海を愛する令嬢は婚約破棄をされ、しかも「カルネアデスの板」状態から海に沈められるも、海神王の子息に救われる
「モアナ・レランド、お前との婚約を破棄する!」
夜会にて、伯爵家の令息であられるボリック・ディキュール様にこう告げられた時、私の心には驚きこそあれどさほどショックはなかった。
ボリック様は続ける。
「レランド家は代々海の近くに領地を持つ家ゆえ、お前も船で海に出ることを趣味にしていると聞いている。つまり、いつ海で死んでもおかしくないということだ。貴族として、そのような女と結婚するわけにはいかない!」
かなり無茶な言い分だと思う。
ボリック様の横には私と同じ子爵家の令嬢であるネファリア様がワインボトルを持ってにこやかに微笑んでいる。
彼女と付き合いたいからというのが本音だろう。
しかし、不服はなかった。
ボリック様の主張にも一理はあったし、私としてもボリック様との婚約は、さほど望んでいたものではなかったからだ。
なので――
「承知しました」
と返す。
金髪碧眼のボリック様は安堵したような表情を浮かべ、その横にいた黒髪のネファリア様は私に対して勝ち誇ったような顔をしていた。
この婚約破棄にお父様は当然激怒した。
娘を社交の場で辱められたのだから、徹底的に追及するとまで言い放った。だけど私はそんなお父様を必死でなだめた。「これ以上私の傷口を広げないで」と嘘までついて。
お父様も私の意を汲んでくれる形で、この件は収めてくれた。
なぜ私がここまでしたのか?
それはもちろん、ボリック様を庇うためではない。
なぜなら、私は恋をしているから――
***
ボリック様の言っていた「お前は船で海に出ることを趣味にしている」というのは本当である。
レランド家は王国の海側に広く領地を持つ家系であり、ルーツは漁師だったというのが濃厚である。海賊だったなんて一説もある。私としてはそっちの方が面白いかもとさえ思う。
そのため一族には泳ぎが達者であったり、自分の船を持つなんて者も多い。私も例外ではなかった。
まとまった時間がある時には、自分の小型帆船を出して、領地周辺を航海する。
帆を張り、ハンドルを握って風と波を読んで海を進むのは本当に楽しいし、潮風が気持ちいい。海は私の生きがいだった。
そして、レランド家では代々海神王様を祀っている。
海底に暮らし、海を見守り、海を支配しているとされるお方。
「お父様、海神王様って神様なの? 王様なの? どっちなの? 欲張りじゃない?」
幼い頃、お父様にこんな質問をして困らせたこともあった。
邸宅から少し離れたところにある祠へのお祈りは私の日課だった。当主であるお父様ですらお祈りはせいぜい週一回程度なのに、私は毎日欠かしていない。
そのおかげなのか、私にはいつしか不思議な力が備わっていた。
今日は海が荒れるのか、穏やかなのか、何となく分かってしまうのだ。
的中率は今のところ100パーセント。なので領内の漁師たちは朝になると必ず私の予報を聞きに来る。
海の気候は変わりやすい。以前は海難事故も珍しくなかったが、私が予報をするようになってからは、事故は一件も起こっていない。
私はきっとこれは海神王様のご加護なのだろうと感謝した。
あれは三年前、私が14歳の頃。
お父様にも「お前は海に愛されている」と称されていた私は、すでに単独での船出を許されていた。
荒れる気配のない海、空には暖かな太陽、ここで私はとんでもないポカをやらかしてしまう。
船の上で寝てしまったのだ。
いくら海が穏やかといっても、全く波がないことなどあり得ない。大型の魚に襲われることだってある。太陽の動きから、おそらく私は三時間ほど眠ってしまっていた。
目を覚まし、自分が眠っていたことを悟った時、私はホッとしたと同時に後悔したものだ。海に愛されているなどと言われて慢心していた。
その時だった。
「やれやれ、船の上で眠ってしまうとは、世話のかかるお嬢さんだ」
若い男の声がした。穏やかな波のような素敵な声だった。
「だ、誰!?」
「私はカイル……海神王の息子だ」
心臓が飛び跳ねたかと思うほど驚いた。
「カイル様……」
カイル様は声だけを私に届けているようだ。
「いつも父のために祈ってくれてありがとう。我々のような存在はやはり信仰されることで力を得ることができるからね」
褒めてもらえた。本当に嬉しかった。
「ただし体調が悪い時にまでお祈りをするのはやめた方がいい。これは父からの伝言であり、私の願いでもある」
私は風邪をこじらせた時も、無理にお祈りをしたことがあった。そのことも当然知られていた。
「あの、もしかして私が目を覚ますまで、カイル様が守って下さったのですか?」
「ああ、その通りだ。二回ほど転覆の危険がある波があったからね。鎮めておいた」
私がすやすや無防備に眠っている時、ずっとカイル様が守ってくれていたのだ。
「す、すみませんっ!」
「これから気をつけてくれればそれでいいさ。後はしっかり帰らなければね。今いる場所は分かる?」
私は風を感じる。
陸地は見えなかったが、自分が海のどのあたりにいるかは分かった。
「分かります。ここから東南に向かえばいつも船出する場所に帰れるはずです」
「さすがだね。では私もサポートするから、ゆっくり帰ろう。安心して。絶対に転覆することはないから」
「はいっ!」
私は陸を目指して、船の操舵を始めた。
船には私一人なのだが、私のすぐ後ろにカイル様という逞しい男性がいるようで、とても心強かった。そして楽しかった。
まるで二人でデートしているような、そんな気分にさえなってしまった。
やがて私は一切危ない目にあうことなく、出航地点にたどり着く。
お父様とお母様にはもちろん叱られ、しばらく船出は自粛するように言い渡された。私としても当然の措置だと思った。
カイル様が私を守ってくれなければ、私は死んでいたに違いない。
もうお分かりだろう。私が恋をしているというのは海神王様のご子息カイル様だ。
あの事件があって以来、私はずっとカイル様のことを夢想している。どんな姿なのだろう。どんな服を着ているのだろう。笑ったらどんな顔をするのだろう。
祠に「一度お会いしたいです」とお祈りするとか、もう一度航海で危ない目にあってみるとか、そういう手が頭をよぎったこともある。
しかし、実行はしなかった。そういうことはやっちゃいけないことかなと思ったし、カイル様を困らせるだけだと思った。なにより相手は海神王様のご子息。一度声を聞けただけで十分だと思わなければならないと思っていた。
とはいえやっぱり恋心は募っていったし、そんな最中、ボリック様からの縁談が舞い込んだ。
乗り気じゃなかったので、婚約破棄になって正直ホッとしている。
ボリック様はネファリア様と幸せになって欲しいものだ。
私はというと、今日も海に船を出す。
今日は一日中海が穏やかだという確信があるから。
「さ、沖まで行って、一周したら帰ってこようっと!」
***
婚約破棄の一件から一ヶ月ほど経った日のことだった。
やや曇り空だが、天候は晴れ。ただし私の中の感覚はこう言っていた。
今日の海はものすごく荒れる、と。おそらく天候も崩れるだろう。
私は祠を保護した方がいいと、午前中の早い時間に祠に向かっていた。
すると、思わぬ再会をすることになった。
「よぉ、モアナ」
「お久しぶりね、モアナさん」
「ボリック様……それとネファリア様」
元婚約者とその恋人が現れた。なんの用だろう。
「実は俺たち、結婚したんだ」
私との婚約を破棄してすぐに新しい相手と結婚とは。私の心はボリック様になかったとはいえ呆れてしまう。わざわざそれを見せつけに来たのだろうか。
「結婚したらやることといえば分かるよな?」
分からない。私はきょとんとしてしまう。
「鈍いな。新婚旅行だよ。俺たちは今まさに新婚旅行中なんだ」
ああ、そういうことか。それで私の家の領地にやってきて、ついでに幸せな姿を見せようということか。
そう、これだけなら別によかった。しかし、ボリック様はとんでもないことを言い出す。
「お前、自分の船を持ってるんだよな。今から船を出してくれよ。せっかくの新婚旅行、クルージングと洒落込みたいんだ」
「ええっ!?」
婚約破棄した相手に新婚旅行を付き合わせるなんて、正気なのだろうかこの人は。どうやら私が思っていた以上に軽薄な男だったらしい。
「な、いいだろ。婚約してた仲なんだしさ。俺らも他の客がいるデカイ船より小さい船の方が楽しめるしさ」
だからって私に頼むだろうか、普通。
だが、この頼みは断らなければならない。私の心情的な理由ではなく、天候的な理由でだ。今日の海は間違いなく荒れる。船など絶対出してはならない。
「ボリック様、船は出せません。申し訳ありませんが……」
「なんでだよ!? 婚約を破棄されたから船は出せないってのか!?」
「そうではなく……今日の海は荒れるんです。ですから船を出すなど自殺行為です」
「荒れるって……天気はいいじゃないか。荒れる要素ないだろ」
「いえ、もうまもなく荒れるんです」
「なんでそんなことが分かるんだよ!」
「そうよ! 船を出したくないからってデタラメばかり!」
ついにネファリア様まで私を責め出した。
しかし、私としても危険と分かっていて船など出せない。絶対に説得しなきゃならない。仕方ないので、私は二人を祠まで案内する。
「ここには海を見守って下さる海神王様が祀られています。私は毎日のようにここで祈ることで、海が荒れるか荒れないかが分かるようになりました。今のところ的中率は100パーセント。私の予感では、今日は間違いなく海は荒れるんです。ですから――」
「知るか!!!」
ボリック様はさらに怒り出した。
「俺は海神王なんて知らないし、お前の都合はもっと知らないんだよ! いいから船を出せばいいんだよ!」
「ですから……!」
「出さないと、この祠ブッ壊すぞ!」
ボリック様はいきなり祠を蹴り始めた。ミシリと嫌な音がした。
「ちょっと、何をするんです!?」
「この海神王のせいでお前が船出さないんなら、祠を壊すってことだよ!」
「やめて下さい!」
「やめて欲しけりゃ船を出せ!」
「……!」
ボリック様ももはや意地になってるらしい。ネファリア様も「壊しちゃえ壊しちゃえ」なんて煽っている。もちろん私としては壊されるわけにはいかない。祠が壊れたら、海神王様も、そしてカイル様もどれだけ悲しむか。
「分かりました、船を出しますから! やめて下さい!」
ボリック様はニヤリと笑った。
「最初からそう言えばいいんだよ」
海はまだ穏やかだった。少し船を出して、この二人に航海気分を味わわせて、すぐ戻ればいい。そうすれば、きっと大丈夫。
「少し沖に出て、すぐ帰るということでいいですよね?」
念押しすると、
「ああ、それでいい。俺たちだって危険なのはごめんだからな」
「本当ですね?」
「しつこいぞ!」
「早く出してよー!」
帆を張り、二人を乗せて船の操舵を開始する。
二人は船の上でのんきにイチャイチャしている。しかし、私は気が気じゃなかった。まもなく海が荒れるのは分かり切ってるのだから。
しかし、どうにか海が荒れる前に周辺の海をぐるりと回ることができた。これで満足してくれるだろう。
「じゃあ、戻りましょうか」
ところが――
「これで終わりかよ! もっと陸から離れたところまで行けよ!」
「そうよ! 全然気分が出ないわ!」
正直こうなることも危惧していた。
しかし、こればかりは断らなければならない。
「ダメです! もうまもなく海は荒れるんです! 信じて下さい!」
「荒れる荒れる言って、全然荒れないじゃないか! お前の予感が間違ってるんだよ!」
「そうよ! 船の操縦が面倒だからって嘘を言って!」
「いえ、そんなことは……」
ボリック様はとうとう腰の剣を抜いた。
「いいからやれ! せっかくこんな僻地まで来たんだ。海をちょっと一周するようなしょぼくれたクルーズで終わらすつもりはないんだよ!」
ここは船の上。誰の助けも期待できない。
「分かり……ました」
どうにでもなれという気持ちで、私は船を動かした。
そして来るべき時は来てしまった。
急激に海が荒れ始める。暗雲が立ち込め、大きな波が押し寄せ、私の船を容赦なく打ち付ける。
「おい、これはどういうことだ!?」
ボリック様が血相を変え、私に怒鳴る。
「だから言ったでしょう。海は荒れるって……」
「こんなに荒れるなんて聞いてない!」
「いやぁぁぁぁぁ! 早く陸に戻ってぇぇぇぇぇ!」
もう二人にかまっている時ではない。私は必死に船を操作する。どうにか風と波を読み取ることができた。このままいけば、無事陸地にたどり着ける。
――はずだった。
「どけ! 俺が操縦する!」
何を思ったか、ボリック様は私を押しのけハンドルを握り、船の操舵を始めてしまった。
いくらパニックになってるとはいえ、メチャクチャすぎる。
「待って! 私がやらないと!」
「うるせえ! お前に任せてられるか!」
せっかく安定していたのに、船は瞬く間に不安定になり、ついに恐れていたことが起きた。
私の船ぐらい簡単に飲み込んでしまう波がやってきた。
「みんな、伏せて!」
まもなく高波が私の船を襲った。私たちは海に投げ出された。
三人ともどうにか生きてはいた。
しかし、船は木っ端みじんになってしまった。
私たち三人は船の残骸である一枚の板にしがみついていた。
かなりの浮力があり、私たちの体勢は安定していた。まさに不幸中の幸いだった。
さらに、海の荒れも収まってきた。やがて事態を察してお父様たちも船を出してくれるはず。助かる見込みは十分ある。
小さな船とはいえ船の主として、私にはボリック様とネファリア様を生還させる義務がある。
「このままここで浮いていれば、必ず助けが来ます。ですから、体力を温存するためにじっとしていましょう」
しかし、二人は――
「何がじっとしてろだ! お前のせいでこうなったんだぞ!」
「えっ……」
「そうよ! 全部あんたが悪いのよ! こんな嵐が来るのに船なんか出して!」
この二人はいったい何を言ってるのだろう。船を出せとごねたのはあなたたちじゃないの。祠を壊すとまで脅迫して。
だが、言い争っても仕方ない。私は二人を落ち着けようと努める。
「落ち着きましょう。このまま浮かんでいれば必ず助かりますから!」
「いや……こんな小さな板に三人は多すぎる」
ボリック様が不吉なことを言い出した。
「せめて二人じゃないと沈む可能性がある」
今のところ板は安定してるのに、何を言ってるのだろう。
「こんな話があった。昔、難破した船に乗ってた客二人が、今みたいに海面で一枚の板にしがみついてたんだけど、一方の客がもう一人を板から追い払ったんだ。結果、そいつだけが助かった。その後そいつは罪に問われなかった。“緊急避難”ってことでな」
私の鼓動が速くなるのが分かる。
「俺が何を言いたいか、分かるか?」
ボリック様とネファリア様の視線が同時にこちらを向いた。
「こういうことだよ!」
ボリック様は私に蹴りを入れ、ネファリア様は近くに浮いていた残骸で、私を殴りつけてきた。私はたまらず板を放してしまった。
「ああっ!」
「元々はお前のせいなんだ! その命で償え! 大好きな海で死ね!」
私も泳ぎは得意な方だが、この荒れてる海ではさすがにどうしようもない。
心の動揺もあり、瞬く間に体の自由が利かなくなる。
水を飲んでしまい、意識が薄れていく。体が沈んでいく。
ああ、これまでなのね――
水面が遠ざかっていくのが分かる。
しかし、好きな海で死ねるのなら本望、無理にでもそう思うことにした。
だけど、せめて一目、カイル様にお会いしたかった。そんなことを思っていたと思う。
そうしたら、不意に誰かに抱きしめられたような感触を覚えた。
とても逞しく、温かい感触。
そのまま私の意識は薄れていった。
***
私は目を覚ました。
大きく、ふかふかのベッドで眠っていたようだ。
周囲を見ると、魚や珊瑚を模した装飾がなされ、まるで王宮の一室のよう、なんて印象を受けた。
体を起こすと、一人の男性が部屋に入ってきた。
艶やかな黒髪を持ち、青みを帯びた皮膚で、マントを身につけている。人間ではないということはすぐに分かった。しかし、大変な美青年だった。
まだ青年は言葉を発していない。発する前にどうしてもこれを言ってみたくなった。
「あなたは……カイル様ですか?」
青年は一瞬ピクリと体を動かす。
「よく分かったね」
やはり、あの声だった。
「分かりますとも……だって……だって……」
私は続ける。
「カイル様は私が思い浮かべてたカイル様の姿そのものだったのですから」
「……!」
私はハッとした。海神王様のご子息の姿を想像し、「こういう姿だと思っていた」と発言するなど、あまりにも出過ぎた行為だと思ったからだ。
「申し訳ありませんっ!」
「いや、嬉しいよ。どうもありがとう。ガッカリさせることがなくてホッとしてる」
カイル様は微笑んでくれた。
それからカイル様はベッドの横に座り、事の顛末を教えてくれた。
カイル様は海に沈む私をすぐに助けてくれたらしい。そして、自分たちの住む海底の世界へと運んだ。ここは海底といっても私のような地上の者でも問題なく暮らせる環境にあるとのこと。海に投げ出され溺れた私だったが、怪我もなく、体には全く問題ないとのことだった。
私が礼を言うと、カイル様は優しい口調でこうおっしゃってくれた。
「しばらく休んでいくといい。君のご家族には私から“お告げ”のような形で心配しないよう伝えておく。それと父が君に会いたいそうだ。会ってくれるだろうか?」
海神王様が私に会いたいだなんて。なんと光栄なことだろう。
「もちろんです!」
それから滋養効果のある食事を頂いた後、私は海神王様に謁見した。
カイル様の父君に相応しい、逞しい髭を生やした威厳のあるお方だった。
「我らを祀ってくれている、レランド家にはいつも感謝しておる。特におぬしは毎日祠に祈りを捧げてくれた。本当にありがとう」
私には勿体ない言葉だった。
「それにしても海神王というのは……“神”と“王”。どっちなのだろうな? おぬしの言葉を聞いてワシも思わず悩んでしまったよ」
海神王様が笑う。私が昔、話したことも聞かれていた。とても気さくな方だった。
それから私はカイル様と二人きりになり、色んなことを話した。
私はここぞとばかりに、船上で眠ってしまった事件から内に秘めていた、カイル様への想いを打ち明けてしまった。
全てを聞いて、カイル様は優しく微笑んでくれた。
それから、気になっていたことを尋ねてみる。
「ボリック様とネファリア様はどうなったのですか?」
「あの二人か……」
カイル様は神妙な表情になった。
「あの二人は祠を汚した。それだけで神罰を与えるに値する行為だ。しかも君を荒れ狂う海に放り出した。到底許せる行為ではない。いっそ私が手を下してやろうとも思った」
カイル様は私のために本気で怒ってくれたようだ。
「しかし、君が海に投げ出される直前まであの二人をも救おうとしていたことも知っていた。だから私は手を出さなかった。海は穏やかになりつつあったし、あの板さえ折れなければ、二人は助かる。私はあの板に二人の運命を委ねた」
「それで……どうなったのです?」
「二人はやがて『お前も海に落ちろ』『嫌よ』と醜く罵り合い、そのせいで板も割れてしまい……波に飲まれていったよ」
「そうですか……」
ボリック様とネファリア様は助からなかった。
残念という気持ちはもちろんある。
しかし同時に、二人が私や、海神王様が祀られる祠にしてきたことが脳裏に思い描かれる。
ここで「残念です。助かって欲しかった」と言うのは簡単だ。模範的でもある。しかし、それは本心ではないし、あまりにも綺麗事すぎると感じた。
「あの二人には当然の報いだと思います」
「そうか。そう言ってくれると私の心も和らぐ」
カイル様はうなずいてくれた。
「では我々の世界を案内しよう。ついてきてくれ」
「はい!」
私はカイル様にエスコートされ、海底世界というものを案内してもらった。
深く暗いという海底のイメージとは裏腹に、明るく煌びやかで文明も地上以上に進んでおり、とても優雅な時間を過ごすことができた。
瞬く間に時は過ぎていき、七日ほど経ったある日のことだった。
「私と……一緒になってくれないか」
カイル様がおっしゃった。
海底世界一番の名所といえる美しい大珊瑚の目の前でのことだった。
次期神様からプロポーズされるようなものである。なのに不思議と驚きはなかった。受け止める準備はできていた。
なぜなら私は14の時から、ずっとカイル様に恋をしていたのだから。
「よろしくお願いします」
だから物怖じせず答えることができた。
カイル様はやはりいつも通りの穏やかな笑みを浮かべてくれ、私をそっと抱きしめてくれた。
私は目をつぶり、しばしその温かな感触に酔いしれた。
程なくして私はカイル様の妻になった。
といっても海底世界でずっと暮らすということはなく、海神王様の身内は海底と地上を気軽に行き来できるので、地上暮らしと海底暮らしの両方を気ままに楽しめる身分になった。
さらに、私とカイル様が婚姻を結んだことで、レランド家は海神王様から今まで以上に直接的な加護を受けることができるようになった。
レランド家に危害を及ぼすような者があれば、もれなく海の裁きが下る。
海に消えたボリック様とネファリア様の生家も、私に思うところはあったようだが、海神王様を味方につけた私たちにはどうすることもできず、報復の恐れはなかった。海神王様がその気になれば、一国を海に沈めることすら容易いので、賢明な判断といえた。
私は今後、このまま人として生きるか、あるいはカイル様に合わせて神的な存在へと昇華するかを選ぶことになるという。
今すぐ決めるわけじゃないし、カイル様は「どちらを選んでも君の選択を尊重する」とおっしゃってくれた。
どちらを選んでも私は後悔することはないだろう、ということだけはなんとなく確信できた。
カイル様と人生を歩む中でじっくり決めていきたいと思う。
そんなある日、私はカイル様と一緒に船出をしていた。
私の船は壊れてしまったが、お父様に新しいものを買ってもらっていた。
海底世界も素晴らしかったが、こうして海の上を漂う航海もまた格別だ。私は本当に海が好きなのだなぁ、と実感させられる。
もっとも今はカイル様という海以上に好きなお方ができてしまったけど。
船に乗るカイル様はどこか様子がおかしい。
「船というのは……結構揺れるんだね」
「ええ、もしかしてお気に召しませんか?」
「いや、そんなことはない! ちょっと戸惑ってるだけで、すぐ慣れると思うよ、うん」
「まあ、カイル様ったら」
海を統べる一族で、激流でも簡単に泳げてしまうカイル様ではあるが、船に乗るのは初体験だったらしい。
しかし、すぐにカイル様も船に慣れたようだった。
私のこれからの人生を示してくれているかのような、とても明るく楽しい船旅になった。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。