根に至る夢
視界は白く霞み、空気はひどく甘かった。
足元には黒く濡れた土が広がり、そこから無数の桜が咲いていた。
枝が絡み合い、花が空を覆う。はらはらと花びらが降ってくる中、俺はただ立ち尽くしていた。
どこかおかしい。
──ここは現実じゃない。
その感覚は、確信に近かった。
静かすぎる。風がないのに、花が揺れる。音も、匂いも、全てが濃すぎる。
これは、夢だ。
そう気づいた瞬間、背後で“何か”が動いた。
振り返ると、一本の桜の幹に目が吸い寄せられた。
幹の節々が膨れあがり、まるで人間の顔のように歪んでいる。
誰かがそこに囚われているようだった。
「たすけて……」
花の隙間から、小さな声が漏れた。
人の手が、地面の中から伸びていた。白く、泥まみれで、必死に何かを掴もうとしていた。
その手の先に、泥にまみれたスマートフォンが落ちていた。
拾い上げた瞬間、ざあっと強い風が吹いた。
画面は割れており、透明なカバーの内側に、にじんだ紙が挟まれていた。
そこに印刷されていたのは、大学の学生証のコピー。
塚田優也──。
瞬間、足元から何かが絡みつく感触。
地面に広がる根が、俺の足首を巻き、引きずり込もうとしている。
視界が揺れた。幹の“顔”が笑った気がした。
⸻
「……っ!」
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
布団の中、肩まで汗で濡れていた。夢だった。けれど、あまりにもリアルだった。
体を起こし、何度か深く呼吸をする。
指の間に、なぜか細かい砂のようなものがついている気がした。
⸻
──昨日。
あの桜の木を見たあと、俺はしばらく山をさまよっていた。
あの老婆の言葉が、妙に頭に残っていた。
「よう似とるのよ。あの子と、この木」
「見えんでええもんまで、見てまうんよ」
あの時は気にも留めなかったが、時間が経つほど、じわじわと不気味なものが心に染み込んできた。
あの木の節、靴、声なき囁き。
観光どころではない。俺は予定を切り上げ、そのまま吉野を後にしていた。
⸻
だが、夢の中で見た“名前”が、すべてを現実に引き戻した。
──あの名前。塚田優也。
念のため、スマートフォンで検索をかける。
すると、すぐに記事が見つかった。
「吉野山で行方不明 都内の大学生、塚田優也さん」
「奥千本付近で目撃を最後に消息不明、遺留品なし」
「発見されず、翌月に捜索打ち切り」
背筋に冷たいものが走った。
夢の中で見た学生証の名前と一致する。
だが、俺はこの事件の詳細など知らなかったはずだ。
──なのに、なぜ夢に出てきた?
⸻
その日は会社を休みにして、昼過ぎの電車で再び吉野へ向かった。
ただの偶然では片付けられなかった。あの夢は何かを伝えていた。
もしかすると、本当に“まだ”何かが残っているのかもしれない。
再訪した山は、相変わらず静かだった。
桜はなおも咲き誇っているが、花びらの色が妙に濃く感じられる。
例の木は、昨日と変わらず、あの場所に立っていた。
けれど──気のせいだろうか。幹の膨らみが、少し大きくなっている気がした。
そして、その根元に、それはあった。
泥にまみれたスマートフォン。
拾い上げると、画面は割れていた。電源は入らない。
だが、透明なカバーの内側に、紙が挟まれている。
大学の学生証のコピー。名前は──
塚田優也。
俺はスマホをそっと土に戻し、その場を離れた。
──これは、ただの観光じゃない。
何かがいる。
何かが、花の下で蠢いている。
風が吹く。
ざあ……ざあ……と、耳鳴りのような音が、山の奥から聞こえてくる。
まるで何千、何万の声が、ひとつに溶け合って囁いているかのように──
──繋がれ。