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夢繋ノ書  作者: ラードT
花霞に消ゆ
3/3

霞に消ゆる

 仕事に戻ったあとも、心のざわつきは消えなかった。


 数日、あるいは一週間ほどは何事もなかったように日々が過ぎていった。

 朝起きて、通勤し、会議をこなし、帰って眠る。ごく普通の毎日。


 ──のはずだった。



 あの桜の木は、確かに“いた”。

 夢に見た通りのスマートフォンも、そこにあった。

 俺はそれを拾い、そして、何もせずに戻した。


 観光客としては、それで正解だったのかもしれない。

 だが、何かを“見てしまった”という実感だけは、日に日に重くなっていった。



 やがて、少しずつ、おかしなことが起き始めた。


 夜眠って目覚めると、指先に痺れるような違和感が残っている。

 爪の隙間には、わずかに黒い粉のような汚れがついている。

 気になって洗っても、完全には取れない。


 そのうち、耳鳴りのような音が聞こえるようになった。

 ざあ……ざあ……と、木々が揺れる音にも似た、生ぬるい風の響き。


 聞き慣れたはずの通勤路や駅のホームで、その音がふいに耳の奥で鳴る。

 ──まるで、呼ばれているような気がしてしまう。



 不安になった俺は、一度だけ近所の内科に足を運んだ。


 夢が続くことや、指先の違和感、耳鳴りのことも伝えたが、

 医者は「ストレスや疲労によるものだろう」と曖昧に笑っただけだった。


 血液検査も心電図も異常なし。

 CTを勧められることもなく、「よく休んでください」と言われて終わった。


 ――俺の中で、安心よりも、説明のつかないものが残った。



 数週間が経ち、夢が再び、俺の中に戻ってきた。


 満開の桜の下、俺は立ち尽くしている。

 根が地面を這い、幹に浮かぶ顔がこちらを見つめる。


 俺はその場から動けない。足元から伸びた根が、すでに俺の身体を締め付けていた。


 呼吸が苦しくなる。

 それでも目を閉じることはできなかった。


 夢の中で何かが囁く。

 繰り返し、優しく、粘りつくような声で。


 ──咲け。

 ──おまえも、春の一部になれ。



 ある日、仕事帰りに立ち寄った公園で、一本の桜の木に目が留まった。


 花の季節はすでに過ぎている。けれど、その木の下だけ、落ちきらなかった花びらのようなものが、地面にうっすらとこびりついていた。


 他の木よりも幹が太く、節がやけに膨れている。

 そこに、“顔”が浮かんでいるような気がした。


 いや──気のせいだ。

 ……そう思いながらも、目が離せなかった。


 風が吹いた。

 何も咲いていないはずの枝先から、何かがふわりと舞い落ちた。


 ひらりと揺れて、俺の肩に落ちたそれは、桜の花びらではなかった。

 けれど、触れた瞬間、霞のように溶けて消えた。


 その直後、頭の奥に囁くような声が届いた。


 ──おかえり。



 その夜、風呂上がりにシャツの袖をまくったとき、違和感が走った。


 腕の内側に、赤い斑点のようなものがひとつ。

 かゆみも痛みもない。ただ、じっと見ていると、その中心がほんのわずかに盛り上がっていることに気づいた。


 小さな、小さな、“芽”のようなものだった。


 血管のような筋が周囲に薄く広がっている。

 まるで、それが身体の内側に“根を伸ばしている”ような、妙な感覚があった。


 触れると、かすかに温かく、そして……脈を打っていた。



 数日後、左手の指先に、またひとつ芽が現れた。

 その時、ようやく俺は悟った。これは──もう、止められない。


 洗っても、削っても、それは消えない。

 むしろ、抵抗するたびに身体の内側で何かが“よろこぶ”ような感触が返ってくる。


 すでに、俺のどこかが“別のもの”になり始めていた。


 ──咲け。

 ──繋がれ。

 ──おまえも、春の一部になれ。



 ──翌年の春、公園に一本の若木が咲いた。


 人々は「いつ植えられたのか覚えていない」と言いながらも、足を止めることはなかった。


 それはまるで、最初からそこに根を張っていたかのように──静かに、当然のように、咲いていた。


 その幹には、節がひとつ。

 ほんのわずかに浮かんだそれは、

 笑っているようにも──泣いているようにも、見えた。

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