「砂漠」「辞書」「書く」
ここはとある砂漠。
太陽はギラギラ、砂はサラサラ、肌はジリジリ。そんなところをろくな荷物も持たずに男が一匹歩いている。もちろん当然、この男は現在遭難の真っ最中なのだった。
「やれやれ。まさか床の抜ける飛行機なんてものがこの世に存在しているとはなあ。まったく、俺という男はつくづく運が悪い」
具体的には上空200メートルからフリーフォールしたのである。しかし落ちる途中で尻の下に敷いてしまった滑空中のハゲワシが、うまい具合にがんばった結果、砂丘に高い砂煙こそ上げることになったものの、男は怪我の一つも負わずに「痛い」のひと言程度で無事に着陸できたのであった。
男の人生はいつもこんな事ばかりだ。前触れもなく信じられないような悪運に襲われては、やはり前触れのないとんでもない幸運に救われる。
「結局助かるからって無責任な他人は『運が良い』などとぬかすが、俺に言わせれば何事もない人生を送れる人間の方がよほど運が良い。不幸ありきの幸運に恵まれるくらいなら、最初から何事も起こらない方がよっぽど幸せというものだ」
しかも救ってくれる幸運だって不幸の全てを帳消しにしてくれるというわけではない。むしろ強いのは不幸側で、トラブルに見舞われる度に、男の人生はじわりじわりと悪くなっていくのである。この間などとうとう『申請が多すぎる』という理由で、保険会社に契約更新を断られてしまった。
「今回のことだって、どうせ何かしらが俺のせいにされるに決まっている。こんな半端な幸運なら、いっそ訪れない方がさっぱり死ねるというのに。俺の人生、ゆっくりゆっくり潰されていっいるようなものだ。そらきた、早速オアシスが見えたぞ。今回はどうやらあそこで助けを待てということだな」
そのオアシスには新鮮な水がたっぷりとあり、男はそこで心ゆくまで飲んで、浴びて、砂漠の暑さと乾きをすっかり忘れることができたのだった。
しかし砂漠の過酷さとは、なにも暑さと乾きに限ったことではない。
夜の砂漠は冷える。耐え難いほどに冷える。ところによっては氷点下に至る事だってあるのだ。それはもう用意を油断して行けば容易く凍死ができる程度には冷える。
日が沈み、急激に冷え込み始めた気温に鳥肌の立つ腕をさすりながら男は呟いた。
「おかしいな。今までの調子ならそろそろ助けが来ても良い頃合いなのだが」
しかし砂漠をいくら見渡しても、そこには砂丘があるばかり。偶然演習に訪れていた軍隊や、たまたま砂漠に生息していた人に親切なロック鳥といった助けの手は見当たらない。
その事実を認めると、なにやらいっそ清々した気分になって、男は冷たい砂地に寝っ転がってしまった。
「これは、今日まで俺を苦しめてきた幸運の野郎も、とうとうガス欠を起こしたということかな。人生とは幸運の総量が決まっているとも言うし。いや結構。どうせ先細りするだけの人生だったのだ。いつまでもしがみついているより、いっそさっぱり終わってしまう方がスッキリするというものさ。幸い凍死は苦しまないと聞く。眠るように死ねるだろう」
そう言うと男は目を瞑った。
ところが、人の思うようには転ばないのが人生という奴の嫌らしさ。
さあ寝ようと転がったはいいが、男が寝ようと考えれば考える程に、その目が段々冴えてくる。閉じた目蓋の裏に様々なことが思い浮かんで来てしまう。読んでいない漫画の続き。今月の家賃の払込。あれ、旅行に出る前ガスの元栓は閉めて出ただろうか。1分と経たずに目が開いた。神経が昂って、目を閉じていられなくなってしまったのだ。
男は悔しそうに吐き捨てる。
「ええい。生きることが下手くそな奴は死ぬことさえ下手くそということか。しかし、俺はやるぞ。今こそやるぞ。人生の最期くらいは自分の思ったように締めくくってやる」
強く強く決意して、男は再び目を閉じた。今度は目蓋の裏で羊を数え始める。そうするとよく眠れると、物の話で聞いたからだ。
しかし、決意とは眠りとまったく逆の状態だ。水と油。決意して人が眠れるものなら、寝不足で遠足に参加する子供はいない。おまけに寒さが身を震わせる。眠気はまったく訪れない。
100も数えないうちに男は再び目を開けてしまった。
「まず、眠るためにはこの神経を鎮めてしまわないとダメだな。星空でも見上げて心を落ち着けようか」
そうして見上げた夜空には、男がこれまでの人生で拝んだ事のないような満天の星が広がっていた。星の光で夜が明るい。電気の灯りに慣れきった現代人の目には、地上を照らす程明るい星々がひしめく夜空が、まるで異世界の空のように映る。
夥しく瞬く星の中から、いつしか男の目は知っている星を探し始めていた。きっとあれがアルタイル、デネブ、ベガ。
「ダメだダメだこうじゃない。こんな超自然的な星空を見上げてたって眠る気分になれるものか! 砂漠の夜空はコンテンツ力が高すぎる!」
こうしていよいよ目の冴えてきてしまった男は、とうとう横になるのを諦めて立ち上がってしまった。
犬のようにぐるぐるとその場を歩き回り、なにか眠剤に使えるようなものはないものかと、体を手探りし始める。
と、男は胸のポケットに入っていた厚みのある何かに気が付いた。
取り出して、星明りにかざしてみると、それはどうやら辞書だった。
「そうか。そういえばこの国に来た時、空港で買い求めたのだったな」
邦語訳が載っている現地語辞書を持ち歩けば、会話の伝わらない外国でも意志を伝えることができる。そんなことを考えて買ったのだが、それきり存在を忘れていたのだった。
男はふと、いい事を思いついた。
「そうだ、こいつを読もう。興味のない活字の羅列ほど眠気を誘うものはない。思った役立ち方ではなかったが、人間なんでも買っておくものだな」
男は早速、辞書を開いて星明りを頼りに読み始めた。
辞書は現地語で書かれており、その横に邦語訳の意味が載っている。
辞書の最初は、こういう言葉から始まった。
【馬鹿め】
のっけから罵倒で始まるとは、中々ロックな辞書だ。
とはいえ、引き順は現地語が基準になるので、こういうこともあるのだろう。
次の言葉に目を進める。
【許しを乞え】
何分外国の辞書だ。外国人に文句を付けられる筋合いなどあるまい。
次の項目に目を進める。
【俺の靴を舐めて助けて欲しいと言え】
「一体なんなのだ、この辞書は!?」
思わず叫んで前書きを検めてみれば、なんとそこには『常用罵倒語訳集』とある。
なんでもこの国は罵倒の表現がとても豊富で、それだけで辞書が一冊作れる程の語彙があり、そして実際纏めて辞書にしてしまったものがこれなのだという。
辞書の帯には『滞在必携の一冊』と邦語で書かれていた。
「本当にこれが一冊丸ごと罵倒なのだとしたら、それはそれで大したものだ」
ぺらりぺらりとめくってみるが、なるほど。辞書に載っている言葉はどこまでいっても罵倒ばかり。
始めこそ感心するやら笑うやらしながら読んでいた男だが、しかしなにやら段々腹が立ってきた。
「なんだか、猛烈に俺がバカにされている気分になってきたぞ。相手が辞書でも、言われっぱなしというのは癪に障る。そうだ!」
と、思いついて男はポケットから、今度は鉛筆を取り出した。そうして辞書に言葉を書き加えていく。
【負け犬】「役立たず」
【ヘタレ】「根性悪」
と、まあこんな具合。
すっかり辞書と口喧嘩でもしている気分になって、カッカと熱くなった男は、延々と辞書に悪口を書き続ける。
そんなことをしている男の上で、空はゆっくりと白み始めていた。




