初めての病院食
この作品の大筋はノンフィクションですが、個人の特定を避けるため一部に脚色・創作を加えています。
鎮静剤のおかげで、十四時過ぎまで爆睡していた。
処置が終わった後、お手洗いに行く時は呼ぶように言われていたため、枕元のナースコールを押す。やって来た看護師さんの手を借りて、ベッドから起き上がった。目眩もふらつきもなく、歩くのに支障はなかった。一安心だ。
とはいえ、お腹に鈍痛が残っている。本当に石が取れたのかどうか、実感としてはよく分からない。
手術直後の血液検査では、かなり炎症反応が見られたらしい。微熱も続いている。これはいかんということで、膵臓の炎症を抑える薬をガンガン投与された。
処置が終わった旨を夫にLINEで伝えて、一日安静にして過ごした。
昼間にしこたま眠ったせいか、さすがにその夜は入眠に時間がかかった。すっかりお馴染みになった奇声をを聞きつつ、日付が変わる頃まで寝付けなかった。
翌日、午前中の回診で、
「石、取れましたよ。三つありました」
と、先生から告げられた。実物を見せてもらえるのかと期待するも、それはなかった。
「今日のお昼から食事を始めましょうか。最初は流動食ですが、しっかり栄養が摂れるようになったら点滴も外せますよ」
それは嬉しい!
先生は明日は非番とのことで、明後日の血液検査結果で退院の可否を判断すると言われた。
明後日は土曜日――五月の最終日だ。痛み止めをもらってすぐに帰るつもりだったのが、ずいぶん長居してしまったなあと溜息が出た。
その後の検温の際、看護師さんが私の左腕を見てあることに気づいた。
「あー、これそろそろ点滴を刺し直さないと駄目ですね。本当は三日ごとに替える決まりなんですよ」
病棟を変わったどさくさで見逃されていたらしい。そういえば針を固定しているテープがへたってきているような。
「後で交換しに来ますね。ちょっと待っててください」
これをきっかけに、私はちょっとした災難に遭うことになる……。
当初の予想より入院が延びたため、夫が再度着替えを持って来てくれた。
夫は前回と同じく、エレベーターホールで直接受け渡しができると目論んでいたのだが、受付でNGを出されてしまったらしい。融通が利かな……ではなく、ルールの運用が厳格で素晴らしい。これが本来で、前回が特例のお目こぼしだったのだろう。
病棟の看護師さんを介して、月曜日からの汚れ物を夫に渡し、新しい着替えを受け取った。院内にコインランドリーがあるのだが、混んでいるし時間がかかるので、洗濯は夫に任せる。こういう時、家族の存在はありがたい。
そしてその日の昼、予告通り、ようやく食事にありつけた。最後に食べたのが日曜日の夕方のシナモンロールだったから、実に四日間近く絶食していたわけだ。
消化器系の機能低下に鑑み、まずは流動食から。
ベッドまで配膳してくれた担当の方が、
「食べられるようになったの! よかったわねえ!」
と声をかけてくれた。看護師さんではないが、今朝まで食事の除外対象だったことは知っているのだろう。ちょっと嬉しかった。
さて、初めての病院食、どんなもんか。
流動食と聞いて、どろっとしたゾル状の何か……を想像していた私は、お椀の蓋を開けてその予想を裏切られた。良い方に。
米粒の入っていないお粥――いわゆる重湯と、具のない清汁、ヨーグルト、水ようかん。
メニュー表が添えられていて、カロリーと蛋白質量、塩分が記載されており、『膵臓食』と注意書きがある。後で栄養士さんから聞いたところによると、胆嚢結石の大敵、脂質を制限したメニューなのだそうだ。膵臓病の患者に提供されるのと同じものらしい。
確かにゾルではあるけれど、ちゃんと正体が分かる物でほっとした。
そしてお味もいい。特に清汁はお出汁が利いていて、空っぽの胃袋に染み渡るよう。点滴のおかげで空腹感はないとはいえ、食えば入る。私は完食した。
四日ぶりの食事の後、四日ぶりのゲップが出た。
午後、ベッドで本を読んでいると看護師さんがやって来た。
いつもの担当の人が、もう一人連れている。
「今から点滴の針を刺し替えますね。ほら、やってみて」
指示はそのもう一人に向けられたもの。男性の看護師さんだ。マスクで顔の下半分が隠れていても若いのが分かった。着ているスクラブにまだ張りがあって、何となく全体的にフレッシュな感じ。ネームプレートには若葉マークのシールが貼ってある。
「よろしくお願いします、橘さん。今年入った新人の○○です」
彼はぺこりと頭を下げた。緊張はしているようだけど、愛想は良い。今時の若者という感じ。
いやだが待て、新人と言ったか?
先輩看護師さんは、私の左手から点滴針を抜いて、止血テープを貼った。その間に後輩が新しい器具を用意している。それを一通り確認して、
「うん、じゃあ手こずったら呼んでね」
と、先輩の方は別の患者さんのベッドへ行ってしまった。
残された後輩くんは、私の右腕の血管を一生懸命探している。明らかに不慣れそう。嫌ぁな予感を紛らわそうと、私は彼に話しかけた。
「新人てことは三月まで学生さんだったの? おいくつ?」
「二十一歳です。医療系の専門学校は三年制なので」
「若いねー。今はOJT期間なのかな。仕事覚えるの大変でしょう」
「はい、先輩によって言うことが違くて、たまに混乱しちゃいます」
気さくで人懐っこい感じの好青年だ。ただし、まだ血管は見つけられない。
「ここだな、うん……ここにしよう」
自分に言い聞かせるように呟いて、私の右腕の一箇所を消毒した。
点滴針を刺された時は、まあそれほど痛くはなかった。しかしその先が難航した。どうやら血管をうまく捉えられないらしい。
「ん? これでいいのかな……何かちょっと……」
針先でぐりぐりやられて、私はさすがに声を上げた。
「おいおい大丈夫? めちゃ怖いんだけど」
「うわ、ごめんなさい! 痛いですよね。困ったぞ……えーとすみません、少し待ってくださいね。先輩! せんぱーい!」
後輩くんは、私の腕に針を刺したまま、先輩に助けを求めた。
これあれだ、ドラマとかでよく見るシチュエーションだ。ドジっ子新人ナースの定番エピソード……。
先輩が苦笑いしながらやって来る。いや笑ってる場合か。
結論から言うと、交替した先輩も失敗した。
私の血管は細いわけではないが、走っている位置が深いらしい。橘さんまだお若いから皮膚に張りがあって余計に入れづらいんですよ――私の腕に穴を二つも空けやがった師弟コンビは、お詫びがわりのお世辞を言ってくれた。
「救急搬送された時はスルッと刺してもらえましたけど」
「ああ、ERですよね。あそこの人たちは上手いですよー。別格です」
私は、テキパキと処置してくれた救急外来のスタッフを思い出した。スピードと正確性が同時に求められる職場は、やはり相当な手練れ揃いだったのだ。
「すぐに上手い人連れてきますからね」
いちいち凹んでいる場合でもないのか、看護師さんはあっさりとバトンタッチを宣言した。申し訳なさそうに頭を下げる後輩くんに、私は頑張れよと言っておいた。
かわりにやって来た『上手い人』こと別の看護師さんも、結局失敗した。三段オチだ。
こうなると、後輩くんが特段下手クソとは言えないのかもしれない。悪いのは私の血管の方だったのだ。
右腕は諦めて、左腕の、もともと刺していた位置の少し上流に入れることになった。同じ血管に刺すのはあまりよくないらしいのだが、仕方がない。利き腕を取られなくて、私としては逆に幸いだった。
右腕に、無駄に三つも穴を空けられてしまったけれど。
同室の患者さんたちとは、基本的に交流はなかった。
カーテンで区切られているので姿は見えないし、症状の重そうな人もいて声がかけづらい。トイレに行く際などに顔を合わせたら挨拶を交わす程度だった。
しかし前にも書いた通り、声は筒抜けの環境である。医師や看護師との会話から、この人は膵炎なんだな、あの人は肝臓を悪くしているんだな、といろいろ察しはついた。逆に私の病状も把握されていたと思う。
その中の一人の方と、たまたま洗面所で一緒になり、話をする機会があった。
私より十歳くらい年上で、白髪交じりの髪をきれいにまとめたご婦人。点滴もつけていないし、ずいぶん元気そうに見えたが、聞けばもう一ヶ月も入院しているのだという。
具体的な病名はここでは伏せるが、
「救急車で運び込まれて、一時は心停止になっちゃったんですよ」
と、恐ろしいことをさらりと言う。
そういえば、以前にちらりと見えた彼女のベッド周りには私物が多かった。本やスキンケア用品や洗濯用のハンガーや……何というか『住んでいる』感があった。理学療法士さんのリハビリを受けていたのは長期入院だったからか。
「でもようやく退院できるんです。今度の日曜日」
「そうなんですか。おめでとうございます」
「すっかり体力が落ちちゃったからね。元のように生活できるか心配だわ」
気弱なことを言うものの、私の目にはその人はすっかり快復して見えた。ただ、それは私が以前の姿を知らないからで、本当は一ヶ月の入院生活は彼女を衰えさせてしまっているのかもしれかった。
そうか、ここはそういう場所だったんだな――私は改めて思い知った。
生と死が、カーテンを隔てて隣り合っている。
【今回の学び】
病院食は普通にうまい。
新人ナースには気をつけろ!(早く一人前になってね)




