才色兼備アナスタシア様の必勝法〜皇帝の「真実の愛」を論破して正妃になりました〜
才色兼備にして気高く、しかも恋する乙女として可愛らしい――
私の自慢のお姫様、アナスタシア様。
そんなアナスタシア様でも、ついに心を揺るがす出来事に直面された。
「こちらに来い。お前の席はここだ」
「も~アレクシス陛下ったら」
(……何これ)
アレクシス陛下が、カトリーナ様をその膝に抱き上げられたのだ。
それも、国の賓客を前にした宴の席で。
正妃でも問題になる行為を、よりにもよって妃候補に――。
(ひざの上は“寝所の寵”の証……よりにもよって、こんな公の場でするなんて!?)
アレクシス陛下は頬を緩め、満更でもないご様子。
膝に座ったカトリーナ様は、まるで子猫のように胸に頬をすり寄せ――
広間に甘ったるい笑い声が響いた。
広間の空気が凍りつく。
王女も伯爵令嬢も、誰もが扇の奥で目を見開き、盃を止めた。
(……わたしたちは何を見せられているの?)
(見苦しすぎて頭痛が……)
わたしは横に座るアナスタシア様を見た。
唇をきゅっと結び、瞳に静かな怒り。
そして次の瞬間、アナスタシア様は盃を置き、優雅に立ち上がられた。
「アレクシス陛下」
その声は澄み渡り、広間の隅々まで響いた。
「そのようなお振る舞いは、寝所にてこそ相応しいものです。
――ここは国の顔となる宴の席にございます」
――アナスタシア様!?
ざわめきが収まるより早く、アナスタシア様は続けられた。
「私はお邪魔のようですので、これにて失礼いたします」
一礼は気品に満ち、背筋は一分の乱れもない。
裾を翻し、堂々と広間をあとにされる。
(あ、あまりにもの衝撃で……何も呟けなかった)
ぽかんと口を開けたままのカトリーナ様。
顔を引きつらせたアレクシス陛下。
言葉を失った妃候補たち。
残された者たちは皆、アナスタシア様の背を目で追うしかなかった。
(アナスタシア様こそが、真に皇妃たる器……というより、陛下の上に立たれるべきお方では?)
胸の奥が震えるのを、侍女のわたしは止められなかった。
◆
あの夜を境に、私は初めて出会った日のことを思い返さずにはいられなかった。
「今日からよろしくね」
やさしく微笑まれて、胸の奥が一気に熱くなった。
「ありがとう、今日も助かったわ」
そう言ってくださったときの笑顔を思い出すだけで、胸がまた高鳴った。
(アナスタシア様の笑顔……まぶしすぎる!)
叱られることもあるけれど、その言葉は決して突き放さず、次はできるようにと導いてくださる。
一挙手一投足が凛としていて、それでいて誰にでも優しい。
わたしでさえ誇らしい気持ちになれた。
(ああ、わたしはアナスタシア様のおそばにいられるだけで幸せ!)
……あれさえなければ、もっと幸せなのに。
「アレクシス陛下……!まだ忙しいの?お仕事いつ終わるの?」
「すまないな……もう少しだけ待っていてくれ」
そう言いながら、アレクシス陛下はカトリーナ様の頭を優しく撫でられた。
御殿の奥で、カトリーナ様がアレクシス陛下に腕を絡めながら甘える。
本来なら、彼女はただの妃候補の一人にすぎない。
正式な正妃の座に就ける立場ではないはずなのに――。
アレクシス陛下は我がアナスタシア様ではなく、空気を読まないカトリーナ様ばかりを大切にされていた。
(……陛下の目は濁ってるんだわ、きっと)
◆
忘れもしない入内の儀を終えた後、アナスタシア様は後宮の回廊を静かに歩いておられた。
新しい庭や殿舎に目を留めては、わずかに微笑まれる。
その後ろ姿を見守るだけで、胸が誇らしくなる。
(こんな素敵なアナスタシア様のお付きになれるなんて……!)
その時、向こうから賑やかな声が響いた。
「ねぇ、そこの方!」
振り返れば、絹の衣を翻して駆けてくる女性。
噂に名高いカトリーナ様だった。
(アナスタシア様に向かって“そこの方”だと?)
「あなたが正妃候補なのね?」
「大変そうねー、頑張って!私はなんにもしなくていいって、アレクシス陛下に言われてるの!」
……は?
思わず心の中で声が漏れた。
正妃候補の前で口にしていい言葉じゃない。
けれどカトリーナ様は無邪気に笑い、まるで褒められた実績でも並べるみたいに胸を張っている。
(それは自分で無能と名乗っているのと一緒では?)
回廊にいた女官たちも一瞬で静まり返る。
その空気の重さの中、アナスタシア様だけが微笑を崩さず、穏やかに応じられた。
「ありがとうございます。正妃候補として務めを果たしたいと思います」
(アナスタシア様、尊すぎる……!)
(それに比べてこの女は……無邪気というより無神経の固まりだわ)
◆
カトリーナ様との出会いから幾日も経たぬうちに、アナスタシア様は動き出された。
誰もが「正妃候補はただ飾りだ」と思っていた先入観を、次々と打ち砕くように。
「まずは侍女たちの心得を整えましょう。仕える者が戸惑っていては、後宮は落ち着きません」
「こっちにいらっしゃい、読み書きを教えるわ」
アナスタシア様自ら指導にあたり、言葉遣い、立ち居振る舞い、衣の整え方――ひとつひとつ優しく、けれど凛とした声で教えてくださった。
侍女たちは感激し合い、胸を熱くしていた。
さらに日を改め、アナスタシア様は茶会を催された。
「互いを知れば、余計な誤解は減るはずです。せっかく同じ後宮にいるのですしね」
側室方を招いたささやかな席。
お菓子の甘さに笑みがこぼれ、思いのほか和やかな空気が広がる。
初対面の方々が言葉を交わし、わたしたち侍女も動きやすくなった。
アナスタシア様が歩むたび、荒れていた後宮に少しずつ秩序が戻っていく。
その姿に仕える者の一人として――
(ああ、一生ついていこう)
ただただ胸を打たれるばかりだった。
◆
ある日の回廊。
カトリーナ様が楽しげに侍女を連れて歩いていたところ、すれ違いざまに冷たい声が響いた。
「生まれも家柄も違うのに、側室の地位を並べるのはおこがましいことですわ」
振り向けば、王女の侍女たちが誇らしげに顎を上げている。
背後の王女もまた、うっすらと笑み。
(よく言った!もっと言ってやって!!)
カトリーナ様はきょとんと首を傾げ、
「……でも私は、陛下のおそばにいるのが好きだから」
無邪気な返答に、空気が一層ぴりつく。
(ちょ……黙ってないで言い返してよ!)
その時、アナスタシア様が静かに口を開かれた。
「王女殿下」
穏やかで、それでいて反論を許さぬ声音。
「身分を盾に、人を傷つけるのは“王族”のなさることなのでしょうか。
身分ある者ほど、下の者を守り、導く責を負うはず。その務めを違えては、ただ驕るだけになってしまいます」
言葉は柔らかいのに、回廊にいた誰もが背筋を伸ばした。
王女の頬が強張り、付き従う侍女たちは慌てて目を伏せる。
(アナスタシア様ごめんなさい……王女殿下を応援しちゃいました)
そこへカトリーナ様がぱっと顔を輝かせた。
「すごいわ!なんだか胸がすっとしたの。やっぱり正妃候補様って頼りになるのね!」
(お前は黙ってろ!)
……しかしアナスタシア様はそこで終わられなかった。
「けれど――カトリーナ様」
静かに、けれど確かにその名を呼ばれる。
「後宮に住まう者として、最低限の礼儀作法は身につけていただかなくてはなりません。
アレクシス陛下のおそばにあるからこそ、なおのこと」
場は再び緊張した。
カトリーナ様への明確な釘刺し――誰もがそう感じた。
けれど当のカトリーナ様は、きょとんと瞬いてから、にっこり笑う。
「でも、アレクシス陛下は『そのままでいい』って言ってくださってるのよ?
だから私、変わらなくていいんだと思ってたの」
(あ、アレクシス陛下――!!)
王女の侍女たちですら一瞬言葉を失い、視線を逸らした。
アナスタシア様はわずかに瞼を伏せ、静かに微笑まれる。
「……そうでしたか」
… …そう。これこそが後宮を荒らす原因の一つだった。
カトリーナ様は本当に無邪気で、嫌なことはしない。
けれど礼儀作法を身につける気もない。
それを咎めるどころか、アレクシス陛下ご自身がカトリーナ様の振る舞いを容認しておられる。
だから、後宮の秩序は乱れる一方になるのだ。
(アナスタシア様に幸ありますように……)
◆
カトリーナ様の奔放さに、後宮はざわつき続けていた。
当たり前だが他の正妃候補たちはすっかりやる気をなくし、務めも形ばかり。
なのに――アナスタシア様だけは変わらない。
今日も静かに帳簿を広げ、淡い灯の下で筆を走らせておられる。
(どうして……どうしてアナスタシア様は、誰よりも真剣に務めを果たそうとなさるのだろう?)
わたしは紙を押さえながら、その背筋の凛とした美しさにただ見惚れていた。
「この費用、ずいぶん偏っているわね……改善案を考えなくては」
誰に聞かせるでもなく、アナスタシア様は独り言のように呟かれる。
(数字なんて全然わからない……アナスタシア様すごすぎる)
そのとき、書庫の扉が軋む音。
振り返れば、思いがけぬ人物が立っていた。
(ぎゃっ!)
「……アレクシス陛下」
アナスタシア様は手を止め、一礼して顔を下げる。
アレクシス陛下は足を止めたまま、帳簿を前にしたアナスタシア様を静かに見つめていた。
やがて、低い声が落ちる。
「顔を上げろ」
「……また帳簿を見ているのか。後宮のこととはいえ、骨が折れるだろう」
厳しい響きを帯びていたが、突き放しきれない声音。
(また……?アレクシス陛下はアナスタシア様がされているのをご存じだったの?)
アナスタシア様は顔を上げ、ただ静かに答えられた。
「正妃候補として、なすべきことをしているだけです」
淡々としたその言葉に、アレクシス陛下の視線が揺れる。ほんの一瞬、驚きの色がのぞいた。
そしてアナスタシア様はアレクシス陛下の顔をまっすぐ見据えた。
「失礼を承知の上で申し上げます。
後宮のため、そしてカトリーナ様ご本人のためにも――礼儀作法をお身につけくださるよう、お取り計らい願えませんでしょうか」
(ええっ!? まさかの元凶に進言!?)
カトリーナ様のことを、アレクシス陛下に直に口にするなど誰もしたことがない。
アレクシス陛下の眉がわずかに動き、鋭いまなざしがアナスタシア様を射抜く。
「…お前も口を挟むか。
己の立場をわきまえず、正義を掲げて滅んだ者を、私はいくらでも見てきた」
吐き捨てるような声音に、書庫の空気が一気に凍りつく。
けれどアナスタシア様は揺れない。
「アレクシス陛下、カトリーナ様を守るためです。
身分や力がなくとも、礼は秩序を保ちます。それは、どなたにとっても益となることですから」
(アナスタシア様……あんな女のために……!)
アレクシス陛下の瞳に、ほんの一瞬、揺らぎ。
「……なぜそこまで言う?」
問いは、カトリーナ様への不満ではなく、アナスタシア様自身の真意を探るものだった。
アナスタシア様は一歩も退かず、澄んだ声で答えられる。
「後宮の品位を保つことは、アレクシス陛下の御立場を守ることに他なりません。
そしてそれは、ひいては国のため。
ここに住まう者の振る舞いは、外へと必ず伝わります。だからこそ、私は申し上げるのです」
静かに、けれど揺るぎなく。
――その言葉は筆よりも鋭く、書庫の空気を震わせた。
(……もうアナスタシア様が皇妃でよくない?)
アレクシス陛下はしばし黙し、やがてふっと鼻で笑う。
「……言葉の上では見事だな。せいぜい、口先だけで終わらぬように」
それだけを言い残し、背を向けられた。
衣擦れの音と共に扉が閉じ、書庫は再び静寂に包まれる。
(やっと、呼吸ができる……)
わたしは胸を押さえて息を吐いた。
……ん?
アナスタシア様の頬が、ほんのり赤い。
目を伏せているその横顔に、わたしは思わず首をかしげた。
「アナスタシア様……?」
問いかけると、アナスタシア様は小さな声で呟かれた。
「あんな近くで……お話しできるなんて……」
「っ!?アナスタシア様っ!?」
あまりの乙女モードに、頭の中が真っ白になる。
(やだ、アナスタシア様かわいい……けど、えええ)
「アレクシス陛下は…素晴らしい方ですわ」
アナスタシア様は胸に手を当て、うっとりと息を漏らされた。
「ええ、どこが……」
思わず口に出しかけて、慌てて飲み込む。
(あんな女に夢中で、後宮をかき乱す男なのに……はっ!)
――そうだった。
すっかり忘れていたが、アレクシス陛下は世に「賢帝」と呼ばれていたのだ。
辺境の反乱を三月で鎮め、飢饉には自ら倉を開いて民に米を分け与えた。
その治世ぶりは、臣下ですら感嘆したと聞く。
(だけどさぁ、後宮だと別人なんだもの……)
同僚の囁きを、わたしも覚えている。
「アレクシス陛下はね、昔は皇妃候補の選定にさえ慎重で、家柄も性格も徹底的にお調べになられたんだって」
権力だの利権だの、そんなもの目当ての女ばかりに囲まれて、アレクシス陛下もお疲れだったのだろう。
だからこそ、空気を読まぬカトリーナ様を“真実の愛”と勘違いしてしまわれたのだ。
そういう理由で、今やアレクシス陛下の視線は、才色兼備と讃えられるわがアナスタシア様ではなく、あの奔放なカトリーナ様へと注がれていた。
(わからなくもないけど……極端すぎでしょ)
◆
例の宴の翌日、広間の一室に妃候補たちが集められた。
皆、まだ宴の衝撃を引きずっている。
(お膝事件……永遠に語られそう)
そこにアナスタシア様が姿を現され、扇を下ろし、凛とした声で告げられる。
「昨夜のこと――皆も感じたはずです。
後宮があのように軽んじられていては、私達の立つ場そのものが崩れてしまいます」
「……確かに」「恥ずかしかったわ」
低い囁きが交わされる。
アナスタシア様は続けられた。
「だからこそ、今一度、後宮の品位を示すべきです。
もしアレクシス陛下が後宮を敵に回せば、どれほどのことになるのか――理解していただかなくてはなりません」
(ええ!あのアナスタシア様が……ついに本気でお怒りに!)
張り詰めた空気の中、その言葉が静かに響く。
妃候補のひとりが、勇気を振り絞るように口を開いた。
「……つまり、務めを止める、ということですか?」
アナスタシア様はゆるやかに頷かれる。
「ええ。一日だけでいいのです。香も、楽も、膳も。すべてを止めましょう。
これが後宮なのだと、アレクシス陛下に示すのです」
空気が一気にざわめいた。
「無謀では……」「けれど… …」
戸惑いと期待が入り混じる声の渦。
けれど、アナスタシア様の瞳を見つめた誰もが、最後には頷いていた。
だってそうよね――(アナスタシア様こそ、私達を導く正妃にふさわしいと……思っちゃうもの)
◆
王宮の政務室。
宰相をはじめとする重臣たちは、顔を揃えたものの議題は政務ではなかった。
「……後宮が、務めを止めました」
報告を受けた瞬間、室内にざわめきが走る。
「まことか。火も香も途絶えていると?」
「はい、宰相閣下。膳も整わず、宴の準備も滞っております」
政に携わる男たちですら、後宮が動かなくなることの意味を知っていた。
「外交使節はどうしている」
「本日の拝謁に香も膳も出されず、不審がられております。
――後宮の膳と香は、他国の目録にも記される“礼の規格”。すでに『アレクシス陛下と後宮の不和』として、国外へ伝わるのも時間の問題かと」
「馬鹿な……!」
「いや、馬鹿ではない。後宮は宴と礼で成り立つ場。それが止まれば、王宮全体の信用が揺らぐのだ」
誰もが声を潜め、眉間に皺を刻んだ。
やがて、重い沈黙を破ったのは――アレクシス陛下自身だった。
「……思ったよりも、後宮の力は大きいな」
低く抑えた声音。
だが玉座に凭れたその瞳には、わずかな動揺。
「誰の差し金だ」
「正妃候補のアナスタシア王女殿下にございます」
室内に再びざわめき。
アレクシスは目を伏せ、短く息を吐いた。
「…なるほど。“正妃らしい振る舞い”を見せたということか」
ざわめく重臣たちを制し、宰相が深く息を吐く。
額に手を当て、重苦しい声で言い放った。
「……もし後宮の女たちが皆、去ったとすれば――国は持ちませぬ」
空気が一気に凍りつく。
「後宮はただの飾りではない。祭祀、外交の顔、王権の象徴。
それが崩れれば、王宮の礼そのものが消える。諸国は必ず『賢帝の治世は終わった』と嗤うでしょう」
誰もが言葉を失った。
その言葉は、重臣たちの胸に冷たい刃のように突き刺さる。
アレクシス陛下は玉座に凭れ、長く瞑目された。
唇にかすかな笑みを浮かべながらも、肘掛けを強く握りしめている。
白くなるほどの拳には、決意と同じだけの苛立ちがにじんでいた。
「……宰相」
「はっ」
「正妃候補のアナスタシア王女を、ここへ呼べ」
室内にどよめきが走る。
「カトリーナに溺れるアレクシス陛下」と陰で囁かれていたその人が――自ら正妃候補を求めたのだ。
◆
謁見の間。
重々しい扉が開き、アナスタシア様は静かに進み出られた。
背筋は真っ直ぐ、衣の裾は乱れず、歩みは堂々。
(ひぃ、処刑場に立たされてるみたい……)
玉座に凭れるアレクシス陛下の眼差しが、ゆっくりとアナスタシア様をとらえる。
その瞳には、昨夜までの甘やかな影はなかった。
「恐れながら――」
アナスタシア様の声は静かに、それでいて凛としていた。
「今の後宮は、あまりにも顧みられておりません。
本来、後宮は国の礼を映す鏡。
このままでは、アレクシス陛下の御名も、国の誉れも損なわれましょう」
ざわ……と重臣たちの間にどよめき。
(言っちゃった……誰も恐ろしくて口に出せなかった事を……)
アナスタシア様は正面から放った。
「どうかアレクシス陛下。後宮を正す機会を、私にお与えくださいませ」
頭を垂れるアナスタシア様の姿に、私の胸は熱くなる。
(アナスタシア様神々しすぎる……というかアレクシス陛下は心動かないの!?)
そして――アナスタシア様は、深く息を吸い、静かに告げた。
「……もっとも。今回の騒動を主導したのは、この私。
後宮が務めを止め、諸国にまで混乱を広げた責は重くございます。
ゆえに、ここにおいて責を負い――後宮を去る覚悟にございます」
衝撃の一言に、広間がざわめく。
重臣たちは色を失い、わたしは耳を疑った。
(そ、そんな!)
アナスタシア様は己の立場ではなく、ただ後宮を思い、国を思って動かれただけなのに。
それでも、誰よりも責を負おうとされるの――?
(いや――!!やめて!!)
「……後宮を、去る?」
アレクシス陛下の低い声が広間を震わせた。
「私に直言し、後宮を一つにまとめ、国の顔を守ろうとしたその女が……責を負って去ると申すのか」
アレクシス陛下は立ち上がられた。
玉座の上からではなく、同じ高さでアナスタシア様を見据えるために。
「ならば言おう。去ることは許さぬ」
(え!?)
「その責め、正妃として果たせ。
後宮を治め、私を支え、国を立て直すことでこそ――お前の覚悟は証明される」
強い声音に、わたしは思わず涙ぐんだ。
(アレクシス陛下……ついにアナスタシア様のすばらしさに気づいたのね……本当に今更だけど!!)
けれど。
「……っ」
アナスタシア様のお顔から血の気が引いていくのを、わたしは見逃さなかった。
蒼ざめたその表情は、決して喜びのものではない。
普通なら歓喜の座を、まるで枷でもはめられたかのように。
(なぜ……?どうしてアナスタシア様は喜びではなく、あんな顔を……)
長い沈黙ののち、アナスタシア様は深く膝を折られた。
わずかに震える声で、それでもきっぱりと。
「……畏れながら、アレクシス陛下の御心を拝し、謹んでお受けいたします」
空気がほどけるように揺れ、儀は粛々と進む。
ただひとり――わたしの胸だけが、締め付けられていた。
◆
謁見の後、アナスタシア様は御殿の一室に通された。
豪奢な調度に囲まれても、その肩は小さく震えている。
「……なぜ、そこまで顔を曇らせる」
アレクシス陛下の問いに、アナスタシア様は顔を上げた。
潤んだ瞳でアレクシスを見据え、かすれた声を絞り出す。
「……なぜ、私なのですか」
堰を切ったように言葉がこぼれる。
「私は――政務を担わせるためだけの駒なのでしょう!
後宮を立て直すためだけに必要とされただけで……
私は一生……愛されることなく、ただ国に人生を捧げねばならないなんて!」
涙が頬を伝い落ちる。
アナスタシアは慌てて袖で拭うが、震える声は隠せない。
「私は……ただの飾りではいたくないのです。
けれど……カトリーナ様のように愛されることもなく……」
アレクシスはしばし黙したまま、アナスタシアを見つめていた。
涙に濡れた横顔に、胸の奥を突かれるような痛みが走る。
ゆっくりと歩み寄り、低く言う。
「駒だと……?私はそんなことを望んではいない」
苛立ちではなく、別の熱が声音に宿る。
「後宮を立て直したそなたの胆力も、真っ直ぐな言葉も、私の目に届いている。
そなたを正妃に据えたのは、駒としてではなく――私が必要としたからだ」
アナスタシアの瞳が大きく揺れた。
アレクシスはなお重ねる。
「愛されぬと、決めつけるな。
私の心まで見透かしたつもりか」
静かなのに、ひとことひとことが重い。
潤んだ瞳が、まっすぐにアレクシスを射抜く。
時が止まったように静まり返る。
胸奥の鋼の壁が、ひび割れる音がした。
「……その目で私を見るな」
叱責のようでありながら、どこか懇願にも似て。
「駒などではない。飾りでもない。
そなたを――失いたくないと、私は思っている」
言葉がこぼれた瞬間、アレクシス自身もわずかに目を伏せた。
賢帝と呼ばれた男の、誰も知らぬ脆さが横顔に浮かぶ。
迷いを断ち切るように一歩、さらに一歩。
細い肩を強く抱きしめた。
「……もう、駒などと言わせぬ。
余の正妃として――そして、余の側にあれ」
胸元に押し寄せる温もりに、アナスタシアは息を呑む。
抗う言葉は出てこない。
ただ震える指先で、アレクシスの衣を掴んだ。
その一言が、アナスタシアの運命を決定づけた。
◆
そしてアナスタシア様は、ついに正妃の座に就かれた。
正妃となったアナスタシア様は、後宮をただの競争の場にはなさらなかった。
妃候補ひとりひとりに役目を与え、学びや交流の場を設け、縁談を結ぶ機会も広げられた。
(しかも、わたし達侍女のためにも縁談を検討してくれてる!)
誰もが役割を見つけ、笑顔を取り戻していく後宮――わたしはその変化を間近で見届けた。
もちろん、アレクシス陛下の御心も大きい。
カトリーナ様には、はっきりと「愛ではなく、安らぎを求めていた」と説明をなさった。
(カトリーナ様で本当に安らげてたの?アナスタシア様の方が癒し系じゃん……)
最初は泣き叫んでいたカトリーナ様だったが…
程なく有力家との縁談が決まると、驚くほどあっさりと後宮を去っていった。
(うん、下手にごねられるよりあっさり引いてくれてよかった!)
振り返れば、すべてはアナスタシア様のお力である。
国の未来を背負い、後宮を正した――その背中を仕えながら見つめられることを、わたしは誇りに思っている。
夕光の中、アレクシス陛下が微笑まれるアナスタシア様の肩にそっと手を置く。
その横顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
どうか――アレクシス陛下の隣で、末永く幸せであられますように。
わたし達の誇りであるあの微笑みが、決して曇りませんように。
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