4.境界線
翌日。
いつものように下駄箱を開けたその瞬間、違和感に気づいた。
あるはずのものが、なかった。
——上履き。
何度見直しても、私のものだけ、ない。
……すごい、と思った。
たったあれだけのことで、“私”を特定した彼らのファン。
たった150円の出来事で、ここまで執着できるんだ。
でも、それ以上に——
それを冷静に受け止めてしまっている自分に、いちばんショックを受けた。
ほんの少し心の奥が痛んだけれど、
私は無言のまま校舎裏のゴミステーションへ向かい、
その中に無造作に放られていた上履きを見つけ出す。
泥に汚れて、踏みつけられた形跡。
それを拾い上げる手は、かすかに震えていた。
メロンソーダなんて。150円なんて。
あんなの、受け流しておけばよかった。
教室に入れば、さっきまであったはずのザワつきが嘘のように消えて、
空気が一瞬で静まり返る。
……沈黙が、鋭く刺さる。
でも私は、まるで何もなかったかのように、自分の席へ向かう。
「あれ?なんか臭わない?」
「ねー、ゴミの臭いする〜」
わざとらしく、でも絶妙な声量で。
女子特有の、あの感じ。
乗ったら終わるって、わかってる。
無視するのが一番って、知ってる。
その日からだった。
私の朝は、“上履き探し”から始まるようになった。
洗っても洗っても、汚されて。
机には油性ペンで書かれた悪口。
教科書のページが破かれて、ぐちゃぐちゃにされて。
——典型的なイジメ。
でも。
私は、転校しようなんて思わなかった。
学校に行かない選択も、考えなかった。
家から一番近くて、通いやすくて、
ちゃんと勉強ができるこの高校に入るために、
私は本気で頑張った。
一時の感情で、将来を投げ出すわけにはいかない。
……そのはずだったのに。
ある日。
体育の授業前に、ネックレスを外して机の中にしまった。
大好きなおばあちゃんの形見。
私が一番大切にしていたもの。
それが——なくなっていた。
笑い声が聞こえる。
どこかで、誰かが楽しそうに笑ってる。
なにが、そんなにおかしいの?
私は夢中で探し回った。
校内のあちこちを走り、ゴミ箱をひっくり返し、
ゴミをぶちまけて、床にしゃがみ込んだ。
紙くず、弁当の残骸、濡れたプリント。
それらをかき分けて必死に探す私の姿は——
……きっと、滑稽だった。
「なにしてるの?」
頭上から声が降ってくる。
見上げた先には、あのときの“集団”のひとり。
整った顔立ち。どこか他人事みたいな声音。
その中にいた、“特別側”の人間。
「あ、メロンちゃん」
「……は?」
「メロンソーダの、メロンちゃん」
変なあだ名。
変な笑い。
「何か探してるの?」
彼がしゃがみかけた、その瞬間。
私は思わず口を開いていた。
「……やめて」
「え?」
「“そっち側の人間”は、触らなくていいです」
私は、自分でも信じられないような声でそう言っていた。
でも止められなかった。
「……もう、奪われたくない」
平凡な毎日も。
普通の自分も。
たったひとつの形見も。
私が大切にしてきたものを、
これ以上、壊されたくなかった。
「“こっち側”に、こないでください」
彼の動きが止まる。
何か言いたげに唇が動いたけれど、
私はそれを遮るように立ち上がって、散らばったゴミを無造作にかき集めた。
何もなかったかのように、その場を後にした。
でも、胸の奥で何かが確かに崩れていた。