、三台は客待ち顔でたむろっている通りに立ち、ロージャは途方に暮れる。今夜に限って馬車は一台もいなかった。大通りの側の教会へ行くのだから、帰りは辻馬車を拾うさ、と屋敷から乗って来た馬車を帰した事をロージャは後悔した。
教会で馬車を待たせれば目立つ。それを懸念しての措置だったのに、それが裏目に出た。いかにも良家の子息といった衣装のロージャは、強盗や人さらいにとって狼の目の前に飛び出した憐れな子羊そのものだろう。
教会へは結婚の日どりが決まった事を報告しに来たのだが、随分と司祭と話し込んでしまった。日が沈むまでに屋敷へ戻るつもりが、すっかり夜になってしまっていた。
ロージャは溜息をつく。けれどいつまでもこんな所で途方に暮れている訳にもいかない。辻馬車が駄目ならファロティエを雇えばいいだけの事だ。
ファロティエとは代金と引換えに夜道を照灯で照らし、目的地まで送り届ける者の事だ。ロージャは無人の馬車乗合所を後にし、できるだけ狭い路地に入らないように気をつけながら再び街を歩き始めた。
「それにしても、人っ子一人いないとは」
不安を追い遣るようにロージャはわざと声に出して呟いた。夜の街は確かに危険だが、それでも夜会や夜市が立つ日はそれなりに人を見掛けるものだ。
(――しかもこの月だ)
ちらりと頭上を見上げれば、東の空には血のような鮮やかな色をした、上弦の月がロージャを見下ろしていた。
満月でもないのに赤い月の夜は外を出歩くべきではない、という迷信はロージャも知っていた。けれどそれはあくまで迷信でしかない。むしろ恐れるべきは赤い月などではなく強盗の類だと、ロージャは元よりこの街に住む者はみな思っているはずだった。
そんな事を考えながら歩くロージャの目に、ふと微かな淡い光が映る。目を凝らすとどうやらファロティエの持つ照灯のようだ。
(助かった……!)
ロージャは自然と早くなる足で、ファロの柔らかな光を目指した。けれどファロに近づく程にロージャは戸惑いを覚え始めた。そしてとうとうファロの光がそれを掲げるファロティエ自身を照らしだす段になり、ロージャの足は止まってしまった。
(何だ、子供じゃないか!)
ひと抱えはあるような大きなファロを持つ目の前のファロティエは、まだ十二、三歳程の華奢な少年だったのだ。
ロージャの気配に少年が顔を上げた。その顔は幼いが意外にも整っている。ロージャを見上げるその瞳はファロの光を映し込み、一瞬今宵の夜空に浮かぶ月と同じ色に光った。
ロージャと少年は僅かの間、無言で観察し合う。強盗をつかまされるのはお互い避けたいところだ。しかし本当にこんな子供がファロティエなのだろうか。しげしげと少年を見つめていたロージャは、少年の赤い月のような瞳がよく見るとありふれたブラウンをしている事に気付き、無意識に安堵の息を吐く。
「――それで、どうするの?」
ファロティエの少年が前置きなく問うた。その声は少年にしては妙に高く、ロージャは自分の間違いに気付く。
「……君は女の子なのか?」
思わずそう尋ねていた。肩より短く切られた髪のせいでてっきり少年だと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「――言っておくけど。私が女でも子供でも、今夜ここで商売をしているファロティエは私一人よ。どうするの、雇うの、やめるの?」
愛想も何もない返事が返って来る。ロージャは内心舌打ちする。女子供のファロティエなど聞いた事が無かった。貧しい者は例え子供でも大人に交じって働く。そんな事はロージャとて承知の上だが、それにしても危険と隣り合わせであるファロティエという職業には不向きである事には違いなかった。
「大丈夫よ。あいつらはこのファロを見れば近寄って来ない。それに今夜は赤い月の夜だもの、あいつらだって大人しくしているわ」
淡々と少女は語る。赤い月の夜に強盗が大人しくするかどうかはさておき、確かに闇の中では幾らでも人目は誤魔化せるものだ。
けれど問題が一つあった。
「でも君の声を聞けば、いやでも女の子だとわかるよ。まさか男の声を真似るつもり?」
ファロティエは夜道を強盗避けに自らの存在を声高に主張しながら歩くのが普通だった。
「そんなもの必要ないわ。どうしてもって言うなら、あなたが言えばいいだけよ」
ロージャは言葉に詰まった。さすがにそこまでする気にはならなかったからだ。
逡巡するロージャの答えを少女は黙って待っていた。その様子から彼女がどうしてもロージャに雇われたがっている風でもない事が窺えた。ロージャは首を捻る。こんな夜に働いているという事は少女には稼がなくてはならない理由があるのだ。しかも女子供には不向きの危険な仕事に就いてまで。それなのにこの商売っ気の無さときたら何なのだ。しかしそれが逆にロージャの興味を引いた。
「今夜僕が君を雇わなくても、君は困らないのかい?」
気付けはロージャは少女に質問していた。
「あなたって質問ばかりね。最初に質問したのは私で、あなたはそれに答えてないのに」
少女はわざとらしいため息をつく。そう言われれば確かにそうだ、とロージャも思った。
「君を雇えば、僕が質問しても怒らない?」
ロージャは猫なで声で少女を見下ろす。
「――それも質問だわ、答えじゃない」
無表情でロージャを見上げる少女に、ロージャは思わず笑ってしまった。
「悪かった。いいよ、君を雇う。どうせ今夜は君以外にファロティエはいないんだろう? だったら選択の余地はないじゃないか」
商談成立だった。少々不安はあるものの、辻馬車も拾えずファロティエも無しで夜道を歩くよりはマシだろう。
「まいどあり」
特に笑顔を見せる訳でもなく、少女は淡々とそう口にすると手にした大きなファロを目の高さに掲げなおした。
「おいおい、代金は取らないのか?」
ロージャが呆れる。
「それは、あなたを無事に送るべき所へ送り届けた時に」
「ふうん。変わってるな。そんな商売のやり方で、踏み倒されたりはしないのかい?」
「そういう輩は例え先にお代を払ったとしても、途中で客から強盗に早変わりするのよ」
少女はロージャを目で促すと、ファロの光を頼りに暗い通りを歩き始めた。ロージャは軽く肩をすくめると、その後をついて歩いた。
少女は道中、呆れる程に寡黙だった。初めこそロージャも先程の続きとばかりに様々な質問や話題をふってみたが、それらは全て少女に黙殺された。今となってみれば少女が口を開いて言葉を発していた事が、夢ではないかと思える程だった。しばらく歩いた所で、いい加減ロージャも少女に話し掛けるのをやめてしまった。
(全く愛想のない娘だ)
ロージャは少女の掲げるファロの光をぼんやりと見つめながら思った。何で出来ているのか、不透明な薄い膜のような覆いの中で、時折炎がゆらりと揺れる。それはまるで生き物が身をよじっているようで、何となく落ち着かない気がした。
そうしてファロの光に導かれるように歩いていたロージャは、ふと少女が手にしているファロの覆いに、今まで気付かなかった模様があるのを見つけ、はっとした。
それは二枚の花弁からなる赤い花だった。
「……血月花」
本来「血月花」という名の花は存在しない。夏前に小さな白い花をたくさん咲かせる多年草の白月花のうち、十年を越えた古株だけが咲かせるという幻の赤い花の事だ。けれどそれはただの噂でしかない。普通の白月花は大抵が五年花を咲かせれば長持ちな方で、十年も花を咲かせ続ける白月花など存在しないというのが植物学者の見解だった。
「よく知ってるのね」
今までどんな話題も質問も黙殺していた少女が、ふいに口を開いた。その事に少々驚きながらもロージャは急いで次に口にすべき言葉を探した。いつ少女の気が変わって沈黙が落ちるとも限らなかったからだ。
「僕の妻の実家には白月花がたくさん植えられていてね。その花の噂話をいつだったか、妻から聞かされたのさ」
「白月花は手間の掛かる花だって言うわ。あなたの奥さんの実家は随分お金持ちなのね」
白月花は乾燥と寒さに弱く、育てるのが手間だった。おまけに美しく咲かそうとすれば高い肥料が不可欠だ。世間では金持ち以外好んで庭にこの花を植える者は滅多にいない。
「……そうだな、妻は金に困った事などなかっただろう」
ロージャは僅かに口元を歪めるように笑った。ロージャの妻の実家はこの街に隣接する広大な土地の大地主だった。貴族の称号こそ無かったが、そこいらの下っ端の貴族よりも遥かに金持ちだ。
「過去形なのね。じゃあ今は困ってるの?」
ロージャは一瞬言葉に詰まった。
「困ってはいないよ。ただ、僕の妻は……亡くなったんだ。だからもう、お金があろうが無かろうが関係ないのさ」
ぎこちない笑顔でロージャがそう言うと、「そう」と少女は短く言った。
そうなのだ。ロージャの妻は死んだのだ。半年前に。結婚して三月しか一緒に暮らさなかった、美しく憐れなカミラ。
「そういえば血月花の根には毒があるって聞いた事があるわ。もしかしてあなた、奥さんの財産目当てにその毒を使ったの?」
何気ない口調で少女が言う。ロージャはぎょっとした。
「な、何を馬鹿な! 第一、妻には一つ歳下の妹がいて彼女が財産を継ぐんだ、僕のものにはならないさ!」
心臓がやけに激しく鼓動を打つ事に苛立ちながら、ロージャは反論する。
「……ただの冗談よ」
悪びれもせず少女はロージャを見ないまま興味なさげにそう言った。ロージャは途端に、声を荒げた自分が忌々しく思えた。そして自分が血月花の毒の信憑性よりも、妻の実家の財産について言い訳した事に愕然とした。
確かに血月花の咲いた白月花の根は、毒になるという噂があった。その毒は無味無臭で、口にした者が眠るように息を引き取るという夢のような毒だという根拠の無い噂が。
額に嫌な汗が噴き出すのを感じ、ロージャは不快げに手の甲でそれを拭う。
(一体何だっていうんだ、この娘は)
自分のすぐ前を歩く少女を、ロージャは次第に薄気味悪く感じ始めていた。何故この少女は突然こんな話をしたのだろうか。
(まさか、あの事を知っていて、わざと?)
いや、それはあり得ない。そう否定してみるが、ロージャの心の中で疑惑がどんどん大きくなり始める。
(そうだ、あれは自分と死んだカミラしか知らない事だ。こんなさっき会ったばかりのファロティエが知っているはずなどない)
それなのに――
「教会へは懺悔に?」
ロージャはギクリとした。
「な、何で教会へ行ったってわかるんだ!」
声が喉に張り付いて、上手く出てこない。
「あなたから教会で使う香の匂いがするから。よっぽど司祭と長話でもしなければ、そんなに匂いはつかないでしょう? ……どうしたの、顔色が悪いみたいだけど」
ちらりと振り返り、少女が言う。
(こいつ……っ!)
ロージャは奥歯を噛みしめた。こんな夜の闇の中で、頼りないファロの灯りに照らされたロージャの顔色など、わかるはずがない。
そして同時にロージャは何かがおかしいと感じ始めた。そう言えば自分達はどこへ向かって歩いているのだろうか。随分歩いたが、そもそもロージャは、少女に行き先すら告げていないのではなかったか。
「――おい、どこへ連れて行く気なんだ!」
ついにロージャは歩みを止め、少女の背中に怒鳴った。
「何を恐れているの? 私はあなたが行くべき所へと案内しているだけよ」
「行先も聞かずにか!?まさかお前、強盗の仲間なんじゃないだろうな!?」
不安と恐れを顕わにし、声を荒げるロージャを少女は立ち止まって振り返ると、冷めた目で見つめた。
「人間は自分にやましさがあれば、相手も自分に悪意を持っていると思い込むのね」
「なっ、何を! 僕の何がやましいって言うんだ!?僕は由緒正しきイッシャー子爵家の人間だぞ!」
「子爵家とは名ばかりで、借財で首が回らない落ちぶれた名家ね」
少女が表情ひとつ変えず言うのに、ロージャはカッと頭に血がのぼる。少女の言葉は正しくロージャの家の現状を言い当てていた。この地の歴史書を紐解けば、古くからイッシャー子爵家の名を見る事ができる。しかしその名に見合うだけの財力は、既に手離されて久しかった。
「――黙れっ!」
とうとうロージャは怒鳴り声を上げ、少女の胸ぐらを掴んだ。その勢いで少女の手から血月花の模様の描かれたファロが放り出され、石畳の通りに転がった。
少女の言葉には我慢がならなかった。例え落ちぶれていようとも、ファロティエごときに蔑まれるいわれなどないのだ。
そんなロージャを、少女は恐れるでもなくじっと見返す。
(――この目だ……!)
少女が自分を見る目が、妻だった女の自分を見る目に重なる。
『あの人、私の事をお金で地位を買った卑しい女だって思ってるのよ。馬鹿みたい。本当は自分達の方こそ、家名をお金目当てに私達に売ったんだって事、わかってないのよ』
いつだったか、妻が訪ねてきた妹にそう話すのをロージャは偶然聞いてしまった。
(誰のお陰で成金の娘から子爵夫人と呼ばれるようになったと思っているんだ、この金食い虫め!)
ロージャは妻の前に飛び出していき、そう怒鳴りつけてやりたかった。けれど実際はそうしなかった。何故ならカミラの妹マリエが「ロージャ様は立派な方よ、姉さん」とカミラをたしなめたからだ。
(そうだ、マリエは初めて会った時から、カミラとは違って素直で純粋な娘だった)
華やかで派手好きな美しいカミラ。その妹のマリエは、慎ましやかで決して人目を引く妖艶な美人ではないが、優しげな美しさを持った娘だった。いつの頃からかロージャは、妻のカミラではなく妹のマリエを愛するようになっていた。けれどそれはロージャの心の中だけに秘められた想いでしかなかった。
「あなたはその妹の為に、自分の妻を殺したのね」
どうしてマリエの事を知ったのか、ロージャに胸ぐらを掴まれたまま少女が感情の籠らない声で言う。少女の足元に転がったファロの覆いの中で、炎が身をよじるように揺れる。
「殺してなんかない! あれはあいつの自業自得だ! あいつはマリエを殺そうとしていたんだ!」
少女の華奢な身体を、ロージャは力任せに何度も揺さぶった。
(そうだ、悪いのはカミラだ!)
『ひどいのよ、父さんったらあの家の財産をマリエに継がせるって言うのよ! 私にはほんの僅かばかりのお金しかくれないっていうのに! 私は嫌よ、貧しい暮らしなんてできないわ。マリエさえいなければ、あの家の財産は私達のものなのに……!』
半年前、カミラはそう言ってロージャに泣きついた。ロージャは冷めた気持ちでカミラの背を撫でてやった。心の中ではいなくなればいいのはカミラの方だと思いながら。
『――そうよ、マリエがいなくなればいいんだわ』
ひとしきり泣き喚いた後、不意にカミラは涙を拭うとぽつりと呟いた。その目はどこか虚ろでありながら、その奥底に狂気の色を隠し持っていた。
『そんなに都合よく人がいなくなる訳がないだろう?』
ロージャはカミラを刺激しないよう、用心しながらそう諭した。
『……ねえ、血月花の話を覚えてる?』
ぞっとするような笑みを浮かべ、カミラがロージャを見た。ロージャは我知らず唾を飲み込むと躊躇いがちに頷いた。
いつだったかカミラの実家の庭に咲く白月花を見ながら、彼女が語った半ば伝説の花の話をロージャは覚えていた。
『血月花はね、本当に咲くのよ。血月花は白月花の命を食い尽くして咲くの。血月花が咲いた朝には、全ての白月花が枯れ落ちるのよ。私、子供の頃に一度だけそれを見たわ』
そう語るカミラは、夢を見ているようにうっとりと自分の言葉に酔っていた。
『私は誰にも何も言わず、血月花を摘み取ってその根を掘ったわ。誰かがそれを見つけるのが怖かったのよ』
『そ、それで君はそれをどうしたんだい?』
『どうもしないわ。ただ、誰にも見つからないようにそっと机の引き出しに隠しただけ。……そうよ、どうして忘れていたのかしら』
そう言うとカミラは妖艶に笑った。
『ねえ、明日一緒に実家へ行きましょうよ。この間ソニエ伯爵夫人から頂いた、珍しいお茶を持って』
カミラが何をするつもりなのか、ロージャは気付いた。すうっと手足の先から冷たいものが這い登って来るような心地がした。
『約束よ、私達夫婦だけの、秘密の約束』
カミラは血の滴るような赤い唇を、そっとロージャの唇に重ねた。
「カミラは悪魔のような女だった。自分の妹に毒を盛ろうとしたんだ!」
ロージャは怒鳴ると、力任せに少女を突き倒した。
「僕だって最初は半信半疑だったさ。そんな血月花なんて迷信もいいところだ! それでも、もし万に一つでもそれが真実だとしたら。もしマリエが死んでしまったら。そう思ったらああせずにはいられなかった!」
石畳の路地に倒れた少女に、ロージャは馬乗りになるとその首に両手を掛けた。
「カミラは実家へ行くと、隠し場所から血月花の根だという小汚い植物の根を持ち出して、僕に見せたよ。そしてそれをマリエの目を盗んで彼女のカップに仕込んだんだ! だから僕は二人に気付かれないように、そっとマリエとカミラのカップを入れ替えたんだ! 血月花の毒なんて馬鹿げているけれど、もし本物だとしたら、死ぬのはカミラの方だ!」
一息にそう言い終えると、ロージャは少女の首に掛けた両手に力を込めた。一瞬少女の無表情な顔に苦痛の色が浮かぶ。
「ははっ! そうだよな、殺される瞬間っていうのはこんな風に苦しむものさ! けどカミラは眠るように死んだ。あの血月花の毒は、本物だったんだ!」
ロージャは笑みさえ浮かべて自分の体の下敷きになっている少女を見た。まるでそこに横たわっているのは、妻のカミラのような気がした。ロージャは更に力を込めた。
「――僕は半年待った。あのつまらない金を使う事にしか興味が無い女の喪が明けるのを。そしてようやく今日、マリエとの結婚が教会から許されたんだ! あの父親ときたら、自分の娘を子爵夫人にする事しか頭にないとくる。カミラが死ねば次はマリエを僕の後添えに差し出すと自分から言い出したよ。僕には願ったり叶ったりだったさ!」
動かなくなった少女に向かって、ロージャは嬉々として話し続けた。
「ああマリエ。とうとう僕のものになるんだ。あの亜麻色の髪に口付けるのをどれだけ待ち望んでいたか! 卑しい商家の二男坊なんかにやるには惜しい娘だ。あの婚約が調う前にカミラが死んでくれて助かったさ!」
その時、石畳に転がったままのファロの炎が一際大きく揺れて、ロージャと少女の影を不気味に浮かび上がらせた。まるで生き物のようにうごめくそれらに、ロージャは一瞬気を取られた。
「――そう。それがあなたの本心なのね」
動かなくなっていたはずの少女の唇が微かに動き、そう言葉を紡いだ。「ひっ」とロージャは少女から飛退く。
ゆっくりと少女が身体を起こし、ロージャを見た。その顔はまるで人形のように無表情で、それがより一層ロージャに恐怖を与えた。
「お、お前……! し、死んだはずじゃ」
確かにロージャの体の下で、少女は動かない死体となっていたはずなのに。ロージャは信じられない思いで目の前の少女から逃げるように後じさる。
『誰が死んだっていうの、あなた――』
少女の唇から、少女のものではない声が漏れた。
「カ、カミラ!」
間違えようもない、死んだ妻の声。ロージャは恐怖に腰を抜かした。
『どうして私を殺したの? どうしてマリエと結婚するの? あなたなんて私がいなければ、ただの落ちぶれた役立たずでしかないのに――!』
クワっと開いた血濡れたような赤い唇。妖艶な美貌は怒りに染まり、悪魔を讃える魔女のごとき禍々しさへと変貌を遂げる。
少女であったはずの体は何故か死んだカミラのそれにかわっていた。
「うわあっ! ゆ、許してくれカミラ! 本当に君を殺す気なんてなかったんだ! あの毒が本物かなんて僕にはわからなかったんだ! 許してくれ!」
ロージャは腰を抜かしたまま両手だけで這うようにカミラから逃げようとする。
『逃がさないわ。あなたは私の夫よ。マリエになんて渡さない。一緒に地獄へ行きましょう。それがあなたに相応しい場所よ』
カミラは笑った。生前の美しさはそこには片鱗もなかった。ただ、禍々しい醜悪さがあるだけだった。
「い、嫌だ! 助けてくれーっ!」
ロージャが叫んだ。その途端ファロの中から覆いを突き破るようにして炎が噴き出す。
「うわああああっ!」
血のように赤い炎だった。炎は辺りを同じく赤く染めると、ロージャを頭から飲み込んで更に大きく膨れ上がった。そしてゆっくりと咀嚼するように何度か瞬きを繰り返すと、炎は元のファロの覆いの中へと戻っていった。その後にはロージャの姿は跡形もなかった。
『……憐れなマリエ。これで約束は果たしたわ。あんたが命を懸けてまで望んだ約束よ』
カミラはそう呟くと、今しがたロージャを飲み込んだ炎の宿るファロを手に取った。
『ファロティエ。これでもう私に用は無いはず。さっさと私達を地獄へ送るがいい』
侮蔑を含んだカミラの声が言う。
「お望み通り地獄へ送り返してあげるわ。さあ、夫を道連れに連れて行くがいいわ」
そしてその同じ口が、今度は少女の声でそう答えた。
すっかり少女の姿を取り戻したファロティエの少女は、手の中のファロの上部にある空気穴からそっと息を吹き込んだ。途端にファロの光が消え失せ、辺りは闇に沈んだ。
「さあマリエの魂よ。次の罪人の魂を飲み込むまでの間、今度はあなたが私のファロよ」
少女の持つファロの覆いの中で、再び炎が灯った。
「……心配する事はないわ。人間は愚かだから、すぐに次の罪人は見つかるはずよ」
少女がファロの中の新しい炎に話し掛けると、炎は頷くように小さく揺れた。
翌日イッシャー子爵家の嫡男であるロージャの婚約者マリエが、自室で息を引き取っている所を発見され大騒ぎになった。
彼女の遺体の右手の甲には、赤い二枚の花弁の花が描かれていた。それは白月花に似た、現実には存在しない幻の花だという。
そしてその同じ日から、マリエの婚約者であるロージャも姿を消していた。
二人の間に何があったのか知る者は誰もおらず、邪推だけが世間を一人歩きすることになるのだった。
満月でもないのに滴るような赤い月の夜は、不用意に出歩かない方がいい。照灯持ち(ファロティエ)でさえベッドで毛布を被って夜明けを待つのさ。
それは何故かって? よくお聞き。そんな赤い月の夜は、地獄の炎を宿したファロを持つ闇のファロティエが、愚かな罪人を地獄へと連れて行く為の門が開くのさ――
ありがとうございました。