吉野の桜は美しく
数年ぶりに訪れた吉野山。
記憶にない桜の木、落ちていた靴、夢に現れる異様な景色。
桜の下に“何か”が眠っている──
春の山で、ひとりの男が触れてしまった、静かな神話の残響。
春の吉野は、穏やかな霞に包まれていた。
仕事の合間に運良く取れた三連休。週末の混雑を避け、金曜に有休を入れてやって来た俺は、吉野駅のホームに降り立った瞬間、深く息を吸い込んだ。
ふわりと甘い花の香りが鼻をくすぐる。吉野山――桜の名所として知られるこの地には、大学時代に一度だけ来たことがある。それ以来だから、もう五、六年は経つだろう。
改札を抜けてロープウェイに乗ると、山の斜面に広がる桜が眼下に見えた。淡い桃色、薄紅、白に近い山桜が、まるで雲のように重なり合っている。だが、その美しさに感嘆する一方で、ふと胸の奥に引っかかるものがあった。
「……あれ、こんなに桜、あったっけか」
記憶は曖昧だ。ただ、あの頃は今よりもっと木々の間に空が見えていたような気がする。桜の数が、微妙に……いや、確実に“増えている”ような気がした。
山上駅に到着すると、観光客の姿がちらほらと見えた。平日とはいえ、桜のシーズン。年配の団体客や、外国人観光客、カップル、カメラ片手のひとり旅らしき人々もいる。とはいえ週末のような混雑はなく、程よい賑わいが心地よい。
昼前には、表通りの土産物屋を一巡し、名物の柿の葉寿司と桜餅を食べた。喫茶店で桜ラテを飲みながら、ぼんやりと山の稜線を眺める。心が洗われるような時間だった。
その後は、地図を頼りに徒歩で奥千本方面へと向かった。
途中、野猿の群れが木々を渡るのを見かけたり、寺の境内で鐘をついたりしながら、さらに奥へ。観光客の数は次第に減り、やがて人の気配が薄くなっていく。
そして、あの桜の木の前で、俺は足を止めた。
周囲よりやや低い斜面に、それは立っていた。幹が太く、まだ若い木のように見えたが、花の色がどこか濃い。根元には――黒いスニーカーが、片方だけ転がっていた。
泥が乾いたままこびりつき、ややくたびれてはいたが、靴紐は綺麗に結ばれている。誰かが落としたにしては、不自然な位置だった。まるで、中にいた人間だけが“溶けて”消えてしまったかのように。
俺は見上げた。桜の幹には、妙なこぶがあった。幹の節がねじれ、腫瘍のように膨らんでいる。よく見ると、そこには――顔のような模様が浮かんでいた。
「……顔?」
いや、そんなはずはない。ただの木の模様だ。だがその節々は、今にも何かが叫び出しそうな、歪んだ表情に見えた。
その瞬間、風が吹いた。
さらさら……と花が揺れる音に混じって、どこか遠くから、ざあ……ざあ……という不快な音が聞こえたような気がした。
風の音にしては湿り気があって、生ぬるい。まるで、幾千の囁きが耳の奥で渦巻いているようだった。
――繋がれ。
誰かが、そう囁いた気がした。
思わず後ずさったとき、背後から声がかかった。
「その木な、去年まではなかったんよ」
振り向いた先に立っていたのは、小柄な和装の老女だった。年の頃は七十代。背は曲がっているが、目だけは鋭く澄んでいた。
「若い男の子がひとり、この辺りで消えてね。春の終わりごろやった。あんたくらいの年の子やった」
俺は黙って聞いていた。
「警察も探したけど、結局見つからへんかったんよ」
「……でもね」
老女は、桜を見上げてぽつりと言った。
「その年の桜、一本だけ増えとった」
一瞬、冗談かと思ったが、笑ってはいなかった。
「よう似とるのよ。あの子と、この木。……何かを、言いたそうな気がしてな」
老女は少しだけ間を置き、ふと俺を見た。
「あんたのような子が、よう見つけてまうんよ。見えんでええもんまで、な」
「……出来れば、もうあんまりこの辺りには来んことや。」
老女はそれだけ言って、静かに山を下りていった。
俺の足元に、花びらが一枚、ひらりと舞い落ちる。
それは、人の涙のように見えた気がした――ほんの、わずかな時間だけ。