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さよなら、ポメラニアン

作者: 鈴々ꕤ︎︎
掲載日:2025/12/04

ぼくが生まれた日のことは、もうよく覚えていない。ただ、ふわふわした毛の温もりに囲まれ、同じ匂いの兄弟たちにくっついて眠ったことだけは思い出す。

やがて兄弟たちは一匹、また一匹とどこかへ運ばれ、最後にぼくも抱き上げられた。連れていかれたのは、光に満ちた場所――ペットショップだった。

そこには、ポメラニアンの子犬だったぼくが入るためのガラスの箱が用意されていた。

最初は何が起きたのか分からず、母犬を呼ぶように鼻を鳴らした。けれど、返事は来なかった。

日が昇るたび、人間たちが前を通った。ガラスに顔を近づける人。ちらっと見るだけの人。ぼくは、ただ必死に尻尾を振った。

だれかに、見つけてほしくて。


ある日、一人の男性がじっとぼくを見つめて、店員さんに言った。

「この子……抱かせてもらえますか?」

ぼくを抱き上げた男の人の腕は大きくてあたたかい。心臓の音が、ぼくの小さな体に伝わってきた。

「この子にしよう」

その言葉が、ぼくに初めての世界を見せた。そして男の人はぼくに名前をくれた。

『ルル』。それが、ぼくの最初の名前だった。

ぼくはこの名前が大好きだった。だって、呼ばれるたびに彼が笑顔になったから。

家は広くて、庭は走るたびに風がぼくの毛をなびかせた。

「ルル、こっちだぞ!」

呼ばれれば嬉しくて、ぼくは転がるように走った。夜になると、ぼくは彼のベッドの隅で丸まり、彼の寝息を聞きながら安心して眠った。

けれど、幸せは永遠ではなかった。


ある日から、彼の匂いが変わった。焦ったような、苦しいような、前にはなかった匂い。

電話の声は荒れ、机を叩く音が増え、ぼくが近づくと「あとでな……」とだけ言って手を離した。ぼくは理解はできないけれど、感じていた。

なにかが壊れていく匂い。

段ボールが家中に積まれ、家具が運ばれていった。

そしてある夜、彼はぼくを抱きしめて言った。

「ルル……ごめんな。守れなくなった」

震える声。ぼくの背中に落ちる雫。彼を舐めても、悲しみの匂いは消えなかった。


ぼくは鉄の檻に入れられた。

周りでは知らない犬たちが吠えていた。怖くて、ぼくはすみっこに縮こまった。

ここは、音が痛かった。匂いも、すべてが不安を連れてきた。

ぼくはずっと、扉が開くのを待っていた。

あの人が迎えに来てくれる気がして。


――ある日、扉は開いた。

でも、中に立っていたのは白髪の老婆だった。

「まあ……なんて優しい目をしてるの」

その声は柔らかくて、保健所の冷たい空気を溶かした。


その日から、ぼくはまた家族を得た。そして、新しい名前をもらった。

『ムギ』……不思議な響きだった。家族として迎え入れられるのは嬉しかった。けれど、心の奥では、ぼくはまだルルのままだった。

新しい名前を呼ばれるたび、胸の中で小さなざわめきが起きる。ぼくはもうルルじゃないのだと、少しだけ寂しくなった。


老婆の家は大きくなかった。

だけど、どこもかしこも温かかった。

彼女はぼくに一日中話しかけてくれた。

「ムギ、今日はさつまいもを蒸すよ。好きだろう?」

「ムギ、この番組面白いねぇ」

「ムギ、寒いかい?こたつにおいで」

ゆっくり歩くその背中は、小さいのに安心できた。夜はふとんの中で一緒に丸くなって眠った。

この人のそばにいたい。

ぼくはそう思っていた。


穏やかな日々の中で、ムギと呼ばれることに安心を覚えるようになった、そんなころ。

その朝、彼女はいつものようにぼくの名前を呼ばなかった。

肩をつついても、手を舐めても、彼女はもう動かなかった。

ぼくは一日中、泣くように鼻を鳴らしていた。


老婆の葬儀の日、たくさんの人が来たが、ぼくに声をかけたのは若い女の人だった。

「ムギ、おばあちゃんに代わって、私たちが面倒見るね」


ぼくはまた家を失い、また家を得た。

今度は、名前は変わらなかった。

ムギとして呼ばれ続けることに、どこか安心した。

新しい家族の手はあたたかく、声はやさしかった。


若い夫婦の家は賑やかで、笑い声がいつもあった。料理の匂い、音楽、二人の会話。

ぼくはその輪の中で静かに座り、ただ安心していた。

やがて、家に新しい匂いが加わった。赤ちゃんだ。

泣くとぼくはそばに行って、小さな手を舐めた。すると泣きやんだ。

夫婦は笑って言った。「ムギはいいお兄ちゃんだね」

赤ちゃんは成長し、ぼくの背中に触れたり、よちよち歩きでつまずいてぼくにもたれかかったりした。痛くても、ぼくは絶対に怒らなかった。

この子を守らなきゃと思ったから。


ぼくは老いてしまった。階段の上り下りが辛くなり、目も少しぼやけてきた。

でも、みんな優しかった。ゆっくりでいいよ、と言ってくれた。

ある夜、子供――もう赤ちゃんではない――が、ぼくの寝床の横で囁いた。

「ムギ、ずっといっしょにいてね」

その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。

長くはもう、そばにいられない。

そう、悟っていた。


その晩、ぼくは珍しく苦しくなかった。ふわふわと体が軽かった。

遠くで誰かの声がする。


初めて抱き上げてくれた男の人の声。

あの優しい老婆の声。

若夫婦の笑い声。

子どもの「ムギー!」という声。


全部が、やさしく混ざった。


ぼくは子供の手に鼻を押し当て、最後の力で尻尾をふった。

だいすきだよ。

言葉にはできないけれど、気持ちを全部こめて。


そして……目を閉じた。

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