体を動かそう。
この作品の大筋はノンフィクションですが、個人の特定を避けるため一部に脚色・創作を加えています。
「洗面所まで歩いてみましょうか」
長い夜が明けた後、心電図を外しながら看護師さんがそう言った。
続いて、両脚のマッサージ器も取ってくれる。あのモーター音と空気圧から解放されて、心底清々した。
いや本当は機序が逆。マッサージ器がついているから動けないのではなく、動けないから血栓ができるのを防ぐためにマッサージ器をつけられていたのだった。つい恨めしく思ってしまってごめんなさい。
「もう動いていいんですか?」
「今日は少しずつ体を動かしましょう。自分でお手洗いに行けるようだったら、お小水の管も取れますよ」
それは何としても頑張らねば。マッサージ器以上に導尿カテーテルが不快だった。漏れてやしないかと不安になる。
私はさっそく上半身を起こそうとした。
が、腹部に激痛が走って、まともに起き上がることができなかった。臍を中心に腹全体が痛い。庇いながら起きるには、ベッドの手摺りを掴んで、腕力だけで体を支えるしかなかった。そして身を起こすとさらに痛い。
昨日からずっと手術着のままだった。合わせ目から恐る恐る中を覗くと、臍の上から右脇腹にかけて三箇所ほど小さな傷口があって、透明のフィルムで保護されていた。で、切開したという臍は大きな絆創膏のようなもので覆われている。絆創膏はなぜか中央が盛り上がっており、まるで臍にシュウマイを貼り付けているようだった。
なんじゃあこりゃあ……。
看護師さんの手を借りて、どうにかこうにか両脚をベッドから下ろす。靴を履いて立ち上がるのも、自力では難しかった。
両脚の筋肉はさほど衰えてはいない。問題なのは腹筋だ。腹筋に力を入れると傷どころか腹部、背中まで痛い。痛みのベルトを胴に巻き付けている気分だった。
「ちょっと待ってくださいね……はいこれでオッケーですよ」
看護師さんは導尿カテーテルから繋がったバッグを、ボーちゃんの下の方にあるフックに引っかけた。ボーちゃん! 君にはそんな役目もあったのか。とはいえ自分のオシッコの入ったバッグをぶら下げて歩くのは、やはり気分の良いものではない。
身を屈めて洗顔できる気はしなかったので、歯ブラシセットとタオルを持って、私は病室を出た。看護師さんもついてきてくれた。
一歩踏みしめる度、腹が痛む。冗談抜きで胴がバリバリと割けてしまいそう。歩幅は小さく、姿勢は前屈み。点滴スタンドに縋って歩く姿は、まるで百歳のばあさんだ。
何とかナースステーション前の洗面所に辿り着いた。
パイプ倚子に座って歯磨きを始めたが、もう早くベッドに戻りたくて堪らなかった。鏡に映る自分はひどい顔色をしている。
病室に戻る途中にふうっと目の前が暗くなって、看護師さんに支えてもらった。時間差でやってきた立ちくらみだろうと思う。
ようようベッドに帰ってきた私に、
「うん、ちゃんと歩けてますね」
と、看護師さんは肯いた。絶対嘘だ!
もうお手洗いにも行けそうだから、ということでカテーテルを抜いてくれた。
今日一日は、お手洗いの度に出た尿の量を量るように言われた。チューブを抜いた直後は排尿困難になることがあり、管理が必要なんだそうだ。時刻と尿の量を記入するリストも渡された。
手伝ってもらって手術着からパジャマに着替え、ベッドに身を横たえると、もう天国かと思うほど体が楽だった。立っているのと座っているのと寝ているのでこんなにも負担が違うのか。
「最初にお小水が出たら、お手洗いの後に呼んでくださいね。それから……八時くらいにレントゲン検査があります」
「はい……」
「まだ痛いと思いますが、なるべく体を動かすようにしてください。病棟を散歩したりとか。じっとしていると筋肉が衰えちゃいますし、消化器系も動き出しませんよ」
昨日までは絶対安静だったのに、モードが百八十度転換された。その豹変っぷりに少々面食らってしまった。
レントゲンと聞き、この状態でよたよたと検査室まで行くのか……と絶望していたら、向こうから来た。
技師さんと看護師さんが、ポータブルレントゲン装置を押して病室を訪れた。アームのついた車内販売ワゴンみたいな形をしている。ベッドに寝たまま、背中の下に天板を差し込まれ、アームにつけられたX線照射装置で撮影をされた。手術の後、腹腔内に異常がないか確かめるためだろう。
非常に楽チンで助かったけれど、これ周囲への被爆とか大丈夫なんかいな、とド素人の私はヒヤヒヤした。
検査の後、やっと落ち着いて夫と身内にLINEを返した。
夫は、私からの返信が一向にないので、麻酔で一日以上眠り続けているのだと思い心配していたらしい。そりゃそうだよなあ。一言だけでも昨日のうちに返信しておけばよかったと、反省。
それから、歯を食い縛りつつトイレに行って、出た尿の量を量る。トイレに採尿カップが備え付けられている理由が分かった。
指示されていたとおりナースコールを押すと、看護師さんが計測器を持ってやって来た。たぶんエコーだと思うが、お腹の上から膀胱の中に残っている尿の残量を量られた。問題なく排尿できているかどうかの確認。へえー。
「痛みはまだ強いですか?」
「起き上がるとお腹全体が痛いです」
「じゃあ痛み止めのお薬を出しますね」
うーん、痛み止めかぁ――私はちょっと躊躇した。
普段あまり市販薬を飲まない人間で、頭痛でも生理痛でもだいたい我慢してやり過ごすことが多かった。風邪薬なんかも、体質なのか効き過ぎてしまって、喉が渇いたり眠くなったり副作用がしんどいのだ。
迷っているのが伝わったのか、
「我慢せずに飲んでいいんですよ。。痛くて体が動かせないことの方が悪影響ですから、飲みましょう」
と、言われてしまった。
処方されたのはアセトアミノフェン。どこかで見た名前だと思ったら、新型コロナワクチンの副反応対策で服用したカロナールさんの成分だった。
その節はたいへんお世話になりました。またよろしくお願いします。
午前中に担当医が回診に来て、傷の状態を見てくれた。
チラッと確認して、
「うん、化膿してないね。だいじょぶだいじょぶ」
と言われたのだけど、本当に大丈夫なんだろうか。内科の先生に比べて、この外科の先生はちょっと明快すぎるところがある。
「寝てばかりいないでどんどん歩いてくださいね。筋肉はすぐに衰えるんだからね」
そう念を押された。はいはい、分かってますよ……。
お昼から食事が再開された。
最初は、当然ながら流動食。お馴染みの重湯と具なしの味噌汁、それからゼリーだった。
口に入れて飲み込んだ後かなり不安だった。そんなこと絶対にないと分かってはいるのだが、切り取った胆嚢の『跡地』から漏水するのを想像してしまい、ハラハラする。消化の経路から考えても有り得ない話なのだけど、つい……。
もちろんそんな惨事は起きず、水分でお腹が膨らんだだけだった。
昼過ぎにタマ子ちゃんが顔を出した。
いつものアナログな血圧測定をやって、傷の状態を視認する。腸の動き具合を確認したいので、とお腹に聴診器も当てた。それから一生懸命にメモを書き込んでいる。
メモ帳をスクラブのポケットにしまってから、彼女は明るく言った。
「じゃあ橘さん、お散歩行きましょうか」
「あー……やっぱり歩かないと駄目だよねえ」
「ご一緒しますから、病棟をぐるっと回りましょう。ね!」
私は覚悟を決めた。幸い、薬が効いていて傷の痛みはだいぶ和らいでいる。
ええい、やったるわい!
【今回の学び】
術後二十四時間経過すると、歩け歩けモードにシフトチェンジ。
とにかく腹筋は大事。全身の動作に関わってくる。
鎮痛剤は正しく使えば超有用。