『お前の絵は壁の染みだ』と塗り潰した婚約者が、3年後に国宝を壊した罪で裁かれた件
これは、後から人づてに聞いた話だ。
白い壁の下から、色が現れた。
鮮やかな群青。金箔の残光。そして——人の顔。
王立美術院の鑑定官が、手を震わせて振り返った。その老人の瞳に浮かんでいるのは、驚愕でも歓喜でもない。純粋な畏怖だった。
「——これを、塗り潰したのか」
鑑定官の声は掠れていた。まるで自分が言った言葉の意味を、自分自身がまだ受け止めきれていないように。
私はその場にいなかった。だから後から聞いたとき、涙が出た。嬉しかったからではない。ようやく、あの壁画が息を吹き返したのだと思ったからだ。
でも、この話をするには、もう少し前に戻らなくてはならない。
三年前——私が「壁の染み」と呼ばれた日のことから。
私はルッツ家の末娘に生まれた。
ルッツ家は代々、シュヴァルツフェルデン王国の宮廷画師を務める家柄だ。父の膝の上で初めて筆を握り、壁画に使う天然顔料の匂いの中で育った。物心がつく前から、私の世界は絵の具の色と壁の手触りでできていた。
十代で父の助手になった。王城の大壁画の間——建国期に描かれた壁画が残る、王国でもっとも古い部屋。そこが私の仕事場だった。
壁画の修復というのは、気の遠くなるような仕事だ。
まず、二百年前の顔料を再現しなくてはならない。天然の鉱石を砕き、膠と混ぜ、古い壁画の色と一ミリの誤差もなく合わせる。
群青に使うラピスラズリは、同じ鉱山から採れたものでも色味が違う。砕き方、混ぜる温度、水の量——すべてが違えば、別の青になる。
私は朝から晩まで、石を砕いていた。
小さな乳鉢に鉱石を入れて、擂り潰す。指先が痺れるまで。青い粉が爪の間に入り込み、洗っても落ちなくなる。右手の薬指には、金箔を定着させるときについた金粉の跡がいまだに残っている。
金箔の修復は、壁画の仕事の中でもっとも神経を使う作業だ。薄さ一万分の一ミリの金箔を、壁面に定着させる。息を止め、指先の温度だけで箔を押さえ、膠液との接着面を密着させていく。
一瞬でも手が震えれば、金箔は皺になり、半日の作業がやり直しになる。
冬は特につらかった。大壁画の間は暖炉がないから、指先が凍えて感覚がなくなる。けれど手袋をつければ金箔の感触がわからない。だから素手で——かじかんだ指先で、一枚ずつ、一枚ずつ。
その金箔の作業中に、壁の最下層に異常を見つけたのだ。
修復のために壁面の状態を指で確かめていたとき、膠の層の下に——もう一層、別の絵の具の層があることに気づいた。二百年前の壁画のさらに下に、もっと古い層がある。
心臓が跳ねた。
これは——建国期のものではないか。
すぐに報告したい衝動を抑えた。中途半端な段階で人の手が入れば、下層が損なわれる。まず保護処理を完了させなくては。
私はその日から、上層の修復と下層の保護を同時に進めるという、途方もない作業に取り掛かった。
誰にも言わなかった。まだ確証がなかったから。そして——あの日が、来てしまったから。
でもそれは、もう少し先の話だ。
父が死んだのは、五年前のことだ。
四十年間、一枚の壁画と向き合い続けた人だった。棺に入った父の指先は、私と同じように絵の具で染まっていた。最期まで。
父の後を継いで正式な宮廷画師になった私は、王城の壁画すべてを一人で管理することになった。面積にして数百平方メートル。崩落を防ぐための温度管理、湿度管理、定期的な修復。
その全てが、二十歳そこそこの娘ひとりの肩に乗った。
楽しかった。
壁画というのは、ただの絵ではない。二百年の時間が塗り重ねられた歴史そのものだ。
建国期の画師が込めた祈り、戦乱期に急いで描かれた補修の跡、平和な時代に加えられた装飾——壁の一枚一枚が、この国の記憶を語っている。
私はその記憶を、守りたかった。
だから毎日、壁と対話した。古い亀裂を指で辿り、剥落しかけた絵の具を膠で補強し、失われた部分を推測して描き足した。
透視図法の復元には数学が必要で、壁画のわずかな残滓から元の遠近法を解析し、消えた部分の構図を再構成する。
それは、誰にも見えない仕事だった。
完璧に修復された壁画は、修復されたことすらわからない。それが最高の修復だ。だから誰も気づかない。
壁が崩れかけていたことも、色が褪せていたことも、私が毎日十時間以上壁の前に立っていたことも。
ヴィクトル様は、特に気づかなかった。
ヴィクトル・ハルシュタット公爵子息。
私の——元婚約者だ。
婚約は政略的なものだった。ルッツ家は宮廷での地位こそあったが、財力はない。ハルシュタット公爵家は裕福だったが、文化的教養に乏しかった。双方の家にとって都合のいい縁組だったのだろう。
私自身は、婚約にあまり関心がなかった。正直に言えば。壁画の修復に夢中で、社交の場に出る暇もなく、ヴィクトル様と顔を合わせるのは月に数度あるかないか。
彼はいつも高価な衣装を着ていた。金糸の刺繍が入った正装に、きらきらと光る装飾品。私の作業着のリネンのワンピースとエプロンとは、別世界の人間のようだった。
最初の頃は、彼なりに私を理解しようとしていたのかもしれない。
「ルッツ嬢。その……壁の仕事は、いつ終わるのかな」
あるとき、大壁画の間を訪ねてきたヴィクトル様がそう訊いた。靴先で床を打ちながら、壁を見上げるでもなく。
「あと半年ほどかかります。この区画だけで、ですが」
「半年? たかが壁の塗り直しに?」
「塗り直しではありません。修復です。二百年前の顔料と同じ色を——」
「ふうん」
彼の視線は私ではなく、窓の外を向いていた。
「社交の場にはいつ顔を出すつもりだ? 父上から催促が来ている。ハルシュタット家の嫁になるなら、最低限の付き合いはしてもらわないと困る」
「申し訳ありません。この修復が落ち着きましたら——」
「いつも『落ち着いたら』だな。壁の前に立つことばかりで、婚約者の顔も見ないとは」
「……この壁画は、あと少しで——」
「壁画、壁画、壁画。金にもならん遊びに、いつまで入れ込んでいるんだ」
「遊びではありません」
珍しく、言い返してしまった。ヴィクトル様は一瞬驚いた顔をして、すぐに冷たい笑みに変わった。
「ほう。口答えするようになったか。まあいい、好きにしろ」
それが、最後のまともな会話だったかもしれない。
ヴィクトル様にとって、金にならないものには価値がなかった。壁画は金を生まない。壁画修復は人目を引かない。だから、遊びなのだ。
公爵家の嫡男として育てられた彼には「父上に恥をかかせるな」という教えだけが背骨に刻まれていた。文化的教養のない家庭で、芸術は遊戯と同義だった。彼を責めるのは酷かもしれない——けれど、理解してもらえなかったという事実は変わらない。
やがて彼は、社交界の華やかな令嬢たちに心を移した。
無理もないと思う。私は社交の場で気の利いた会話ができるような人間ではない。彼が求めていたのは、公爵家を華やかに彩る妻であって、壁に向かって石を砕き続ける女ではなかった。
だから、あの日のことも——予感がなかったわけではない。
「お前の絵は壁の染みだ」
大壁画の間で修復作業をしていた私の背後に、ヴィクトル様は立っていた。灰色の瞳が、冷たい軽蔑を含んで私を見下ろしていた。
「いい加減、遊びはやめろ」
遊び。
二百年の歴史を守る仕事を、彼はそう呼んだ。
「画師の娘と結婚するなど、父上に知れたら恥だ。婚約は破棄する。この城から出ていけ」
私は何も言えなかった。言葉で自分を表現するのは、昔から苦手だった。筆を握れば饒舌になれるのに、口を開くと言葉が喉の奥で固まってしまう。
本当は、言いたいことがあった。
この壁画がどれほどの歴史を背負っているか。この絵の具の一粒がどれほどの時間をかけて作られているか。あなたが「壁の染み」と呼んだものの下に、この国の始まりが眠っていること——。
でも、言葉にならなかった。いつもそうだ。いちばん大事なことを伝えたいときに限って、声が固まる。
だから——ただ、筆を置いた。
静かに、壁画の前に筆を置いて、エプロンを畳んで、王城を出た。
城門を出るとき、足が止まった。
振り返ったら、たぶん泣く。それだけはわかっていた。壁画のことが頭から離れなかった。あの金箔の修復は、あと三日で完了するはずだった。
けれど振り返らなくてはならない理由が、ひとつだけあった。
ヴィクトル様が使用人に命じている声が、背中越しに聞こえたのだ。
「白く塗り潰せ。あの薄汚い壁画を見るたびに不愉快だ」
振り返った。
使用人が、白い塗料の入った桶を運んでいくのが見えた。私が二年かけて修復してきた壁画に向かって。
声を上げようとした。やめてください、と。あの壁の下には——。
言葉が出なかった。
筆ならどんなことでも表現できるのに。色と線ならこの世界のすべてを語れるのに。声だけが、いつも私を裏切る。
あの壁の下には、建国期の壁画がある。ルッツ家の始祖が描いたと思われる、古い古い絵が。
保護処理は完了していた。報告は、周辺の調査を全て終えてからにするつもりだった。だから誰も知らない。あの壁の最下層に何が眠っているか、知っているのは私だけだ。
私は城を追われた。
そしてあの壁は、白く塗り潰された。
保護処理は施してある——だが、白い塗料の溶剤が保護膜を侵さないという保証はない。
あの夜、宿屋の狭い部屋で、私は初めて声を出して泣いた。自分のためではない。壁画のために。
辺境の村エアデにたどり着いたのは、王都を出てから馬車で五日目のことだった。
五日間の旅路は、長かった。
乗合馬車は辺境に向かうほど乗客が減り、最後は私ひとりになった。
「このまま終点まで行くのかい」
御者に訊かれて頷くと、呆れたような笑い声が返ってきた。
「酔狂な嬢ちゃんだ。エアデに何があるってんだい」
「……教会が、あるそうです」
「ああ、あの崩れかけのかい。もう誰も使っちゃいないよ」
小さな村だった。石造りの家が数十軒、丘の斜面にしがみつくように建っている。空気が澄んでいて、吸い込むと肺の奥まで冷たい清涼感が広がった。
教会は、御者の言葉通りだった。屋根は半分落ち、壁には蔦が這い、扉は朽ちて地面に倒れていた。
けれど——壁を見た瞬間、私の指先が疼いた。
この壁は、絵を待っている。
父はそれを「壁が呼んでいる」と言っていた。絵描きにしかわからない感覚だと思う。壁や画布が「ここに描いて」と囁いてくるような、そういう感覚が確かにある。
エアデの教会の壁は、私を呼んでいた。
ただ、問題はあった。画材がない。
王城から追い出されたとき、私は何も持ち出せなかった。筆も、顔料も、金箔も、膠も。手元に残ったのは、着の身着のまの服と、わずかな路銀だけだ。
でも——絵の具がなければ作ればいい。
ルッツ家の画師は、もともと天然素材から顔料を作ってきた一族だ。大地が与えてくれるものだけで、絵を描く。それが、ルッツ家の矜持だった。
辺境の赤土は、焼くと深い赤褐色になった。砕いた貝殻は、やわらかな白。炭は、どこにでもある。濃淡をつければ灰色にも銀色にもなる。
野花の汁は、思いがけない色をくれた。エアデの丘に咲く青い花を搾ると、透き通るような藍色が生まれた。ラピスラズリの群青には及ばないけれど、この土地にしかない青だった。
膠の代わりには、村の羊飼いから分けてもらった羊の皮を煮た。
「嬢ちゃん、うちの羊の皮でいいのかい」
「ありがとうございます。煮詰めれば、絵の具を壁に定着させる接着剤になるんです」
「はあ、絵を描く人の考えることはわからんね」
笑いながら皮を分けてくれた羊飼いの好意が、ありがたかった。
筆は——エアデの山羊の毛を、細い木の枝に括りつけて作った。太くて、毛先が揃わなくて、扱いにくい。でも、描けた。
壁の下塗りに三日。構図を決めるのに一日。そこから——聖女の壁画を描き始めた。
朝、日の出とともに教会に入り、日が暮れるまで壁の前に立った。食事を忘れることもあった。
「あんた、食べないと倒れるよ」
村の老婆が、パンとスープを持って教会に現れた。
「こんなに没頭して。絵を描くってのは、そんなに楽しいのかい」
「……楽しい、とは少し違います。壁が、待っているので」
「壁が待ってる? 変わった嬢ちゃんだねえ」
老婆は笑ったけれど、それから毎日、黙ってパンを置いていってくれるようになった。
壁画が少しずつ形になっていくと、村の人たちが覗きに来るようになった。
「おい、見てみろ。壁に顔が浮かんでるぞ」
「あれ、聖女様じゃないか?」
「余所者の嬢ちゃん、ただの絵描きじゃないのかもしれんな」
声をかけられるたびに、うまく返事ができなかった。ただ頷いて、壁に向き直る。それでも、背中に感じる視線は温かかった。
テオドールさんが教会に現れたのは、壁画を描き始めて二ヶ月目のことだった。
朝、教会の入り口に見知らぬ男性が立っていた。砂色の短髪に、日焼けした肌。痩せ型で、革のベストに麻のシャツ。大きな手の爪の間に、石膏の白い粉が残っている。
「すみません、この教会の修復調査に来たんですが——」
彼はそこで言葉を切った。
壁画を見たからだ。
しばらく、何も言わなかった。感動すると黙り込む癖があるのだと、後から知った。
一分。二分。三分。
長い沈黙だった。私は筆を持ったまま、彼の反応を待った。
彼の目に、涙が浮かんだ。
「……すごいな」
掠れた声だった。
「この絵、壁が呼吸してるみたいだ」
壁が、呼吸してる。
その言葉を聞いた瞬間——私の中で、何かがほどけた。
ヴィクトル様は「壁の染み」と呼んだ。テオドールさんは「壁が呼吸してる」と言った。同じ壁を見て、同じ絵を見て、こんなにも違うことを言う人がいる。
言葉が出なかった。私もまた黙り込んで、ただ頷いた。泣きそうになるのをこらえて。
テオドール・マイスナー。王立建築院を首席で卒業した、若い建築修復士。都会の新築案件には見向きもせず、辺境に散在する古い建築物の修復を生業にしている変わり者だと、後から自己紹介された。
「僕はこの教会の屋根と柱を直しに来たんだ。でも——」
彼は壁画をもう一度見上げた。
「この建物は、絵のために残したいな」
それから、テオドールさんは教会の隣に仮設の作業小屋を建てて、修復を始めた。私が壁画を描き、彼が建物を修復する。同じ場所で、同じ目的のために、別々の仕事をする日々。
「ねえ、エレオノーラさん」
ある日、彼が設計図から顔を上げて言った。
「この教会の壁、もともとの漆喰がすごくいい状態なんだ。石灰岩の配合が絶妙で、湿気を吸っても崩れにくい。だから君の絵がこんなに壁と馴染むんだと思う」
「……そうだったんですか。この壁は、最初に触ったときからどこか違うと思っていました」
「うん。壁画っていうのは、建物の魂みたいなものだと僕は思ってる。どんなに構造が立派でも、壁に何も描かれていなかったら、ただの石と木の箱だ。逆に、壁画がある建物は——生きてるんだ」
建築の話になると饒舌になる人だった。私が絵の話で饒舌になるのと同じように。
「ルッツ家の画師は、壁が絵を呼んでいると信じています。父がそう教えてくれました」
「壁が呼んでるって感覚、僕にもわかるよ。古い建物に入ると、柱が『ここを直して』って言ってるみたいに感じることがあるんだ」
「テオドールさんにもわかるんですね。それは——とても嬉しいです」
「建物も壁画も、残りたがってるんだろうね。僕らの仕事は、その声を聞くことなのかもしれない」
同じ感覚を持つ人に、初めて出会った。
テオドールさんと作業する日々の中で、壁画は少しずつ形を変えていった。
「エレオノーラさん、聖女の右手の下の壁、少しひび割れてたから補修しておいたよ」
「ありがとうございます。ちょうどそこに光輪の延長線を描こうと思っていたんです」
「光輪? ああ、だから円弧の荷重がかかるのか。ならもう少し厚めに漆喰を重ねておくね」
彼が修復した壁の表面は驚くほど滑らかで、絵の具の乗りが全く違った。
「この部分、下地を補強しておいたから。君の描きたい構図に合わせて、壁の強度を変えてあるよ」
「……わかるんですか? 私が次にどこを描くか」
「設計図を引くとき、君の筆の動きが見えるんだ。面白いよね。僕らは全然違うことをしてるのに、壁を通じて会話してるみたいだ」
テオドールさんが来てから一ヶ月で、壁画は完成した。
聖女の顔が、壁に浮かび上がっていた。
赤土で描いた肌には、この土地の温かさが宿っていた。貝殻の白で描いた衣には、海を知らない辺境の光が反射していた。炭の黒で描いた髪には、夜の深さがあった。
そして野花の藍で描いた目には——私がこの村で初めて見上げた空の色が、そのまま映っていた。
きっと王都の美術院の基準から見れば、荒削りで素朴な絵だろう。ラピスラズリの群青なら、もっと深い青が出せた。金箔があれば、聖女の光輪をもっと荘厳に描けた。
けれど——この壁画には、王城の壁画にはないものがあった。
祈り、だと思う。
王城で私が描いていたのは「修復」だった。元の姿に戻すこと。それは大切な仕事だったけれど、自分の絵ではなかった。
エアデの教会の壁画は違う。この土地の色で、この土地の素材で、この土地の空気を吸いながら、初めて「自分の絵」として描いたもの。
私の手から生まれた、私だけの聖女。
描き終えた日、壁の前に座り込んで、しばらく動けなかった。二十二年間生きてきて、初めて——自分が何者かがわかった気がした。
壁画が完成してから、村の人たちが教会を訪れるようになった。
老婆が、壁画の前で膝をついて祈った。
子供が、聖女の顔を見上げて「きれい」と呟いた。
旅の商人が、壁画の前で足を止めて、しばらく動かなかった。そして去り際に、涙を拭いていた。
「あの教会の壁画を見ると、涙が出る」
そんな噂が、少しずつ広がっていった。いつの間にか、遠くの町からわざわざ壁画を見に来る人が現れるようになった。
「辺境の奇跡」——そう呼ばれ始めたのは、壁画が完成して半年ほど経った頃のことだ。
「エレオノーラさん、知ってるかい。隣町からわざわざ歩いてきた老人がいたよ。壁画の前でずっと泣いてた」
テオドールさんがそう教えてくれた日、私も少し泣きそうになった。
「……届いたんですね」
「届いたよ。もうとっくに」
届いた。辺境の赤土で描いた絵が、人の心に届いた。
誰にも届かないことが、私のいちばんの怖れだった。壁の染みだと蔑まれた日から、ずっと不安だった。
でも——届いた。
教会の壁画を描き終えてから、さらに二年が過ぎた。
私はエアデの村に住み続けた。教会の壁画に加えて、村の集会所の壁にも絵を描いたし、隣村の小さな礼拝堂の壁画修復も引き受けた。
テオドールさんは辺境の各地を回って建築の修復をしながら、エアデに戻ってきては教会の維持管理をしてくれた。
穏やかな日々だった。
だから、王立美術院の使者が村にやってきたとき、最初は何のことかわからなかった。
「エレオノーラ・ルッツ殿でいらっしゃいますか」
教会の前で、初老の紳士が丁寧に頭を下げた。後ろに鑑定官が二人控えている。
「王立美術院鑑定委員会の者です。このたび、こちらの教会の壁画について、正式な調査をさせていただきたく参りました」
「……どういうことでしょうか」
「『辺境の奇跡』の噂は、王都にも届いております。旅人の間で大変な評判になっておりまして。美術院としては、この壁画の芸術的価値を正式に鑑定する必要があると判断いたしました」
「王都にまで……」
「はい。美術院の会議で満場一致でした。委員長が『噂がこれほどであれば、直接確認する義務がある』と仰いまして」
そこで初めて、私は知った。あの壁画の噂が、辺境から王都まで届いていたことを。
鑑定官たちは三日間、教会に滞在した。壁画の隅々まで調べ、使われている顔料を分析し、技法を記録した。
主席鑑定官の老人——冒頭で手を震わせていたあの人だ——が、壁の前で長い時間動かなかった。
「……信じられん」
彼は壁に顔を近づけ、指先で絵の具の層を確かめながら呟いた。
「天然素材だけで、ここまでの表現を……」
「恐れ入ります。ルッツ家は代々、天然素材のみで——」
「いや、家の伝統だけでは説明がつかん」
老人は壁画の聖女の目を指差した。
「この藍色を見たまえ。ラピスラズリにも劣らぬ透明感だ。これが野花から引き出した色だと? 信じがたい」
「あの……搾り方と、乾燥の温度で色味が変わるんです。この藍色は、朝露が残っている時間帯に摘んだ花からしか出せません」
「朝露の……」
老人は目を見開いた。
「まさか。それは建国期の文献にだけ記された手法ではないか」
「父がそう教えてくれました。古いルッツ家の調合書に記されていたものです」
「ルッツ殿。あなたは技法だけでなく、ルッツ家の秘伝まで受け継いでいたのか」
別の鑑定官が、私に尋ねた。
「ルッツ殿。あなたは以前、王城の宮廷画師をされていたと聞きましたが」
「はい。父の後を継いで、大壁画の間の修復を担当しておりました」
鑑定官たちの顔色が変わった。何かを確認するように、互いに視線を交わした。
「……大壁画の間の件は、ご存じですか」
「いいえ。私はもう三年、王都を離れておりますので」
鑑定官は少し躊躇ってから、話してくれた。
私が王城を去った後、美術院は定期巡回で大壁画の間を訪れたらしい。そこで見たのは——真っ白に塗り潰された壁。
二百年の歴史を持つ壁画が、安物の白い塗料で覆われていた。
美術院は仰天した。壁画の塗り潰しを命じた人物を突き止めた。ハルシュタット公爵子息、ヴィクトル。元宮廷画師であった婚約者を追放した直後のことだった。
「調査員が白い壁を前にして呆然としたそうです。『これは……まさか、二百年の壁画を?』と」
「……塗り潰されたのですか」
「はい。美術院は直ちに壁面の復元調査を開始しました。白い塗料を慎重に除去したところ——ルッツ殿が修復されていた壁画は、塗料の下で損傷を受けていました」
私は息を呑んだ。
「しかし」
鑑定官の声が、わずかに震えた。
「さらに下層を調査したところ、驚くべきものが発見されました」
建国王アドルフ・シュヴァルツフェルデンの肖像画。
建国暦元年に描かれた——建国王の、唯一の肖像。
二百年前、その上に新しい壁画が重ね描きされて以来、誰もその存在を知らなかった。私が修復作業中に最下層の痕跡を発見し、保護処理を施していたから、奇跡的に残っていた。
「ルッツ殿の保護処理がなければ、この肖像画は白い塗料の溶剤によって完全に消失していたでしょう。あなたが施した保護膜が、建国王の肖像を守ったのです」
私は——何も言えなかった。
あの日、報告する前に城を追われたことを悔いていた。中途半端な状態で放置することになった壁画のことが、ずっと心に引っかかっていた。
でも、保護処理は生きていた。
あの壁画は——消えていなかった。
「……消えたりしません」
気づけば、声に出していた。
「絵は、消えたりしません」
その後のことは、噂が事実よりも早く走った。
王立美術院は二つの報告を同時に出した。
ひとつ——辺境の村エアデの教会壁画を、国宝候補に推薦する。制作者は元宮廷画師エレオノーラ・ルッツ。天然素材のみで描かれた当代随一の壁画芸術であり、後世に保護すべき文化財である。
ふたつ——王城大壁画の間にて、建国王アドルフ・シュヴァルツフェルデンの唯一の肖像画が発見された。当該壁画は、ハルシュタット公爵子息ヴィクトルの命により白色塗料で塗り潰されており、国家財産の故意の損壊に該当する。
社交界が、震えた。
「壁の染みだと? あれが国宝だぞ」
「宮廷画師を追い出した上に、建国王の肖像を塗り潰した?」
「ハルシュタット家は終わりだな」
噂は一晩で王都を駆け巡ったらしい。私はエアデの村にいたから、直接は聞いていない。
村の人たちが、興奮して教会に駆け込んできた。
「エレオノーラさん! 王都から来た商人が言ってたよ! あんたの絵が国宝になるって!」
「本当かい! あの教会の絵が!」
「それだけじゃない。王城で大変なことが見つかったらしいよ。あの壁を塗り潰した馬鹿な貴族の話、知ってるかい?」
テオドールが王都に用事で行った折に、もっと詳しい話を教えてくれた。
「すごいことになってるよ、エレオノーラ。王都の社交界では『壁の染み公爵』って呼ばれてる、あの男」
テオドール——この頃にはもう「エレオノーラさん」ではなく「エレオノーラ」と呼んでくれるようになっていた——は、少し複雑そうな顔で笑った。
「壁の染みだって? 君の絵が染みなら、世界は美しい染みだらけだよ」
私も少し笑った。
「……テオドール。あの人は、なぜわからなかったんでしょう」
「わからなかった、か」
テオドールは少し考えて、言った。
「わからなかったんじゃなくて、見ようとしなかったんだと思う。壁の前に立たない人間には、壁の声は聞こえないから」
「そうですね。ヴィクトル様は、一度も壁画の前に長く立ったことがありませんでした」
「君の仕事を見もしなかったのか」
「ええ。でも……もしかしたら、私がもっとちゃんと言葉にしていれば、少しは違ったのかもしれません」
「エレオノーラ。君は絵で語る人だ。それでいいんだよ。言葉にしなくても、君の壁画を見れば誰でもわかる——わかろうとする人なら」
ヴィクトル様の裁判は、美術院の報告から一ヶ月後に開かれた。
国家財産損壊の罪。建国王の唯一の肖像画を故意に塗り潰した——その罪の重さは、この国では国家反逆に準ずるとされている。
裁判の席で、ヴィクトル様はこう弁明したと聞いた。
「何がおかしい? 壁の染みを消しただけだろう」
裁判官たちの視線が、氷のように冷たかったそうだ。
傍聴席からは失笑が漏れたらしい。
「裁判官が言ったそうだよ。『ハルシュタット殿は、壁の染みの意味すら知らずに消したのか』って」
「ヴィクトル様は、何と答えたんですか」
「黙ったって。初めて黙ったんだろうな、あの人」
テオドールが教えてくれた。「壁の染み」——その言葉が法廷で繰り返されるたびに、ヴィクトル様の顔が青ざめていったらしい。
きっと、最後まで理解していないだろう。彼は自分が何を壊したのかわからないまま裁かれたのだと思う。金にならないものの価値は、彼の目には映らない。それは三年前も、今も変わらない。
ヴィクトル様には、領地の一部没収と、宮廷への出入り禁止が言い渡された。ハルシュタット公爵家は、嫡男の愚行によって、数世代かけて築いた名声を一夜で失った。
「壁の染み公爵」——その渾名は、たぶんこの先何十年も消えないだろう。
皮肉な話だ。彼が「壁の染み」と蔑んだものが国宝になり、彼自身が「壁の染み」と呼ばれるようになった。
でも、私は——復讐したかったわけではない。
むしろ、少し悲しかった。あの人にもし、ほんの少しでも美しいものを愛する心があったなら——こんなことにはならなかったのに。
けれど同時に、静かな感慨があった。ああ、あの壁画は守られたのだと。保護処理を施しておいてよかった。
それだけで、十分だった。
「エレオノーラ。裁判のことは聞いた?」
テオドールが訊いた。
「……ええ」
「どう思った?」
「……悲しいと思いました」
「悲しい?」
「ヴィクトル様は、最後まで壁の声を聞けなかった人だから」
テオドールは黙って、私の肩にそっと手を置いた。
裁判の後、王立美術院から正式な書状が届いた。
辺境の教会壁画が、国宝に認定されたという知らせだった。
私はその書状を、教会の壁画の前で読んだ。聖女の絵が、朝日に照らされて輝いていた。赤土の赤、貝殻の白、炭の灰、野花の藍——辺境の色だけで描いた絵が、この国の宝になった。
「おめでとう、エレオノーラ」
隣で設計図を広げていたテオドールが、静かに言った。
「君の絵を見て泣いたのは、僕が最初じゃないと思う。でも、最初に言葉にするのは僕でありたい」
何の脈絡もなく、そんなことを言う人だった。建築の話と同じように、感動したことを不意に口にする。
「……ありがとうございます、テオドール」
「ねえ、エレオノーラ」
彼は設計図をくるくると巻きながら言った。
「この教会の隣の区画、村長さんが使っていいって言ってくれたんだ。小さな工房を建てようと思ってる」
「工房……?」
「うん。僕の建築修復の拠点と、君の画材を作る作業場を兼ねた場所」
「テオドール、いつの間にそんな計画を……」
「実は君が集会所の壁画を描いてる頃から、ずっと考えてた。屋根はしっかりしたのを組む。壁は——もちろん、君が好きに使っていい。絵を描きたくなったら、いつでも」
彼が差し出した設計図には、小さな建物の図面が丁寧に引かれていた。採光のための大きな窓。顔料を保管する棚。壁画用の広い壁面。
そして——二人分の作業台。
私は設計図を見つめた。そして、テオドールの手を見た。石膏の粉が爪の間に残った、大きな手。
「壁の染みと呼ばれた絵が、国の宝になりました」
自然と言葉が出た。
「でも私にとっての宝は——」
テオドールが差し出した手を、私は取った。
絵の具で染まった指先と、石膏の粉が残った指先が、重なった。
教会の壁画に、朝日が射していた。聖女が、微笑んでいるように見えた。
あの壁画は、消えたりしない。
塗り潰されても、蔑まれても、忘れられても——本物の絵は、消えたりしない。
それを証明するのに、三年かかった。
でも、三年は長くなかった。絵を描く時間に比べれば、三年なんて一枚の壁画を仕上げるのと変わらない。
私はこれからも描く。テオドールが建物を直すように、私は壁に絵を描く。
崩れかけた壁に、祈りを。
朽ちかけた教会に、色を。
忘れられかけた歴史に、記憶を。
それが——壁の染みと呼ばれた画師の、これからの仕事だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話を書こうと思ったきっかけは、「芸術の価値を理解しない人が、芸術を裁く立場にいる」という構図への皮肉を描きたかったからです。
壁画修復という仕事は、完璧にやるほど「誰にも気づかれない」矛盾を抱えています。修復の痕跡が見えないことこそが最高の仕事なのに、見えないものには価値がないと断じる人がいる。「壁の染みだ」という台詞は、目に見えない労働への無理解そのものです。
そして、その「壁の染み」が国宝だった——という反転構造。エレオノーラの「消えたりしません」という台詞は、この話で一番書きたかった一言でした。
テオドールの「壁が呼吸してるみたいだ」も気に入っています。ヴィクトルの「壁の染みだ」との対比で、同じ絵を見てもこんなに違うことを言える人がいるんだよ、という希望を込めました。
ここまで読んでくださった皆さまに、心からの感謝を。
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