その身に捧ぐは
「ただいま戻りました」
「おかえり、早かったね」
「そう、でしょうか……」
「そうだよ。行ってすぐだろう? ま、こうなるってわかってたけどね」
茶目っ気たっぷりにウインクしてみせたのは、精霊国の王だった。
――アザレアは、精霊国に嫁ぐことになった元人間である。
精霊が住む国。
この世界には人間以外の種族も存在していて、精霊国はその中の一つだ。
人とはそれなりに友好的で、いくつかの国との国交もある。
だがしかし、見た目は人と異なる者も多く存在していた。
故に、未だに迷信めいた噂が流れていた。
人の姿に近い精霊たちはともかく、異形としか言いようのない姿の精霊たちは時として人を食らうのだ、とか。とはいえそういった噂は何も精霊に限った話ではない。人以外の種族にはそれなりに存在している、それこそよくある噂の一つだ。
アザレアは、あわよくばそういった異形の精霊に食われてしまえという思惑と共にこの国に嫁ぐ事となった。
アザレアが暮らしていた国と、精霊国。二国間の仲を深めるため、友好のため、と表向きは言われていたが実際は死ぬことを望まれていたのだろう。
言うなれば、生贄である。
生贄であるが故に、死んだところで何も問題はない。
そう、思われていた。
アザレアの生家は、数ある伯爵家の中の一つであった。
本来ならばアザレアが将来婿を取り家を継ぐはずであった。
だがしかし、政略結婚で結ばれたアザレアの両親の仲は冷え切っており、アザレアの母が死んだ直後に父は後妻を迎え入れた。
後妻、とはいうが元は愛人だったのだろう。
母とは異なる美貌の持ち主には、既に娘も一人いた。
アザレアと一つ違いの娘。
同じ父を持つ娘。
それだけで、どういう事であるかアザレアは幼いながらも理解するしかなかったのだ。
そしてアザレアは異母妹に出会った最初の時点からして憎まれていた。
曰く、自分は平民として苦労して育ってきたのに何不自由なく育っていたアザレアが憎いのだそうだ。
そう言われても、異母妹が生まれた時点では事実彼女は平民だった。貴族の愛人という母を持つ平民である。
身の丈に合った相応の暮らしをしていただけだ。
そこにアザレアの意思は何もない。
そういった生活をさせていたのは父であるし、愛人を囲うにしても父がもっと苦労の無い暮らしを提供していれば良かっただけの話だ。
まぁ、入り婿である父にそれだけの甲斐性がなかった、といえばそれまでの話であるが。
そんな父はというと。
母が亡くなった事で我が世の春が来たとばかりに、今こそ我が天下とばかりに好き勝手やらかした。
一応貴族としての教育も受けていたからこそ、早々に破綻するような事はしなかったけれど。
しかし彼は伯爵家の当主ではなくあくまでも中継ぎだ。次の後継者、当主となるのはアザレアである。
だが、父はそうなる前にと様々な手を打とうと試みた。
そして、困った事にアザレアは王子の婚約者になってしまったのである。
本来ならばほかに候補はいただろう。
けれども、王子と同年代の令嬢たちの中で選ぶとなると、少々難航していたのである。
そこに一体どういう手段でもってか、父はアザレアを婚約者としたのだ。
いっそもっと無能であったならばそうはならなかったものを。
異母妹を優遇し、アザレアを家から追い出そうとしているのがありありと透けて見えた。
けれどもこのままアザレアが王子と結婚する事になったなら、報復されるとは考えなかったのだろうか? という疑問は結局のところ考える必要がなかった。
王子はアザレアとの婚約を不服としていた。
アザレア本人に、というよりは王子である自分の婚約者が『たかが』伯爵家の娘というのが気に食わなかったのである。
自分にはもっと相応しい相手がいる。幼くしてそう思い込んでいた。
王族の婚姻相手と考えれば、確かに伯爵家は問題はないがそれでも少々……と言われる事もあるけれど、だがそれはアザレアにだってどうしようもない。
元々アザレアは王子と結婚する事になるだなんて思ってもいなかったのだから。
むしろアザレアは大人の事情に振り回された被害者である。勿論それには王子だって含まれるものだけれど。
王子の婚約者となったアザレアの生活は一変した。
将来の王妃となるべく、相応しい教育を施された。
家に帰る余裕なんて与えられず城の一室を与えられ、自由なんてほとんどないままに様々な事を学ぶ事となったのだ。
常に教師がいる。護衛と呼べる相手もいた。一人になる時間などどこにも存在はしない。
監視が常についているようなものだった。
王子との仲は良好と言えるものでもないからこそ、アザレアの生活は常に息苦しいものだった。
王妃も実の息子である王子の事は溺愛していたが、その嫁となるアザレアに対しては王子同様気に入らなかったのか小さな失敗を論ってはねちねちとアザレアの精神を削っていった。
そして、そういった態度はそれを目撃していた使用人たちから他の使用人たちへと伝わって、アザレアの扱いは次期王妃としては随分と軽いものだった。
貶めてもよい存在。
悪口を言ってもいい相手。
恐らくは、そういった認識だったのだろう。
ある程度成長して貴族たちが通う事が定められている学園に通うようになってから、王子は遅まきながら初恋を迎えた。
それは、よりにもよってアザレアの異母妹であった。
日々王妃教育というものに追われていたアザレアはあくまでも噂程度にしか知らなかった。
決して、嫌がらせなどできる暇はなかったのに。
それでも、王子の最愛の女性をアザレアは嫉妬で嫌がらせをし虐めぬいたという事になっていた。
学園にいる間は常に護衛がいるために、自分が彼女に近づいた事など一度もないという証人はいる。
学園の授業が終われば王子と違い真っすぐに城に戻りまたもや勉強、常に教師がいるので、アザレアが一人で自由に行動できる暇など到底ありはしない。
だというのに。
アザレアはやってもいない罪を背負う事となったのである。
結果として婚約は破棄。
アザレアに対して王子は処刑を望んでいたようだけれど、そもそも無実だ。そんな相手を処刑し、後に真実が明かされた場合王家の威光は確実に失墜する。
そこら辺を考える頭はかろうじてあったようで、故にアザレアは。
他国へ嫁として追い出される形となったのである。
アザレアの生家が果たしてどうなってしまうのか、という不安はあったけれど。
何をどう考えた所で今更すぎたのだ。
ただただ周囲に翻弄され続けたちっぽけな少女一人にできる事などたかが知れている。
ほとんど何もできなかったからこそ、こういう結果となってしまったのだ。
全てが終わってから、今更のようにあの時ああしていたら、とか、こうしていたら、というもしもの事を想像したりもしたけれど。
けれど、それでも。
結局どこかでまた同じように誰かがアザレアの妨害をしたのだろうと考えると。
遅かれ早かれ結末は同じだったのかもしれない。
いっそアザレアが死ねばいいと思っていただろう王子は最初、他国へ貢物同然で差し出すのであれば獣人国や魔人国の方がいいと言っていたのだけれど。
獣人国は人間の国との国交に積極的ではない。
故に突然両国の仲を深めるために、などと言ったところで逆に不信感を抱かれて警戒され、両国間の仲が深まるどころか余計な緊張をもたらして最悪戦が始まる可能性があった。
アザレアを始末しようとして、結果自国までもが滅ぶのでは洒落にならない。
故に獣人国へ、という案は却下された。
魔人国も同様であった。
むしろ獣人国以上に他国と関わりを持たない事で有名である。
そんな所にアザレアを送り出したとして、アザレアの首だけが返ってきた、とかであればいいが下手に開戦の報せだと思われて侵略されてはたまったものではない。
結果として、それなりに国交を結んでいた精霊国へと送り出されたのだ。
アザレアを精霊国の王家へ、というわけではない。そちらの国の貴族との縁談を、という形であった。
もし王家と婚姻を結ばせて下手にアザレアに権力を持たせたらこちらが危険である、という考えがあったのかもしれない。
だからこそ、アザレアは精霊国の同じく伯爵家の者と結婚する形となった……はずだった。
ところがアザレアが実際嫁ぐことになったのは、なんと精霊国の公爵家である。話が違う。
アザレアも突然それを知る事になったので、思わず驚いたのだ。
それについて、精霊国の王が直々に説明してくれた。
国を追放される形でこの国に来たアザレアからすればそれだけで破格の対応である。
王曰く、本来アザレアが嫁ぐはずだった家の者は、アザレアが国に到着する前に死んでしまったのだとか。
精霊は基本的に人間以上の長命種であるのだが、それでもいずれ死は訪れる。
そして、それがアザレアが国につく少し前の話だった、それだけの事なのだが。
きっと嫁ぎ先を決めた者は、年老いた貴族の後妻か愛人にでもしてやろう、くらいのノリで決めたのかもしれない。その感覚はあくまでも人間のものであって、実際とても長命でご高齢であっただろう精霊をその感覚で決めたに違いない。今にもぽっくり逝きそうな相手だとかそこまでは考えていなかったのではないだろうか。ノリで決めたのではないかとアザレアは思っている。
だがアザレアが顔を合わせる前に死に、その姿を見る事なく葬儀は終わりそしてアザレアが到着した。
流石に結婚相手が死んだから国に帰れ、といくら事実であってもそうした場合、アザレアの事が気に入らず追い返したと受け取られる可能性もあった。
人間の国とそれなりに友好的とはいえ、その関係は薄氷の上のようなもの。何かのきっかけで簡単に壊れてしまう危うさはあった。
そして、アザレアを早々に帰した場合、それを口実にこちらの国に付け入る隙となるのではないか、と精霊国の貴族たちも危ぶんだのである。
精霊たちはアザレアの事を徹底的に調べた。
結果、彼女が厄介払いをされる形で追い出されたのだと知る。
つまり、こちらで何かそれらしい事を言って帰したところで彼女の帰る場所は――生家があるとはいえそこは安息の地とは言い難い。
下手に難癖つけられるのも面倒。けれども向こうは彼女を追放する形でこちらに押し付けたので、今更やっぱり帰して、とは言わないだろう。いやどうだろうな、と一部の者は思ったのだけれども。
だが、婚姻を結ぶ前にやっぱり帰して下さい、ならまだ引き返しようもあるが、婚姻を結んだ後で言うのであればそれは流石に……
とも大半の精霊国の貴族たちが思いもしていた。
ともあれ、精霊国にとって人間というのはそれなりに貴重な資源でもあるので。
アザレアを追い返すという選択肢はなかったのである。
そもそも、異種婚姻に関する話はそれなりにあるけれど、その大半は作り話である。
見た目が似ていようとも身体のつくりが異なる種族で結ばれたところで、子が産まれるかはほとんど運だ。というか、普通に考えれば生まれる可能性の方が低い。
人間種族の多くは知る由もないが、異種族、それも長命の者であればその分子が生まれにくくなるのは人間以外の種族からすると常識であった。
弱肉強食――知能を持ってそこから逃れたと思っているのは人間種族くらいで、実際はどの種族もそれに当てはまる。弱者である種はより多く命を生み育て次代に繋がねばあっさりと滅びるし、その逆に力ある種はひとたび生まれて育てば滅多に死ぬこともない。故に、子を産み育てる環境をじっくり選ぶことができる。結果として頻繁に産むような事をしなくてもよい、という話でもあるのだが。
あまりに長命すぎる種は時折うっかりそのことすら忘れるのだ。
自分の人生を楽しんでいるからこそ、次の世代とかまだ先で大丈夫だろうと楽観的に見た結果、気付けばそろそろ後継ぎを……となるのだ。
だが、いざそうなった時に都合よくお相手ができるとは限らないし、そうなるととても困るのである。
慌てて相手を探そうとしても見つからず、気付けばそうして数十年、なんて者も決して少なくはない。
運よく相手が見つかったとしても、子がすんなりとできるとも限らなかった。
その原因が年齢によるものである場合もあるけれど、純粋に近しい血筋の場合である事もある。
ガッツリとした近親相姦とまではいかずとも、ギリギリそこに該当しそうな感じで婚姻し子を作ってきた一族は精霊国の中でもそれなりにあるのだ。
そうなると、次代を生み育てようにも中々できない、なんて事もある。
であれば、他の血を混ぜるのが簡単な解決策ではあるのだけれど。
都合よくそういった相手がいるならそもそも最初からそういった相手を選んでいる。
精霊国は困った事に長命種たちの国であるがゆえに。
年代が離れていてもそこらの田舎の住んでる連中皆家族、くらいの近しさが存在していたのである。
だからこそ、アザレアのような存在は追い返そうとなるよりもむしろ喜ばしくあった。
子孫を残すために打ってつけの存在。
そういった意味での資源扱いである。
とはいえ、何もひたすら相手を選ばず子を作り続ける道具として扱うつもりはない。精霊たちとてそこら辺の倫理観は持ち合わせている。
とはいえ、人の見た目に近しい姿をしている精霊もいれば、そうではない者もいるからこそ。
明らかに人と身体のつくりが違うのはわかりきっている事で。
そのままでは子を作ろうにも難しい。
できなくはないが、産む側が人間であるのなら母体が危険である。
何せ普通の赤ん坊であればいいが、人とは異なる姿で生まれるとなった場合、母体がその衝撃に耐えられない可能性がある。
父親が人間である、のであればまだしも、母親が人間である場合出産時に死亡する確率がとんでもなく跳ね上がってしまうのだ。
いくら子孫を残そうと思う精霊たちであっても、流石にそれは……と思うだけの情緒はある。
だからこそ、精霊たちは母親側が人間である場合に限り――父親側が人間であっても本人が望んだ場合も同様に――精霊たちの秘術による種族転換の儀を執り行うのである。
精霊国にいる人とそう変わらない姿をした精霊には実のところ二種類存在する。
力があって人に近い姿でいる純精霊と、種族転換の儀により人が精霊に転化した存在だ。
人からすると区別がつかないが、精霊たちからすると一目瞭然なのだそう。
ともあれ、帰る家もなくて行くアテもないのであれば、とアザレアは種族転換の儀を受け精霊となり、後継ぎを欲していた公爵家へ嫁ぐことになったのである。
種族転換といっても、アザレアの見た目が大きく異なる事はなかった。普段は今までと同じ人の姿である。
それでも、精霊っぽい見た目になろうと思えばなれる。とはいえ、精霊になったばかりのアザレアにとってそれをやるのは中々に難しく、しかも疲れるので滅多にやろうとは思わなかったが。
精霊としての力の使い方は追々教えると言われ、実際その言葉通りにアザレアは夫となった精霊に教わって、能力的には下位精霊程度の力を使えるようになった。
精霊たちの中では下っ端も下っ端だが、しかし人からすればそれでも恐るべきものである。
けれども、アザレアはその力で自分を国から追い出した連中をどうにかしてやろうなんて考えていなかったが。
なにせ案外快適だったのだ。
確かに精霊たちの国では、人として過ごしていたところと多少常識が異なるものもあったけれど、全部が全部違うわけでもない。種族が違うからいっそ別世界に来たみたいな気持ちだったけど、実際のところは人が暮らす隣国へきました、くらいのものだった。
アザレアが暮らしていた国で流れていた異種族たちの噂の大半はこうしていざ精霊国で暮らしてみると、噂は噂でしかなかったのね、と思うだけだった。
種族転換したばかりでいきなり子を、となると身体への負担が激しいからとの事で、後継ぎはもう少し先に作る事になりそうではあるが、それでも充分大事にしてもらっている。
やってもいない悪事を断罪される事なんてないし、家にいても安らげないなんて事もない。
常に監視みたいに誰かがじっと見ているわけでもないし、自由時間が一切ない生活を強制されたりだってしていない。
あまりにも快適すぎて、このままでいいのかしら、と不安になって自分にできる事はやっておこうと夫にあれこれ確認して妻としてできる事をやっていくうちに、夫となった相手との仲も当初アザレアが思っていた以上に深まっていた。
そしてそこで気付いたのだ。
なるほどこれが恋。
王子相手には全くなかった感情である。
大体、アザレアと婚約が結ばれた際、伯爵家の娘が不満であるとのたまいながら、結局彼が選んだのは異母妹だ。せめて相手が自分より上の身分の令嬢であれば素直に認めてその座を譲ったというのに。
結局のところ、単純にアザレアの事が気に食わなかっただけなのだ、と理解してしまえば。
なんだかもう何もかもどうでもよくなってしまったのだ。
こうなった以上それらは過去の話で、であれば大切なのはこれから先、未来の事。
自分の家がどうなってしまったか、気にならないでもなかったけれどしかし母が死んだ後の生家は父や後妻が好き勝手していたからそのうち没落していたとしてもおかしくはない。
王子についてもどうでもよかった。
そんな事よりもこの国でできた大切な人達のために時間を使った方が余程有意義だったので。
ところがだ。
ぼちぼちアザレアも精霊として慣れてきただろうし、そろそろ後継ぎを作るべく行動に移りましょうか……となったあたりで。
アザレアがかつて暮らしていた国からアザレアに戻ってこいとの通達がきたのである。
ちなみに追い出されて二年程が経過していた。
大体罪人として追い出したようなもので、しかも死んでたらそれはそれで、みたいな状態だったのに今更戻ってこいとはどういう事だろうかと思うのも無理からぬ事であった。
なんでも届けられた手紙には、今までのアザレアがやったらしき悪行の数々は異母妹と王子が結ばれるために邪魔になったアザレアを陥れるための冤罪であった事が証明されたと記されてあったが、今更である。
大方王子の婚約者となる家の娘が変わっただけ、くらいの軽いノリ程度にしか思ってなかった王子も、王子の妻になれば贅沢三昧できると思っていた異母妹も、現実の厳しさに今更打ちのめされたというところだろうか、と思いつつ手紙を読み進めていけば、どうやらアザレアの遠縁が関わっていたようだ。
父が自分こそが伯爵家の当主であると思い好き勝手やらかすようになってすぐの頃に、とっくに隠居していた前の当主、つまりはアザレアの祖父が亡くなってしまった。
そのせいで余計に父が思い上がった行動に移ったともいえるのだが。
祖母はアザレアの母が亡くなるより少し前に亡くなっていたので、そうなると父を諫められそうな相手がいなかったというのもあった。
だが、父は結局どこまでいっても伯爵家の正当な当主ではない。アザレアが王子の嫁となったとしても、父がそのまま伯爵家の当主でいられる事はないのだ。
だが、アザレアを追い出した後、伯爵家の親類たちの中で次に誰が後継者となるのか、という疑問を持ったらしい。
主に、それぞれの家の後継ぎになる事のない次男や三男たちが。
てっきり自分たちの誰かが養子に迎え入れられてそうして伯爵家を継いでいくのだと思っていたのだが、父がそうする素振りは一切ない。
入り婿である父は正当な後継者になれず、更にアザレアは国を追い出されてしまった。
では、後妻との子をまさか跡取りに……? と思いきや今度はそちらが王子と婚約を結ぶという話が出て、ではあの家はどうするのか、という流れを経て父が伯爵家を好き勝手していた事実が明るみに出たのである。
正直今までも散々好き勝手していたけれど、だが周囲の貴族たちとてそれはあくまでも中継ぎの代理としての範囲内でやっていると思っていた。
あからさまに非常識さを前に押し出していたわけではなかったようで、だからこそそう思われていたらしい。
ところが実際はそうではなかった、という事が明るみに出て。
これは家を乗っ取る行為ではないか、と伯爵家の縁者に詰め寄られそこで父は裁かれる事となったのである。アザレアからすればとても今更であった。
父が裁かれれば、後妻とその娘がそのまま、というわけにもいくまい。
伯爵家に関する権利の全てを失った父は最早伯爵を名乗る事を許されず、実家に帰ろうとしても父の実家からも拒絶される始末。
まぁ当然だろう。
まともな貴族であるならば、家を乗っ取ろうとした相手を温かく迎え入れてやれるか、となれば土台無理な話だ。迎え入れた時点でその家の者たちはそういった考えが当然である、と思われてもおかしくはない。むしろそういった教育をしていたのですね、なんて噂がちらとでも流れてみろ。
父の実家そのものが終わりかねない。
家を守るためには、父を拒絶するしかなかったのである。
そうなれば、今までのように貴族として暮らしていけるはずもなく。
後妻と異母妹もまた今までの暮らしを強制的に捨てる結果となってしまった。
後妻はさておき、異母妹は王子の新しい婚約者となるはずだった。
ところが、そもそも貴族としての暮らしに憧れを持ってはいたものの貴族としての義務をきっちり果たそう、という程の考えまでは持っていなかった異母妹は、王妃教育以前で躓いていた。
まず貴族としての常識や考え方ですら危うかったのだ。
お茶会やパーティーなどに参加するために覚えた部分は一応それなりに見れなくはなかったけれど、それ以外はほぼ全てがアウトだった。
それ以前にマトモな貴族としての立場ですらなかった異母妹をそのまま王子と結婚させられるはずもない。
せめてどこか他の家に養子に迎えてもらって、身分だけでも体裁を整えようとしたのだろう。
だがしかし、異母妹を受け入れてくれる家がなかったのだ。
これもまた当然である。
伯爵家の正当な後継者である姉を追いやるような真似をした挙句、貴族としての常識すら危うい娘を自分の懐に入れようなどと考える貴族がいるはずもない。
そんなもの、身の内に抜身の刃物をそのまましまい込むような行為に等しいのだから。マトモな頭をしていればそれがどれだけ危険であるかなど考える必要すらない。
そうなると、異母妹を王子の新たな婚約者に、などとできるはずもない。
いくらその姉が気に食わなかったといえ、王子自ら選んだ娘とはいえ、そのまま婚姻を許可するなどできるはずもない。アザレアの事が気に食わなかった王妃でさえ、異母妹とそのまま王子を結婚させればとんでもない事になると理解できていた。
アザレアと異なり王子の愛を得ていた異母妹ではあるが、持っているのはただそれだけ。
愛だけでどうにかなるような立場ではない。ましてや、それ以外は姉に劣っているのが明白なのだから。
側妃を……と一瞬考えた王妃であっても、それが無理だとすぐに気づいた。
今となっては貴族を名乗るのも……といった父の娘。つまりは彼女もまた貴族とは到底呼べない立場である。
そんな相手を王妃にして、その側妃として彼女の尻ぬぐいを……一体どこの令嬢が喜んでやるというのか。マトモな神経をしていれば断るのは当然の事であるし、もし引き受けるという相手が現れたとしてそれは王家に対して一体どんな要求を吹っ掛けてくるか……
王妃としての能力はなし、と判断されて王子との結婚はおろか婚約すらなかった事にされた。
アザレアにとっての義母と異母妹に関して、その後どこへ行ったかは定かではない。父の元に行ったところで生活は苦しいだろうし、他に自分たちを養ってくれるだろう相手を見つけそちらに縋りついている可能性もある。
どちらにしてもロクな結末しか残されていないだろうな、と思えるもので、アザレアからしてもそれ以上は興味を持たなかった。
この一件で困り果てたのが王家である。
王子の婚約者に冤罪を吹っ掛け国を追い出し、新たに婚約者になった娘も問題あり。
今まで優秀だと思っていた王子のどうしようもない部分が露呈し、そもそも同年代で婚約者を選ぼうにも難航していた相手だ。
少しばかり年が離れた相手から新たに婚約者を見つけようにも、我こそはと名乗り出るような令嬢が現れるはずもなかったのである。
むしろ聡い高位貴族たちの中で令嬢を子に持つ家は早々に婚約者を作り王子との縁談などさせないようにしていたし、伯爵家という家柄ですら王妃が気に食わなかったという話も既に流れている。
故に、伯爵家のご令嬢たちもまた王子との婚約などごめんであった。
せめてお互いに歩み寄って良い関係を築いていこうと思う相手であればまだしも、王子がそういう人間ではないと既に周囲にはバレているし、ましてやその母――王妃も同様の考えの持ち主であると知られている。
婚約した時点で面倒な王妃教育が待ち構えていて、更に王子はこちらと交流を深めるつもりもない。挙句浮気だってするような相手だと知られているし、そちらに心が傾けば邪魔とばかりに冤罪をかぶせてでも婚約を破棄してくる。更に自分をいびる事がわかりきっている姑付き、となれば、一体どこの誰がそんな相手と結婚をしようと思うのか。
国のためというのなら、もう少しマシな相手を持ってこい。政略だからって限度はあるぞ。
それが、令嬢たちを持つ父の正直な気持ちでもあった。
つまりは、王子の結婚相手がいないのである。
適切な王位継承権を持つ者が他にいなかったのも拍車をかけた。
全くいないわけではないが、王子より年上の者のほとんどはとうに臣籍降下した後で、王子より年下の者は本当に年端もいかぬ子どもである。王子を一時的に中継ぎ扱いにしてそちらの教育に力を入れるにしても、万が一の事を考えると中継ぎであっても王子に結婚相手がいないのは問題であった。
他国の間者が、この国を弱らせようとするならば今がチャンスでもある。
年端もいかぬ幼子たちを悉く始末してしまえばどう足掻いても王子が国を継ぐしかない。事前に争いの種をなくす形で王子に断種処置をしたとして、もしそうなれば最悪次代は消える。
王家の血が絶え、他の者が王位に、となった時。
野心を抱く貴族たちの多くがその争いに参加するだろう。
流石にそこまでの展開に持っていくつもりは王家にもないが、それでも万が一というのはある。
故に、現時点で王子に子を作れなくさせるという処置をさせるわけにもいかず。
王子以外の者を王太子に指名するにも早すぎて。
王家はかなり困り果てていたのであった。といっても自業自得でしかないが。
子育てに失敗した結果、と言ってしまえばそれまでだが、一般家庭ならそこで仕方ないねで済むかもしれないが、何分王家であるので。
どうにかしないといけなかったのだ。
結果として、目をつけられたのはアザレアである。
伯爵家そのものは宙ぶらりんの状況であるとはいえ、家そのものが完全になくなったわけでもない。
そしてかつての罪は冤罪と証明され、罪そのものがなかった事にされた。
つまり、アザレアは罪人ですらないのだ。
そして王妃にいびられつつも王妃教育をこなしていたので、現時点で王子の結婚相手として不足はない。
アザレアに謝罪して戻ってきてもらって王子と結婚すればすべてが丸く収まる、と思った者は困った事に一人や二人ではなかったのだ。
だがしかし、アザレアが国を離れたのは精霊国に嫁ぐためである。
既にあれから二年が経過していて、本来予定していた相手とは違うもののアザレアは既に結婚している。
離縁して、その上で戻り王子と結婚しろという事か、とアザレアはあまりの身勝手さに思わず怒りで身体が震えた。
そしてそれは、アザレアを妻とした公爵も同様であった。
大体、既に種族転換の儀を済ませアザレアは人ですらない。
もう一度種族を戻すとなると、アザレアの身体に大きな負担がかかる。最悪死んでしまうかもしれないのだ。アザレアの夫がそれを望むはずもなく、こうなったら彼の国には厳重に抗議でもしてくれようかと思っていたのだが。
そこに待ったをかけたのが精霊国の王である。
王曰く、一度、戻るだけ戻ってやればいいんじゃないかな、との事であった。
戻ったが最後、一切心に響かないだろうお涙頂戴の形だけの謝罪でもってアザレアをいいようにこき使おうと思っているだろう相手の思う壺になりそうではあるのだが、現実ってやつを見せてくればいいと言われてしまえばそれ以上王に対して抗議もできなかった。
自分たちがやらかした結果が何をもたらしたのか。
謝れば何もかも元に戻るなんてあるはずがないと向こうだってこどもじゃないんだからわかっているだろう。
その上で、現実を見せてやればいい。
淡々と王に言われ、公爵は結果としてあの国と戦になる可能性はと問うた。
その疑問に王は構わないと返した。
たとえ戦になったとしても、そうなればあの国を蹂躙すれば済むだけの話。こちらが負ける事はない、とも。
そこまで言われてしまえば、行くしかなかったのだ。
とはいえ、アザレア一人で戻る事にはならなかった。
夫も一緒である。
というか、お互いの国の仲を深めるために、という意味合いで差し出してきたアザレアをそちらの都合でやはりこちらに戻してほしいと厚顔無恥にものたまったのだ。事情を説明する相手は必要だし、その相手がアザレアの夫になっただけだ。
アザレアの夫以外にも、使節団という形で数名精霊たちが招集されてアザレアはかつての故郷へ戻る事となった。
飾る言葉もないままに述べるのであれば。
茶番としか言いようがなかった。
形ばかりの謝罪をされて、このままでは王子の結婚相手がいないというのもあってどうか戻ってきてくれ、ととても今更な事を言われた。
覚える価値もないくだらない言葉だったので、アザレアは要約してふんわり程度でしか認識しなかったが、アザレアの夫となった公爵からすればその戯れ言を放置するわけにもいかない。
既に彼女は結婚している。それを今更離縁してそちらに戻せという事だろうか?
とても冷ややかな声だった。
王子の嫁に、と望んだ相手が既に人妻で、離縁という貴族社会、それも女性にとっては致命的な瑕疵になりそうな事をしてまでも、する事かと問われるのは当然の流れでもあった。
そうまでしないと王子の結婚相手がいないのか、と言外に含まれてもいた。
むしろそういった女性しか相手がいない王子というのもどうなんだろうか、と。
現状自らの立場がとても不安定になっている王子は、それでも引き下がらなかった。
ここでアザレアと結婚できなければ、自分の立場はとても危ういと理解しているのだ。
醜聞は既に広まっている。他国の王女や貴族令嬢が嫁いできてくれるか、となればそれも難しい。逆に、他の王位継承者に王位を譲って王子が他国へ婿として国家間の友好を、なんて名目で出ようにも、王子の貰い手がいないのだ。
王子が現状を打破するためには、アザレアと和解し元鞘に戻り結婚し王にならなければならなかった。マトモな神経と考え方をしていれば、それが夢物語であるとわかったはずなのに追い詰められているからこそ視野が狭くなりそんな事にも気付けない状態だったのである。
伯爵家との結婚を無かったことにして、改めてこちらとの婚姻を、と王子が言いかけた時点で公爵が遮った。
彼女は公爵夫人であると。
本来結婚するはずだった伯爵はアザレアが国に来る前に亡くなって、かわりに公爵家がもらい受けたのだと。
どうせ国から追放する形で追い出したようなものなのだから、戻されても困るだろうと精霊国でも彼女の事を考えた上で、そうなったのだ、と言外にお前らの尻拭いをしてやったのだと滲ませれば。
王子は一瞬言葉を失い王妃は唇を噛んでアザレアを睨みつけた。
伯爵家くらいであれば他国であろうとも王家が望んだ事だから、とごり押せたかもしれない。だが公爵家の婚姻を無かったことに、となれば相応の代価が必要になる。
伯爵家相手であったとして、それでもこの国の王家が望んだから、となれば精霊国はこの国に恩を売る形で何らかの利益を得る事にはなっただろうけれど、王家が大きな損害を出す程ではなかったはずだ。
だがしかし公爵家相手にその結婚やっぱり無かったことに、となればその代償に何を支払うべきか。
ひっそりと結婚式を行った、とかであれば。
それこそ当初の目的の伯爵家の後妻としてであれば、結婚をした事すら周囲が知らないままであった可能性もある。だからこそ、それならばもしかしたら上手くいったかもしれない。
だが、年齢的にも若く、結婚式も周囲に知らせる形で行った公爵家ともなれば。
何事も無かったことに、とはできるはずがない。
これが自国の中だけでのやりとりなら、無理を通せたかもしれない。それこそ王家に忠誠を誓ってどうのこうのと美談に持ち込んでいかにもな展開に運べた可能性もあった。水一滴分くらいは。
だが、アザレアは国家間の友好の証と表向き言われて他国へ出たのだ。
この国の王家の我儘としか言えない事に、よりにもよって他国の公爵家を巻き込めば、相応の代価が必要になるのは当然であった。
アザレアを戻す代わりに、とどんな無理難題を吹っ掛けられても望んだのが王家であれば、断るわけにもいかない。
気持ち的には一銭の価値にもならないと判断して捨てたごみを、やはり必要だからと取り戻そうとしたら実はとんでもない価値のお宝になっていて相応の支払いを要求されたようなものである。
王家の、というか王妃と王子の見る目が圧倒的に無かった、と言われてしまえばそれまでの話ではあるのだが。
話の流れでまだアザレアが初夜を迎えていないことを知った王子はまだアザレアが自分に気があると何故だか思い込んだ。直前で公爵が彼女がこちらの国での生活に馴染めるまで時間を置いているだけだ、と説明したにも関わらず。
王子はアザレアにまだやり直せるなんてのたまった。
ただ言うだけではない。
彼女に詰め寄るように距離を近づけ、そうしてアザレアの細い肩に手を置いて、彼女が身を引いて距離を取れないようにしたのである。
アザレアは勿論断った。
ついでに、手を離して下さいと言いもした。
夫の前で、他の男性とこうまで距離を詰めるつもりはありませんと言葉でも態度でも示した。いくら王子といえども、戯れが過ぎますとも。
だが王子も引けない状況で、なんとしてでもここでアザレアには戻ってきてもらわねばならなかった。
今までの態度に謝罪をして、本当は愛していたなんて。
アザレアからすれば絶対思っていないでしょうそんな事、というようなセリフも口から飛び出たのだ。
大体婚約が決まった時から異母妹に奪われるところまで、最初から最後まで王子がアザレアに好意を向けた事など一度もなかった。
そんなアザレアを今更必要としているのは、相応の理由があるからだ、とは幼い子どもでも理解できる事。今更愛しているだなんて言葉でアザレアが浮かれる事などあるはずもない。
わたくしには夫がおります。どうかその手を離して下さい。
アザレアの言葉はどこまでも淡々としていた。
アザレアが精霊国へ行き二年。
その二年、未だ夫とはそういった行為もしていないとなれば白い結婚とすることもできるはずだ、と王子は引き下がらなかった。
いいえ、手遅れです。
アザレアの言葉はどこまでも温度がなかった。
実際手遅れなのは事実だ。
既にアザレアは人の身を捨て精霊となった。
それを説明するよりも先に、王子はよりにもよってアザレアを強くかき抱いた。
途端――
「な、なんだ……!? う、うわぁああああああああああ!?」
王子の身体が燃えた。
ボッ、という音とともに王子の全身を包むように炎が上がる。
それは、真っ青な炎であった。
火の気のない場所で突如燃えた王子に周囲は騒然となった。
ただし、騒然となったのは王子の国の人間だけだ。精霊国からやって来た者たちは誰一人として驚かなかった。
「わたくしは既に精霊国へ嫁ぎ、その身を捧げるべく変わったのです。
わたくしの夫となった方は、炎の精霊でありました。
こういう言い方はなんですが……人と炎がまぐわって子をなせるはずもありません。そんな事をしても人が燃えるだけです。
だからこそ、わたくしがそうならないために、精霊国でわたくしは夫に相応しい身体となるべく精霊になるための儀式を行いました。
故に、今のわたくしは人の身ではなく炎の化身となったのです。
普通の人が少し触れる程度であれば問題はありませんが、今のように強く密着されると無事ではすみません。
ですから、離して下さいと言いましたのに……」
「まったくだ。夫が目の前にいるのに妻に堂々と触れるどころか抱きしめるなど、この国では一体どういう教育をしている? 貞操観念が破綻しているのか? それとも、目の前で奪う事は当然だとでも?」
王子の悲鳴は長くはもたなかった。あっという間に燃えてひゅーひゅーと呼吸にもならない音がして、そうしてぴくりとも動かなくなる。
目の前で燃え上がり、倒れ、藻掻いていた王子が動かなくなってようやくそこで王妃が悲鳴を上げた。
可愛い我が子が目の前で焼死したのだ。叫ぶのも無理はない。
王子を殺したとして、目の前の連中を捕えろと王妃が叫ぶが、しかし兵士たちは誰も動けなかった。
ちり、と空気が乾燥する。
公爵が炎の精霊であるとアザレアから言われて、アザレアに抱き着いた王子もまた燃えたとなれば。
下手に近づけば次に焼死するのは自分かもしれない、と兵士たちが考えたかまでは定かではない。
「殺した、とは人聞きの悪い。自分から勝手に抱き着いて死んだのだろう。妻はきちんと諫めたぞ。だというのに危険を危険とも理解できず勝手に死んだのはそちらだろう。むしろ夫の目の前で妻を奪い取ろうとした、そんな相手が将来この国の王になるなど、そうはならなくて良かったのではないか?」
なぁ、そう思うだろう? と公爵が王へ視線を向ければ、その視線に気圧されて王は視線をわずかに逸らした。
乾燥していた空気が徐々に熱を持ち始める。
下手な返答をすれば、一瞬にしてこの場は炎で満たされると言わんばかりにじわじわと温度が上がっていった。
納得など勿論していない王妃ではあったが、それ以上何も言えなかった。乾燥した空気に、喉が皮膚に張り付いたような感覚がして声が出せなかったというのもある。
けれども同時に理解したのだ。
いくら目の前にいる連中が人の姿かたちをしているといっても、実際は違うのだという事を。
精霊、と言っているが何の力も持たない者からすればそれは化け物に等しい。
そして、アザレアもその仲間入りを果たしたのだと。
ずっと自分の中で文句も言えずただ一方的に好き勝手扱える相手であったはずのアザレアが、とうの昔にそうではなくなってしまったという事に、ようやく王妃も気付いたのだ。
話し合いのうちに諦めていれば、こうはならなかった。
公爵からも淡々と言われた。事実その通りであった。
その気になれば。
もっと本格的に破滅させるつもりであれば。
アザレアが精霊となった事など知らせないまま王子と結婚させ、初夜に焼死させる事も可能ではあったのだ。
けれどもアザレアはそれを望まず、そもそも王子との結婚も望んでいなかったが――ともあれ、この場での話し合いで終わらせるつもりでいたのだ。
無理難題を吹っ掛けて諦めさせるでもなく、莫大な利権をこちらに寄越せと精霊国との交渉にするでもなく。
ただ、もう零れた水は戻らないのだとばかりに話し合って終わらせるつもりであった。
そうしなかったのは、結局のところ王子や王妃だ。
最終的には自分の思い通りになると信じて疑わず、その結果もたらされたのが今というだけの話だ。
ここで更に王妃がアザレアとその夫、そして同行していた使節団を罪人として厳罰に処そうとしたところで、返り討ちにあうのが目に見えている。
彼らの王妃たちを見る目は、どこまでも冷たい。室内の気温は上昇する一方なのに、その視線はまるで氷のような冷ややかさであった。
結局のところ。
これが同じ人間同士でのやりとりであったなら、また話は別だったかもしれない。
けれども人の姿をしていても異種族。
更には、そんな異種族の妻を夫の目の前で奪い取ろうとしたのも事実で。
謝罪や慰謝料だとかそういったものは不要とされたが、同時にこの国は精霊国との関係を最小限まで減らされる事となった。
自分勝手な事を言い出したのも、やらかして死んだのも、人間側であり精霊たちから仕掛けたわけではない。
戦争を吹っ掛けるつもりなら容赦はしない、とも伝えた上で使節団は国を早々に後にした。
結婚相手がロクに見つからない王子の結婚相手を考える必要はなくなったけれど、跡取りに関しての問題は残ったままである。
だがそんなものは、精霊国の者が考える事ではない。
どこまでも都合のよい妄想を実現させようとした人間たちが自分たちでどうにかするしかないのだ。
精霊国は一応この国と多少の友好関係にあったし、その恩恵はというといくつかあったけれど。
今後はそれらも最小限に、となった事でこの国は苦労をする事もわかってはいるのだが。
精霊国からすればこの国と関わり続ける方が面倒だと思ったのだ。
人間の国は他にもたくさんある。わざわざこの国との関係にこだわる必要などどこにもなかった。
そうして風の精霊たちに連れられて、アザレアは精霊国へ戻り――出迎えてくれた王の言葉に困惑していたのだ。
現実を見せてやれ、とは言われていた。
アザレアとしては最早人としての身を捨てたことを告げるだけで済むと思っていた。
けれども実際は――
王はこうなるとわかっていたとも言っていた。
果たして、どこまで理解していたのだろうか。
王子が燃え死ぬところまで、と言われればアザレアは慄くしかない。
自滅みたいな形で死んだ王子だけれど、死ぬ原因はアザレアだとも思っていた。だからこそ、この一件が原因でもし精霊国とあの国が戦争なんて事になってしまったらどうしようとも思っていたのだ。
だが王の態度からすると、そんな事はまるで些細な事のようで。
「どのみちあの国は近いうちに荒れる。我々が関わりを最小限にした事で、他の人間たちの国が今が好機とばかりに侵略するだろうし、既にそうなった事を各国に知らせているからね。
きみにこだわって関わる余裕なんてこの先持てるはずもない。きみの生家については……どうしようもないのだけれど」
気にするところはそこだけなのか、と思ったが、アザレアにしても生家である伯爵家をどうにかしようにもどうしようもない。
既に人の身ですらなくなってしまったし、あの国での伯爵家についてはどうにかできるならできる人に任せた、という心境である。
もし仮に王子と何事もなく結婚していたとしても、自分にはどうにもできなかっただろうから。
どうにかするためには、あまりにも色々なものが足りなさ過ぎた。
能力も才能も人望も権力も、何もかもが。
今のアザレアにできる事は、既に捨ててしまった国の生家に関して何かをすることではない。
種族転換し、その身が馴染むまでは、とロクな触れ合いもしなかったけれど。
今回の一件で、なんとなくこの身が炎の化身であるという自覚が芽生えた。
力の使い方も、なんとなく把握できつつある。
これならば、夫となった者と触れ合ったとしても。
何も問題はないだろう。
彼の国より戻ってきたばかりの二人に、国王はそれじゃしばらくの間はゆっくりするといい、なんて言って。
公爵は勿論そうさせてもらいますよ、なんて軽く返して。
何があるでもなく普通に自宅へと戻ってきて。
それで、ようやくアザレアを取り巻く面倒ごとは終わったのだ。
終わった、と理解してそこでようやく。
アザレアは自ら夫となった相手に抱き着いた。
今までは念のためと触れ合う事も最低限に控えていたが、今はもう大丈夫だという確信がある。
故に、屋敷に入るなり周囲の使用人の目も気にせず夫に抱き着いたのだ。
淑女としてははしたないと言われるかもしれないが、それでも二年。
二年、マトモに触れ合う事すらなかった相手だ。
白い結婚を前提としたものではない。本来の結婚相手がいなくなった事で選ばれた公爵ではあったけれど、それでもアザレアに対して実の家族以上に優しくしてくれたし、アザレアもまたそんな公爵に報いようとしていた。
「わたくしにできる事は微々たるものですけれど、それでも妻として精一杯励む所存です……」
なんて。
愛の告白とみるにはとても微妙な言葉だったけれど。
今までロクに恋愛などしてこなかったアザレアの精一杯だ。
公爵はそれをよく理解していた。
「そう気負わなくてもいい。きみは常に努力ができる素敵な女性だ」
だからこそ、公爵もまたアザレアに露骨な愛の言葉は囁かなかった。
今、彼女に自らの胸の内をさらけ出すような情熱的な言葉をかければ、アザレアが一瞬で燃え上がるのが目に見えていたからだ。
現にその程度の言葉であってもアザレアは困ったように視線をうろつかせ、抱き着いていた腕も所在無さげに動いている。
離れよう、という気がないだけでも公爵からすれば充分だった。
ほんの一瞬だけ、二人を囲むように周囲の空気がぼわっと燃えるが、あくまでも一瞬だった。
お互いの熱が燃えたところで、どちらかを焦がす事もない。
そう遠くないうちに、この家に新たな家族が増えるのだろうな――と周囲で見守っていた使用人たちは確信した。
実際数年後にはこの屋敷はこどもたちの楽し気な声で満ちる事となるのだが――それはまた別の話。
このお話のタイトルは、某ゲームの呪文詠唱の一部から。
ってのを前書きに書いたら知ってる人は即座にネタバレ食らうなと思ったので自重して後書きにのっけときます。
というか実際はその身じゃなくて汝にだったと思われる。
次回短編予告
風と火属性出したから水と土属性の令嬢がしでかす話。