霞に消ゆる
仕事に戻ったあとも、心のざわつきは消えなかった。
数日、あるいは一週間ほどは何事もなかったように日々が過ぎていった。
朝起きて、通勤し、会議をこなし、帰って眠る。ごく普通の毎日。
──のはずだった。
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あの桜の木は、確かに“いた”。
夢に見た通りのスマートフォンも、そこにあった。
俺はそれを拾い、そして、何もせずに戻した。
観光客としては、それで正解だったのかもしれない。
だが、何かを“見てしまった”という実感だけは、日に日に重くなっていった。
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やがて、少しずつ、おかしなことが起き始めた。
夜眠って目覚めると、指先に痺れるような違和感が残っている。
爪の隙間には、わずかに黒い粉のような汚れがついている。
気になって洗っても、完全には取れない。
そのうち、耳鳴りのような音が聞こえるようになった。
ざあ……ざあ……と、木々が揺れる音にも似た、生ぬるい風の響き。
聞き慣れたはずの通勤路や駅のホームで、その音がふいに耳の奥で鳴る。
──まるで、呼ばれているような気がしてしまう。
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不安になった俺は、一度だけ近所の内科に足を運んだ。
夢が続くことや、指先の違和感、耳鳴りのことも伝えたが、
医者は「ストレスや疲労によるものだろう」と曖昧に笑っただけだった。
血液検査も心電図も異常なし。
CTを勧められることもなく、「よく休んでください」と言われて終わった。
――俺の中で、安心よりも、説明のつかないものが残った。
⸻
数週間が経ち、夢が再び、俺の中に戻ってきた。
満開の桜の下、俺は立ち尽くしている。
根が地面を這い、幹に浮かぶ顔がこちらを見つめる。
俺はその場から動けない。足元から伸びた根が、すでに俺の身体を締め付けていた。
呼吸が苦しくなる。
それでも目を閉じることはできなかった。
夢の中で何かが囁く。
繰り返し、優しく、粘りつくような声で。
──咲け。
──おまえも、春の一部になれ。
⸻
ある日、仕事帰りに立ち寄った公園で、一本の桜の木に目が留まった。
花の季節はすでに過ぎている。けれど、その木の下だけ、落ちきらなかった花びらのようなものが、地面にうっすらとこびりついていた。
他の木よりも幹が太く、節がやけに膨れている。
そこに、“顔”が浮かんでいるような気がした。
いや──気のせいだ。
……そう思いながらも、目が離せなかった。
風が吹いた。
何も咲いていないはずの枝先から、何かがふわりと舞い落ちた。
ひらりと揺れて、俺の肩に落ちたそれは、桜の花びらではなかった。
けれど、触れた瞬間、霞のように溶けて消えた。
その直後、頭の奥に囁くような声が届いた。
──おかえり。
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その夜、風呂上がりにシャツの袖をまくったとき、違和感が走った。
腕の内側に、赤い斑点のようなものがひとつ。
かゆみも痛みもない。ただ、じっと見ていると、その中心がほんのわずかに盛り上がっていることに気づいた。
小さな、小さな、“芽”のようなものだった。
血管のような筋が周囲に薄く広がっている。
まるで、それが身体の内側に“根を伸ばしている”ような、妙な感覚があった。
触れると、かすかに温かく、そして……脈を打っていた。
⸻
数日後、左手の指先に、またひとつ芽が現れた。
その時、ようやく俺は悟った。これは──もう、止められない。
洗っても、削っても、それは消えない。
むしろ、抵抗するたびに身体の内側で何かが“よろこぶ”ような感触が返ってくる。
すでに、俺のどこかが“別のもの”になり始めていた。
──咲け。
──繋がれ。
──おまえも、春の一部になれ。
⸻
──翌年の春、公園に一本の若木が咲いた。
人々は「いつ植えられたのか覚えていない」と言いながらも、足を止めることはなかった。
それはまるで、最初からそこに根を張っていたかのように──静かに、当然のように、咲いていた。
その幹には、節がひとつ。
ほんのわずかに浮かんだそれは、
笑っているようにも──泣いているようにも、見えた。