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6.名前

朝。

少しだけ、気分が軽かった。


昨日、池の中から見つかったネックレス。

濁った水の中から彼が掘り出したそれを、私は何度も撫でては、ポケットにしまって、また取り出して――

まるで子どもみたいに、何度も確認していた。


壊されなかった。

奪われなかった。

それが、ただ嬉しかった。


 


昇降口で上履きを履く瞬間、ふと手が止まった。

何もされていない。いつものように隠されてもいない。

それなのに、心がざわついた。


“無事”であることに違和感を抱く自分に、少しだけショックを受ける。


本来なら、これが“普通”のはずなのに。


……いつからだろう。

非日常のはずの嫌がらせが、すっかり私の日常にすり替わってしまったのは。


ほんの少しだけ、悔しくて、情けなかった。


 


教室に入り、席につく。

何も起こらない。誰も何も言わない。


静かすぎる朝に、油断した。


 


「高橋さんってさ〜、意外としぶといんだね〜」


その声が落ちてくるまで、私は気づかなかった。

いつの間にか囲まれていた――いわゆる“一軍”の女子たちに。


声のトーンは笑っていたけど、目はまったく笑っていなかった。

首筋に氷を滑らせるような、嫌な予感が背中を這い上がってくる。


 


「一条くんと藤堂くんに、気に入られたいの?」


どの口がそんなことを、と笑いたくなるけど、喉が固まって声が出なかった。

――彼らの名前。きっと昨日の二人のことだ。


「みんな決まり守ってるのにさ〜。ルール違反はダメだよね〜」

「池の中に入らせるとか、正気じゃないっていうか〜」


嫌味交じりの笑い声が飛び交う。

何を言われても聞き流せばいい、と何度も思ってきたのに。


 


その時だった。


バシャッ。


 


頭の上に落ちてきた冷たい水。

思わず目を閉じた。制服が、髪が、びしょ濡れになっていく。


一瞬、何が起きたのか分からなかった。

声も出せずに固まる私に、次々と降ってくる水の音。


 


「やーだ、くっさーい!」

「池の水じゃん? マジ無理〜!」

「一条くんたちにあんなとこ入らせるとか、意味不明〜!」


バシャバシャと水をかけながら、彼女たちは楽しそうに笑っていた。


私はただ、立っているしかなかった。

髪から垂れるしずく、冷たく濡れた制服。

そのひとつひとつが、じわじわと心を沈めていく。


 


……私が悪いのかな?

最初にメロンソーダを盗んだのはあの男子で。

注意しただけの私が、なぜこうして嘲笑されなきゃいけないんだろう。


そんなことすら、もう言葉にならなかった。


 


「……頭悪」


ぽつりとこぼれたその言葉が、教室中に響いた。


空気が一瞬で張りつめる。


「……なに?」

「耳も悪いの?」

「は……?」

「頭が悪いって言ったの。……分かる?」


目を伏せていた顔を、私はようやく上げた。

ぐしゃぐしゃの髪、濡れた制服。――どうでもよかった。

もう、限界だった。ずっと前から、限界だった。


「こんなことしても、あの人たちの視界にだって入らないのに!」


言った瞬間、女の目つきが変わる。

肩がビクリと震えて、私は思わず目を閉じた。

――次の瞬間、手が出る。叩かれる。そう思った、けれど。


 


「おー、修羅場じゃーん!」


あまりにも場違いなその声が、教室に鳴り響いた。


一気にざわつく教室。

みんなの視線が、入り口に向く。


 


「メロンちゃーん」


「……」


「高橋奈々〜」


「……」


「俺の名前、一条晴翔って言うんだけどさ」


呑気に笑うその声に、胸の奥がギリ、と軋む。


 


「助けてほしかったら――呼んでごらん?」


その声に、私は彼を見る。


夕陽とは違う、教室の蛍光灯の下でも、彼はあの日と同じように眩しかった。

ふざけた口調の奥に、揺るがない強さがあった。


「……ほら、早く」


心の奥にまで届いてくるようなその声に、思わず喉が震える。


むかつく。

ヒーロー気取りが、ほんとに嫌い。


でも――もう、本当に限界だった。


 


「……一条……助けて……」


口に出した瞬間、教室の空気が変わった。


彼は、勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

彼が一歩踏み出すたびに、人が自然と道を空けていく。

まるで王様が通るみたいに。


 


「びしょ濡れじゃん」


「……」


「ねぇ、そこのキミ」


突然、指を差された女子の顔が凍りついた。


 


「誰か知らないけど。ここの掃除、よろしく」


――その言葉だけで、すべてが終わった。


彼は私の腕を取り、何の迷いもなく教室を出ていった。


 


そう言われた女子の顔を、彼は一度も見なかった。

その顔を、名前を、存在すら――知らなかった。


 


彼の世界は、残酷だ。


目に入らない人間には、名前すら与えられない。

光の当たる場所で笑う彼は、時にとても冷たい。


 


それでも――その手のぬくもりだけが、今の私には、やけに温かくて。


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