s好きな人と一緒に食べるから、好・き・焼・き(はあと)
昔の人が鋤という農具の上で焼いあて食べたから鋤焼きという説もある。あと一部地方では当て字として「寿き焼き」と表記する事も。そして私(作者)は湯豆腐の方が好き。
「鉄男、援軍に来たぞ」
こっそりと修羅場と化した居間を抜け出してきた鹿賀鉄人は台所で黙々とすき焼きの準備をする鉄男に声をかける。
「祖父ちゃんか」
鉄男の目は、――死んでいた。
祖母とリョウの失態によって失われた「琉神マブヤー」の湯飲みは公式グッズではない。
マブヤーのファンの一人が作った手作りの湯飲みである。当然のように代用品は存在しない。この世にたった一つの逸品だった。
「形ある物は必ず滅する定めにあるのだ。マブヤーの湯飲みもまた然り、わかるな?」
鉄人は悟りきったような、――いや諦めきったような口調で語る。彼もまた妻によって数多くの食器を駄目にされていたのだ。
「その話はもういいよ。それより世良さんと寒川さん、どうだった?」
鉄男は何と無しに尋ねる。実は世良小町が現れた事により寒川のリョウの心情が良い方向に変わる事を期待していたのだ。
同世代の姫子やシュザンヌと打ち解けて幾分かはは落ち着いてきたが、リョウが時折見せる暗鬱な表情を見る限りそれだけでは心許ない。
(田丸さんの形態に映っていたあの明るい表情の寒川さんに戻る事は出来ないだろうが、今のままでは危険すぎる。せめて心の拠り所になるものがなければ俺が鑑与四郎を倒したとしても彼女は納得してくれないだろう…)
「ふう…」
鉄男は沈痛の面持ちでため息を漏らす。
やはり自分の『痛みならばいくらでも耐えられるが他人の痛みや苦しみはそういうわけにはいかない。
例え正義を為したとしても、その陰で誰かが悲しんでいては意味がない。
鹿賀鉄男は己の掲げた絵空事の重さに心苦しさを感じていた。
「現実の話ってのはニチアサみたいにうまくいかないな…」
鉄男は白菜をざく切りにしながら皿に並べる。そしてボウルの中に入れておいた白滝を水切りした。
「鉄男、人生の先達としてお前の空手の師匠として良い言葉を授けよう」
鹿賀鉄人は鶏肉の肉団子を作りながら鉄男に語りかける。
肉団子は、肉の量のjかさ増しと美味い出汁が出る役割を果たす為に鹿賀家のすき焼きでは必須の材料だった。
(どうせロクでもない話だろうが一応はきいてやるか…)
鉄男は春菊を切りながら祖父の言葉を待った。鉄人はすう、と一息吸ってから言い放った。
「馬鹿の考え、休むに似たり。つまりだな、俺やお前のような脳筋馬鹿が賢しげに立ち回ったところで大した良い結果にはならん。ゆえにお前がする事は美味いすき焼きを振る舞ってやる事、もしくは寒川さんの親の仇を倒してやる事くらいではないか?」
鉄人はキリリと表情で言葉を締めくくった。
「ぐう…ッ‼」
そして見事なまでに図星を刺された鉄男は立ち尽くすしかない。
「…もう少し孫を慮れよ、クソ「ジジイ」
「少し偉そうなことを言うが、人間は他人の心を救う事など出来ない。寄り添って支えてやるのがせいぜいだ。これからどうするかは寒川さんにしかきめられないだろう」
鉄人自身に仇討ちという感傷はないが、今の鉄男やリョウの心境を推し量る事ぐらいは出来る。武道一片と思われがちだが、その程度の人生経験を積んでいるのだ。
(ウチのジジイがまともな事を言っている…)
鉄男は別の意味で驚いていた。鉄男は春菊を洗いながらふと祖父の話について考える。
おそらくは鉄男がどれほど頭をひねっても良い解決方法など思いつく事は無いだろう。鉄男は頭の回転が鈍いという自覚もある。ならば今は自分に出来る事に専心することが重要であるはずだ。
「とりわけ野菜が多いすき焼きの方がいいな。何と言っても女性が食べるんだから」
鉄男は白菜、タマネギ、もやしなどを普段の倍以上に用意する。牛肉と肉団子と比べて倍以上の量があった。
「鉄男、女性は肉よりも野菜を好むというのは全耳朶的というか些か安直ではないか?」
鉄人は野菜を大きな平皿に並べながら鉄男に尋ねる。
「何言ってんだよ、祖父ちゃん。野菜は身体に良いんだからきっとみんな大歓迎さ」
「まあお前の作る割下は美味いから野菜だけでもいけるがな。…あの肉食獣みたいな婆さんが果たして喜ぶかどうか…」
鉄人は豪快に笑う世良小町の姿を思い浮かべて、げんなりとする。
どう考えても非難の嵐しか待っていないような気がする。否、実際にどうなってしまうのだろう。
鉄男も口外してはいないが小町に関しては鉄人と同じ考えだった。
「あくまで小町さんは女性陣の中では少数派さ。それより先に鍋とコンロを用意しようぜ。先に材料を持って行ったら食べられちまうかもしれないからな」「あ、ああ…」
二人H渇いた笑いをもらす。
小町ならば「面倒だ」と言って肉や野菜を生のまま食べてしまうだろう。
こうして鉄男と鉄人は数回に分けてキッチンと居間を出入りすることになった。作業の途中、姫子とシュザンヌが手伝いを申し出てきたがマブヤーの悲劇を繰り返さない為にも鉄男は丁重に断った。
「遅いぞ、鉄男君。ここが戦場ならば我々は兵糧が切れてとっくに全滅していたところだ」
世良小町は火のついていないタバコを咥えながら鉄男に言った。
彼女は話している最中に何度かチラチラと久子を見ていたが、久子はうんともすんとも言わない。
おそらくは喫煙を真っ向から禁止されたのだろう。
「なあ?鹿賀さん、鉄男君。久子さんにタバコを解禁するよう言ってくれないか?」
今度は鉄男たちに懇願する。それを見て我慢できなくなった久子が小町に説教を始める。
「小町さん。リョウちゃんたちがいるんですからおタバコは控えてくださいな」
「ふう。とんでもない頑固ババアだな」
小町はポケットの中にある箱の中にタバコを戻した。
「すいません、久子お婆ちゃん。先生がご迷惑をおかけして…」
「いいのよ、リョウちゃん。でも小町さん、若い娘の前でタバコを吸うのはよくないわね。健康に害があるといけないから気をつけてくださいね」
久子に家人である久子にそう言われては小町としては言い返すことは出来ない。
小町は舌打ちをした後、炬燵の中に引っ込んでしまった。
「目上の者を大切にしないとは…この国の未来も先が知れている。なあ、そうは思わないか?香津美君」
”じゃあ未来の担い手たる若者の健康はどうなってもいいのか?”という疑問を抱きながらも田丸香津美は曖昧な返事をする。
田丸は直属の上司m即ち親族から”くれぐれも小町の機嫌を損ねるな”と念を押されている為に逆らうことは出来ない。悲しき運命を背負わされた社畜でもあった。
「はあ…」
神経の図太い世良小町は目が死んだままになっている田丸香津美の姿を見ても、我が意を得たりとばかりに頷いている。
「ううう…」
「これが我々の未来の職場なのか…」
シュザンヌと姫子はこの先待ち受ける未来を想像して顔面蒼白となっていた。鉄男と鉄人にとっても既に想像を超える地獄絵図と化していた。
「鉄男。俺たちは俺たちにしか出来ない事を、な?」
鉄人は炬燵の上にガスコンロとすき焼き鍋を置く。
そして鉄男が鍋底に牛脂を滑らせて油膜で張る。その間に鉄人は粛々と取り皿と生卵の準備を続けた。
二人の流れるような一連の動作は正しく阿吽の呼吸だった。じゅうううう…。鉄男は比較的見栄えの良い牛肉を焼き始めた。
部屋の中に食欲を刺激する牛肉の匂いが漂い始める。
「ふむ、もう食べても良いのではないか?」
小町が鍋に箸を入れようとしたその時、リョウが無言で掴んで止めた。
「先生、ここは鹿賀さんのお宅です。家人が勧めるまでおとなしくしていましょう。ホラ、郷に入りては郷に従えと”昔の人が”言っていたではありませんか?」
リョウの口調は冷めたもので温情の欠片もない。殊更に”昔の人”という部分を強調し、小町を挑発する。見た目こそおとなしい少女だが気丈な部分もあるのかもしれない。
(要するに怒らせてはいけない人種だ)
鉄男は二人を刺激しないように焼いた肉の上に割下を注ぐ。特にこだわりがあるわけではないが鹿賀家のすき焼きは関西風と関東風が混ざった作り方だった。
じゅううう…。
今度は出汁と酒とみりんを合わせた醤油が焦げる何とも言えない香りが立つ。
それまで沈黙を守ってきたシュザンヌが声をかけてきた。
「なあ、鉄男。そろそろいいんじゃないか?」
「うんうん。せっかくのお肉が焦げちゃうよ」
姫子が血走った目でで出汁醬油の底に沈んでいる牛肉をこれでもかというくらい見つめている。手元にある小皿にはいつの間にか溶き卵が入っていた。
鹿賀鉄男でさえ気がつかなかった凄まじいまでの早業だった。
(その機敏さを戦闘時に活かしてくれよ…)と内心で突っ込みながら鉄男は肉を鍋の端っこに寄せて野菜を並べていった。
「鹿賀君、お野菜は後回しでいいから…。私もう胴回りとか気にしていないし」
田丸香津美は鉄男の腕を掴む。
彼女は朝、小町に呼び出されてからロクに食事をしないまま飛び回っていたのである。
尚小町に関してはドライブインやイートインを利用してしっかりと食事を摂っていた。
「ど、どうぞ…」
三人の女性に気圧されっる形で鉄男は鍋から離れた。そしてこっそりと御櫃からご飯をよそおう。
「君も気が利かないな。さっさと寄越せ」
小町は鉄男からご飯を盛りつけられた茶碗を奪い取る。
「止めてください、先生。渡曽、まで食い意地の張った女だと思われるじゃないですか‼鉄男さん、ごめんなさい」
小町の身勝手な振る舞いを見かねたリョウとの喧嘩が始まる。
最終的に久子が出て来て何とか和解したが、これでは鑑の話以前に小町とリョウの奸計が破綻してしまうのではという懸念が持ち上がってきた。
はふはふっ。はふはふっ。
だし醤油で味付けした牛肉を溶き卵にくぐらせて姫子は一心不乱に食べている。これまでの食生活が酷かったせいか目には涙が浮かんでいた。
「おいひいよ…。牛肉が美味しいよ、スーちゃん…」
「そうだな、実に美味しい牛肉だ。よく味わっておけよ?島に戻ればまずこんなご馳走にはありつけないからな」
シュザンヌは己の魂に刻みつけるように牛肉を咀嚼する。
実際に音乃島の精肉店で出回っているのは豚か鶏肉だった。たまに鹿肉や猪肉が並ぶことがあるが街の住人は誰も買わない。
「世のジビエ好きと称する不届き者どもには説教をしてやりたいな。貴様ら野生の獣の肉が本当に美味いと思っているのか?畜産農家の人に謝罪しろ、と」
さささっ。
そう言いながらシュザンヌは牛肉を姫子と香津美から遠ざけた。
二人とは十年来の付き合いになるが食事と金銭に関しては信用していない。
「スーちゃん、警戒しすぎじゃないの?誰も取ったりりしないよ?」
香津美は自分の分の牛肉をあくまでキープするシュザンヌの緊張をほぐしてやろうと笑いかける。だがシュザンヌの反応は冷淡なものだった。
「おや田丸さん、ご飯の下にお肉を隠していますね?私も子供ではない。汚い大人のやり方くらい心得ていますよ」
シュザンヌは皮肉っぽく笑うと牛肉を何枚か重ねてい一気食いした。その足でご飯をかきこむ。
(姫ちゃんも、スーちゃんもちょっと前なら騙されてくれたのに…)
香津美は内心で舌打ちしながらご飯を食べた。隠しておいた牛肉にはまだ口をつけていない。
「鉄男君、お代わりお願いね」
そしてご飯を盛ってもらう。すき焼きの野菜とタレでご飯三杯は食べるつもりだった。
「はい、どうぞ」
鉄男は言われた通りすぐにご飯をよそおった。
香津美は無言で茶碗を受け取るとそのままガツガツとかきこんだ。そして獲物をつけ狙う肉食獣のような視線で互いのテリトリー外の肉(鉄男と鉄人と久子の分)を見つめていた。
「鉄男や…。すまん、俺の見当違いだった。鍋を囲んで仲よくしようなどと、余計ななアドバイスをしてしまった事をどうか許してくれ」
鉄人は戦々恐々とした現状を眺めながら罪悪感に打ちのめされていた。
「カツお姉ちゃん、それ私のお肉」
「太るわよ?」
「…間を取って私が「食べてやろう」と三者は執拗に互いの意見だけを主張し続けた。
もはや繋がりもチームワークも糞もないような状態だった。仮にこのまま何事もなく食事が終わったとしても何らかの遺恨となるだろう。
「祖父ちゃん、今回は俺も想定外だった。とりあえずみんなの仲が悪くならないように、気をつけよう」
鉄男と鉄人は終始、針の筵に居るような心境で鍋の具材を絶やさぬように従事した。
結果として、白菜と白滝しか食べていない。




