安静にしよう。
この作品の大筋はノンフィクションですが、個人の特定を避けるため一部に脚色・創作を加えています。
翌朝の検温の際、八時頃から点滴を始めるので、それまでに手術着に着替えておくよう指示された。
「ストッキングも履いてくださいね。ちょっと履きづらいかもしれませんけど……難しければお手伝いします。遠慮なく呼んでください」
昨日サイズを測られたあの医療用弾性ストッキングだ。手術着と重ねてサイドテーブルに準備されている。
朝食は、当然ながら抜きだった。
顔を洗って、歯磨きをして、落ち着かないので着替えてしまうことにした。
下半身はパジャマのズボンのままでよいとのことで、上半身のみ肌着を脱いで直接手術着を身に着ける。パイル生地のガウンみたいになっていて、前身頃の合わせは着物式。脇の下で紐を結ぶのに多少手間取ったが、何とかきちんと着られた。
それからストッキング。一見して白い膝下タイツだけれど、足裏に穴が開いている。後で調べたら、足にモニターをつける場合があるからだそうだ。こちらも無事自力で履くことができた。
「この着方で正解です。完璧です!」
点滴をつけに来てくれた看護師さんは、手術着とストッキングを確認してそう褒めてくれた。患者を褒めて伸ばすタイプかもしれない。
実は、この手術が決まった時から、ひとつどうしても確認したいことがあった。今を逃すともう訊けない。私は思いきって尋ねた。
「あのう……取った胆石を頂くことはできるんでしょうか」
胆石だったか尿管結石だったか、手術で取り除いた石を持っているという話はよく聞くし、この病院の看護師さんたちの、「退院した○○さんに胆石プレゼントされちゃったんですよー」というエグい雑談を耳にしていたからだ。
もらえるものならぜひ欲しい。どんなものが腹の中で生成されていたのか、見てみたい。
看護師さんは気抜けするほどあっさりと、
「あ、いいですよ。先生にお伝えしておきます。そうおっしゃる患者さん、わりと多いんですよ」
と、承諾してくれた。特段変な希望でもなかったみたいだ。
点滴の注射はスムーズだった。どうやら私の左前腕には、唯一いい感じの静脈があるらしい。右腕では軒並み失敗していたものな。
再び点滴に繋がれた私は、ボーちゃん三号に挨拶した。あまり長い付き合いにならないことを祈る。
ベッドに座って緊張して待っていると、タマ子ちゃんが姿を現した。彼女は八時半出勤らしい。世間話をしていたら、少しだけ気が紛れた。
八時五十分頃に、再び看護師さんがやって来た。
「お手洗いは大丈夫ですか? そろそろ行きましょうか」
病室から手術室までは、よくドラマで見るようにストレッチャーで搬送されるのをイメージしていたが、普通に徒歩だった。現状、意識があって歩行に問題がないのだから、当然といえば当然。
看護師さんに先導されて、ボーちゃんをガラガラ押して、エレベーターで手術室に向かう。タマ子ちゃんもついてきた。
この病院では手術室が同じ階に集約されており、セキュリティカードの必要な扉を二回通った。
案内された部屋の前では、オペ着に身を固めたスタッフが待ち構えていた。担当医ではなかったが、氏名札で医師と分かった。助手の先生かしら。
リストバンドのバーコードで私の身分確認をしたうえで、さらに、
「最終確認をさせていただきますね。お名前と生年月日、それから今から受ける手術の内容をおっしゃってください」
おぉ……念には念を入れる周到ぶり。患者の取り違えがあったら大変だ。
最後の『合い言葉』もパスして、病棟の看護師さんとタマ子ちゃんに見送られつつ、私は手術室に通された。
人がたくさんいた。六、七人はいたような気がする。全員がお揃いのオペ着にマスクとキャップ姿なので、誰が誰なのかよく分からない。
「橘さん、今日はよろしくお願いします」
そう挨拶してくれたのが担当医だったのだと思う。
自分でキャップを被ってから、機材に囲まれた台に横たわる。これまたドラマで見るような照明が目に入った。無影灯とかいう、医療用の特殊な照明器具だ。
観察している暇もなく、
「お腹の上にカバー置きますね」
「左腕はこの台に乗せてください」
「右腕に血圧計つけます。ちょっと体に触りますよ」
「心電図つけます。服の前を開けますね」
「ズボンを脱がします。あ、両脚はそのままでいいですよ」
と、同時進行で準備が調えられた。テキパキしていて無駄がない。緊張や躊躇を差し挟む余裕もない。まさに俎に乗せられた鯉の気分だ。
「いっせいに作業して慌ただしいですよね。すみません」
そう言いながら、看護師さんの一人が点滴を操作した。
「はい、では点滴にお薬入れていきますね。最初は静脈麻酔なので、ちょっと刺激があるかもしれません」
安いアルコールで悪酔いした時みたいに、頭がくらっとしてきた。これが続くといやだな、と思っていたら、
「次に全身麻酔です。眠くなりますよ」
あ、全身麻酔はこれからなのか。眠るまで数でも数え――。
次の瞬間、意識がなかった。
鎮静剤の時は、まだ『眠りに落ちる』感覚があった。しかし全身麻酔は強制シャットダウンさせられる感じ。
何か夢を見たが、内容は覚えていない。
ただ、夢なのに、なぜか視野の半分が朽葉色に塗り潰されていた。壊れたディスプレイ越しに眺めているような感覚。やはり普通の睡眠とは違っていたのだろう。
「橘さん、終わりましたよ」
その声で目が覚めた。
意識のオン・オフはびっくりするほど明瞭だ。すぐに自分が手術中だったことを思い出した。
もう終わった……?
見上げた視界の中でオペ着のスタッフが動き回っている。体の下のマットごとストレッチャーに移されて、部屋から搬出されるのが分かった。
「傷は痛みますか?」
「……はい……何か違和感があります……」
声を出すと、風邪を引いた時みたいに少し喉が痛かった。気道に挿管されていたせいだろう。いつの間に入れて抜かれたのか、まったく分からない。苦しそう……なんて心配するまでもなかった。
意識に続いて体の感覚が戻ってくる。臍を中心にした腹部全体が重く、それがだんだん鈍痛に変わってきた。違和感どころではない、普通に痛い。めちゃ痛い。
内臓がひとつなくなった実感はないが、深い傷を負ったのは否応なしに分かる。
エレベーターを経由して、病室へ。乗せられていたのはストレッチャーではなく病室のベッドだったらしく、そのまま所定位置に戻された。
血圧計と心電図の電極を改めて取りつけられ、鼻と口は酸素マスクで覆われた。コポコポと加湿器の音がする。自分がとんでもない重症患者になった気分だ。
「一時間ほど酸素吸入しますね。ちょっと足元失礼します」
ストッキングを履いた両脚に、巨大な血圧計の腕帯みたいなのを巻かれた。モーター音とともに、内側に空気圧がかかる。血栓防止のマッサージ器らしい。
完全に身動きが取れなくなった。
麻酔は完全に切れていて、腹部の痛みは今やズキズキと脈を打つようになっている。
「……今……何時ですか……?」
「十時半ですよ。三十分おきに看護師が様子を見に来ますので、うっとうしいと思いますがしばらく我慢してくださいね。ああ、これ」
看護師さんはサイドテーブルに何かを置いた。
「胆石、ここに置いておきますね、お疲れ様でした」
キャップ付きのプラスチック試験管だった。
中に入っている黒いものを観察する余裕は、その時の私にはなかった。ただ、どうやらキラキラした宝石ではなかったようだ。
その日一日と、夜を越えて翌朝まで、絶対安静状態が続いた。
酸素マスクはすぐに外されたが、計器と点滴とマッサージ器のせいで基本的に動けない。いつの間にか導尿カテーテルが通されていて、お手洗いの心配はなかったけれど、どうにも気持ちが悪かった。
体は疲れていて、眠ってしまいたいのだが、不気味に疼き続ける傷のせいで眠れない。マッサージ器の断続的なモーター音も気になってしまう。動かせない背中や腰が痛い。
せめて両腕は意識的に動かそうとするも、パルスオキシメーターのケーブルと点滴の管のせいで可動域が狭い。もう最悪だ。
内視鏡手術の後とはやはり全然違う。体に穴を開けるということを少々舐めていた――私は思い知った。
熱も出ていたらしい。三十八度台後半まで上がってしまったので、点滴に解熱剤を入れられた。どうりで暑いはずだ。
頭の下に氷枕を入れて、掛け布団をタオルケットに替えてもらったら、いくぶん楽になった。
看護師さんが来てくれたタイミングで、サイドテーブルのスマホを取ってもらった。
夫と、手術日を伝えていた実家の両親からLINEが入っていた。夫のところには、術後すぐに担当医から連絡があったらしい。
無事に終わった旨返信をしたかったが、仰向けに寝たまま片手だけでタップするのは難しく、また気力もなく、諦めた。既読がついたことで伝わってくれ。
短時間の睡眠と覚醒を繰り返して、私は土の中の芋虫のように時間を過ごした。
夜中に、耳元で小さな羽音が聞こえた。
指にプローブを着けた左手に、蚊がとまっている。
私は、それを叩き潰す気になれなかった。こんなところまで入ってきて、出て行けるかも分からないのに、こいつも頑張って生きているんだなあと同情心が湧いた。
蚊はしばらく私の手に留まって、そのうちどこかへ行ってしまった。
雄だったのか、結局痒くはならなかった。
見逃してやってよかったと今も思っている。
【今回の学び】
手術室までは基本、徒歩。
全身麻酔には逆らえないが、寝起きはすっきり(個人の感想です)。
術後は脚をモミモミされる。




