初めての入院生活
この作品の大筋はノンフィクションですが、個人の特定を避けるため一部に脚色・創作を加えています。
一睡もできないかと思いきや、結構眠れた。
夜中に看護師さんが点滴の取り替えに来てくれたのは何となく覚えているが、基本的に朝までぐっすりだった。
マッチョな看護婦さん――『看護師』ではなくそう呼びたくなるような――に、病室の掃除当番と朝のラジオ体操についてみっちり指導を受ける夢を見ていた私は、現実の看護師さんから声をかけられて目を覚ました。
時刻は六時半。朝の検温である。
入院手続きの際に、右手首にバーコードのついたリストバンドをつけられた。看護師さんはそれを読み取ったうえでさらに氏名を確認し、体温と血圧、脈拍、血中酸素飽和度を測る。
「お腹の痛みはどうですか?」
「今はほとんど痛くないです」
「十段階でいうとどれくらいですか?」
「……に、二くらい?」
ついでに昨日の便通と排尿の回数も訊かれた。大の方はともかく小の回数まで覚えておらず、回答内容に自信はなかった。ちなみにこの質問、入院中の朝のルーチンになる。
「午前中に消化器内科の先生が来て、検査について説明があります。しばらくお食事を止めて様子を見ますので、お腹が空くと思いますけど我慢してくださいね」
「お手洗いとか……廊下を歩き回るのは大丈夫ですか?」
「もちろん大丈夫ですよ。点滴のポンプは……このコード抜いちゃって構いませんから。あ、パジャマにお着替えしますか?」
ベッド脇のテーブルに、パジャマとタオル、歯磨きセット、洗顔料、ティッシュペーパー、ヘアブラシが置いてあった。全部レンタル品である。もちろん有料だけれど、すごく助かる。
検査衣とチノパンを着たきりだったので、私はもそもそとパジャマに着替えた。
点滴の管をいったん途中で外してもらう必要があり、看護師さんの手を借りる。下着も取り替えた。昨夜、家を出るときに一泊分の下着を詰め込んできて本当によかった。グッジョブ私。
看護師さんが別の患者さんの検温に行くと、私は改めて周囲を見回した。
ベッドはたぶんリクライニング付。フレームが柵のようになっているところがいかにも病院っぽい。脇にはコンパクトなテレビが乗った台と、細長いテーブル。壁際には作り付けの棚があって、扉を開くとハンガーが架かっていた。靴を収納するスペースもある。
ベッドの周囲はほぼ「コ」の字にカーテンで囲われていて、四人部屋ではあるが視覚的にプライバシーが守られている。ただ音は筒抜けで、看護師さんと他の患者さんの会話は丸聞こえだったのだが。
会社の上司に取り急ぎ状況報告をメールして、スマホの充電ケーブルをコンセントに繋ぐ。後で電話をしなければならないが、病室での通話はNGだ。
私はとりあえず廊下に出てみることにした。顔を洗いたい。
点滴スタンドは支柱が太くどっしりしているわりに、軽やかに動いた。たぶんしばらくは相棒になるんだろう。いかついくせにフットワークの軽い彼を、私はボーちゃんと名付けた。
ボーちゃんをがらがらと従えて、私はとりあえず洗面所まで行ってみた。転倒のリスクがあるため病院内はスリッパ禁止だそうで、足元はスニーカーである。
洗面所はナースステーション前のオープンスペースだった。
とにかくメイクを落としたいが、クレンジングオイルなんてものはない。仕方なく、洗顔料を大量に使ってザブザブと洗顔した。
立ったまま洗っていたら、気づいた看護師さんがパイプ倚子を持ってきてくれた。ここでは労られる立場なのだなあと実感してしまった。
ナースステーションを過ぎてもう少し歩いてみると、談話室のような広いロビーがあった。昨夜、夫はここで書類を書いていたらしい。壁掛けのテレビでは朝のニュースが流れ、数人の患者さんが倚子に座っている。飲料の自動販売機と……窓際の小さい機械はテレビカードの販売機か?
後々考えると、入院が深夜だったこともあって、施設や設備の説明をあまり受けないままに入院生活が始まってしまったように思う。
病室のテレビの使い方だとか、シャワー室の予約の取り方だとか、ランドリーの場所だとか、諸々の細かいことを知らず、初日は探り探りだった。好奇心はあるくせにビビりな私にとっては、慣れるまでなかなかストレスフルな状況であった。
七時過ぎに朝食の配膳が始まった。
当然私のところには来ない。絶食である。
後日、管理栄養士さんの面談を受けた際、胆石で疝痛が起きたら絶食が基本ですと指導された。痛みが治まったら食欲が回復するものだから、これまでは気にせず食べてしまっていた。本当はその日一日くらいは我慢すべきだったのだろう。ちょっと食い意地張ってたな、と反省した。
その後、看護師さんが清拭用のおしぼりをもってきてくれた。体を拭くやつだ。
医師の許可が出るまでシャワーを浴びられないかわりに、毎日あたたかいおしぼりが提供される。私の場合は体が動くので自分で拭けるが、そうではない患者さんは手伝ってもらえるみたいだ。翌日以降は同じタイミングで着替えのパジャマも配られた。
さっぱりしたところで、再度ロビーまで『外出』する。
この頃になって気づいた。スニーカーって入院生活には不向きだ。歩きやすくはあるが、脱ぎ履きが多いと不便である。素足だとなおさらで、つい踵を踏んづけてしまう。明らかにチョイスミス。
ロビーでは通話OKなので、会社に電話をし、朝メールを送った上司に事情を説明した。
上司はものすごく驚いていた。めったに風邪も引かない私の突然の入院、そりゃ驚くだろう。私だってびっくりだ。
急ぎの案件の引き継ぎを相談した後、ほぼ同年代の上司は、お互い無理はできない年だねと溜息交じりに言った。こっちのことは心配せずに療養に専念してね、とのこと。お言葉に甘えます。
病室に戻って少し経った頃、担当の医師が回診にやってきた。消化器内科の、まだ若そうな先生だ。昨夜のERの茶髪先生とは違って髪は黒かった。
「今日の午後にMRI検査をします」
先生はA4の白紙に内臓のイラストを描いて説明してくれた。絵が上手い。
「おそらく胆嚢の石が総胆管に流れて、そこで詰まって痛くなっているんだと思われますが、肝臓側の胆管なのか、十二指腸側の胆管なのか、CTでは分からなかったので、MIRで見てみましょう。石があるのが総胆管であれば、内視鏡で取り除けます」
「胆嚢の中だけだったらどうなるんですか?」
「うーん、そこは症状によって変わりますが、あまりにも腫れていれば針を刺して膿を抜いたり、あとは全摘ですね」
石、胆管にありますように! 私は心から祈った。
看護師さんからMRI検査の説明を受け、承諾書にサインした頃、夫からLINEが来た。着替えを持って、病院に到着したという。
まだ新型感染症の影響が続いていて、患者との面会は制限されている。事前のWeb予約が必要で、一回の時間も三十分のみ。荷物の受け渡しは直接ではなく、看護師が代行することになっていた。
だが、この時は病棟の看護師さんが大目に見てくれて、エレベーターホールで荷物を渡すだけならいいですよ、と夫を病棟に入らせてくれた。
ボーちゃんを押してエレベーターの所に行くと、許可証を首から提げた夫がやってきた。
点滴つきのパジャマ姿で、顔パサパサ、髪ボサボサの私を見て、きっと何か思うところはあったのだろうけど、彼は何も言わなかった。
渡されたトートバッグの中身を見て、私は率直に感心した。
我が家では洗濯は私の担当で、干して畳んで箪笥にしまうところまで業務に入っている。だから私は夫の衣類を把握しているが、夫はそうではない。頼んだものの、正直なところ、私の下着の保管場所を彼が知っているか不安だったのだ。
ところが、肌着とブラとショーツと靴下が四セット、ちゃんとトラベルポーチ入った状態でバッグに詰められているではないか。しかもしかも! 私がいつも使っている化粧水と乳液、それに愛用のヘアブラシまで。
化粧水については階下のコンビニに買いに行くしかないと思っていたのに、ここまで気が回るとは感激してしまった。
「これはボディシートね、ひんやりするやつ。あとウェットティッシュ。使うでしょ。マスクと……ここに現金入ってるから。飲み物買うかと思って」
夫は私の三倍は神経が細やかな人間である。そのことを再認識した。よく私のようなズボラな女と二十年も連れ添えたものだ。
「ほんと、ありがとね……」
「今日の検査結果が分かったらまた教えてね。早く退院できるといいんだけど、着替えが足りなくなったらまた持ってくるよ」
夫が努めて明るく言ってくれるのが分かったから、私も笑顔で肯いた。
午後になっても検査の呼び出しはなく、私は暇を持て余した。
昼食もスルーだったか、不思議とお腹は空かなかった。喉もあまり渇かない。しかし尿だけはきっちり出る。何だかもう点滴だけで活きていけるんじゃないかという気がしてくる。仙人になった気分だった。
ロビーの書架から借りた時代小説を読んだり、スマホを弄ったり、テレビを見たりして時間を潰した。痛みは消えており、ダラダラ過ごすのが申し訳ない。
その日十八時近くになって、ようやくMIR検査に行くことになった。
【今回の学び】
入院生活にスニーカーは不向き。脱ぎ履きのしやすいフラットシューズがおすすめ。
小さなスマホ画面ばかり見ていると目と頭が痛くなる。活字を読むなら紙の書籍が最強。
点滴入れてれば腹は減らない。