氷瀑
父は私が幼いころにいなくなった。
山に登ったきり帰ってこなかったのだ。
父は冬の山が好きだった。
行方不明になった時も雪山に登っていた。
いつかこんなことになると思っていたわ、と母は言った。
私は父が好きだった。
父の私物を整理していた時、日記を見つけた。
そこには登った山とそのルートが記されていた。
いつしか私も冬の山に登るようになっていた。
父と同じように。そして日記の通りに。
登り始めてすでに十年が過ぎた。
これが「最後の山」だ。
日記の最後のページは、この山に登る計画で終わっていた。
父はこの山に登り、そして帰ってこなかったのだ。
偶然にも私は、あの時の父と同じ年齢になっていた。
雪をかきわけて進んだ。
見えている山頂がいつまでも近づいてこない。険しい山だ。
川伝いに登っていく。殆ど凍ったその中心を水が頼りなく流れている。
辿った先に、薄い氷に包まれた巨大な滝つぼと氷瀑が現れた。
アイゼンを靴に装着し、氷の壁にアックスを打ち込む。
慎重に、慎重に登っていく。
父がいなくなって、母は口数が少なくなった。
あの時、小学生だった私にもわかるぐらいに。
再婚もせず、私が独立してからも、三人で暮らしていたあの家にいる。
今でも心のどこかで父を待っているのだろうか。
これまで面と向かって話すことができなかった。母娘なのに。
この山を降りたら、聞いてみよう。
もう少しで、崖を登りきる。
ひときわ強くアックスを突き立て、体を持ち上げた。
その時、氷の向こうに父の顔が見えた。
凍った滝の中に父の姿があった。
ここにいたのね、お父さん
まるで眠っているみたい
その時、氷の壁が軋んだ。
ヒビが入り、瞬く間に亀裂となった。
目の前の氷が割れた。
私は手を伸ばし、父の体を掴んだ。
氷瀑が崩れた。
私と父は一緒に落ちていった。
落ちながら見た空は、どこまでも澄んでいた。