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悪役令嬢は胡蝶の夢を見る 【コミカライズ】

作者: 三香

 マリージュは夢を見た。


 ただの夢というには生々しい夢だった。

 予知夢と言うよりも、まるでその人生を一度生きて経験したような、鮮明な夢であった。あるいは、何かの物語を読んでいるみたいな写実的な夢とも言えた。


 夢か空想か予知か、重要なのはマリージュがその現実じみた夢を信じたことだ。


「大変ッ!!」


 マリージュは飛び起きると一緒に寝ていた愛犬も勢いよく起きて、明けゆく夜の最後の冷気が流れるようにマリージュと愛犬は走り、そのまま兄の寝室へ突撃した。


 夜でもなく朝でもなく。

 闇夜から日の出に移るつかの間の。

 煌めく星々は微睡みに入り、薔薇の花びらを透かしたような薄明かりの夜明けの空である。窓から射し込む光も流星の尾のように仄白く暗い。


 眠りの国にいたマリージュの兄は、バタン! と乱暴に扉を開ける音で覚醒をしたが、ベッドから身体を起こす前にマリージュに飛びつかれた。


「ぞ、賊か!?」

 とっさに兄は枕の下の短剣に手を伸ばそうとして、

「お兄様、マリージュです! 大変なのですっ!」

 と妹の声に一気に脱力した。

「マリージュか……。まだ夜明けの時刻だぞ」


 もう一度ベッドに沈もうとした兄を容赦なくマリージュが揺り起こす。


「大変なのですってばッ!!」


「マリージュ、朝になれば話を聴くから今は寝かせてくれ」

「今っ! 今、聴いて下さいッ!!」

 マリージュにガクガク揺すられ、ついでに愛犬にキャンキャンと吠えられて、兄が手をかざす。

「マリージュ、落ち着け。なっ?」

「いーやーでーすっ! 今、落ち着けば私はお兄様に〈ごめんなさい〉をしなければなりません、明け方に男性の寝室を強襲するなどと淑女にあるまじき振る舞いをしたとして。悪いことをしている私は、だから冷静に絶対になりません! 今テンションを下げれば私は破滅ですっ!」


 ふんっ! と鼻息荒く言いきるマリージュに兄は呆れ果てて起き上がった。兄は乱れた髪を貴族らしく整えられた指でかき上げると、マリージュに部屋にある椅子をすすめて対面に座って長い足をゆったりと組んだ。


 蝋燭の醸し出す光が、ちらちらと薄暗い室内で影を織り成す。細く、かそけく、マリージュと兄の顔を乏しい火の穂の中に映した。


 ふぅ、と兄は溜め息まじりの声を出す。

「ああ、妹に甘い自分が恨めしい。仕方ないな、で? 何が大変なのだ?」


 マリージュはコクリと息を呑むと、真摯に訴えた。

「夢を見ました。夢では従兄弟のユーシスの巻き添えでユーシスの家はもちろん当家もおとりつぶしになってしまい悲惨な目にあう夢を」


 真剣な表情のマリージュに、兄は目を細めて琥珀に眠る植物のような思案する気配を静かに漂わせている。


「あー、ユーシスか。夢か、もしや予知夢か? 可能性はあるからなユーシスならば。あいつは根はいい奴だが、茎がポンコツで枝葉が素直と考え無しで咲く花がボケの花、な感じの奴だからな。ユーシスの家の伯爵家が僕らの家の本家にあたるから、何かあれば禍根を残さないように連座で一族郎党処分されるのは貴族の常だから」

「お兄様、言い方」

「根はいい奴なんて言い方は、普段は迷惑を巻き散らかす奴だから言われるんだ。俺がどれだけユーシスの尻拭いをしたことか、まったく本家の連中ときたらーーーーまて、その夢を詳しく教えてくれ。もしかして本家を潰せるチャンスかも」


 兄の目がギラリと光る。

 愛犬もマリージュの足元で後ろ足のみで立ち上がり、ブルーベリーのような丸いつぶらな目をキラキラさせて人間たちの話を興味津々で聞いている。ぽっこりしたお腹がかわいい。あまりにも目がキラキラするので獣医から病気を疑われたが、「異常なし、単にかわいいだけでした」とお墨付きをもらったほど可愛らしいポメラニアンである。


「ユーシスはマリージュの婚約者だったから我慢してきたが、先月に婚約をユーシスから破棄されたからな。あのボケ、なにが『本当は小顔で瞳の大きな女の子が好きなんだ、マリージュは違うだろ』だ。だったらカマキリがテメーの究極のタイプかよ、人間の女ではなくカマキリのメスと浮気して食われてしまえよ! ボケ! カス!」


 よみがえるユーシスへの腹立ちとともに兄の言葉が乱雑になっていく。社交界で有能な、男爵家の若き継承者の仮面をかぶっている姿とは大違いである。


「顔と家柄しか取り柄のない甘ちゃんボンボンのくせに。3年もテメーに尽くした俺の可愛いマリージュを捨てやがって。ふっふっふっ。いずれ力を付けた時にはユーシスを破滅させてやろうと考えていたが、そうだよな、あのユーシスならば自滅コースもあり得る」


「お兄様、そんな事を考えていらしたのですか?」

「当たり前だ。他の令嬢たちが茶会だ観劇だパーティーだと楽しんでいるのに、おまえはユーシスの後始末で走り回って、方々に頭を下げて。貴族の娘の結婚適齢期は短いというのにユーシスは3年間もおまえからむしり取って、3・年・間・もだぞ。優秀なマリージュを取り込む目的で此方が辞退しているのに強引に婚約を結んで、あげくに浮気して婚約破棄だ」


「その上」

 兄の苛立つ感情が溢れる。漏れる。

「伯爵家は婚約破棄の慰謝料を、本家であるという権力を使って親族内の揉め事として払わなかった。ユーシスが平民ならば、思いやりはなく浅慮で粗忽でも生きていけたかも知れない。しかし貴族としては足りないところが多すぎる。義弟になるからとユーシスを補い助けてきたが。ふっふっふっ。予知夢よ、ありがとう。未来ではなく今すぐユーシスを破滅させられるなんて」


 悪い顔で笑っている兄に、

「私は夢の内容さえ伝えていないのに、お兄様は全面的に信用して下さるのですか?」

 とマリージュは尋ねた。

「あー、父上と俺だけの秘密だったからマリージュは知らないが、亡くなった母上は時々予知夢をご覧になる方だったのだ。自発的に望むものを見たりはできなかったが的中率は100パーセントを誇った。母上は秘された巫女の家系で、故に血筋的には不思議ではないからな」


 衝撃の真実にマリージュが固まる。

「しかし先見の能力の家系だからといって誰にでも現れるわけではない。黙っていたのはマリージュを危険から遠ざける為だ」

 兄がニヤリと笑って顎をしゃくった。


「ナイショだぞ。醜い欲の争いの元となるから、マリージュも夢のことは俺と父上以外に喋ってはダメだぞ」

 兄は愛犬にも釘を刺す。

「おまえも他言無用だぞ」

「キャン」

 大真面目に愛犬が返事をした。もう年齢的には老犬なのだが、ふんわりとした毛がふわふわしているので生きた毛玉みたいで愛らしい。

「ぐっ、じじいのくせに心臓に直撃する可愛さだ」


 胸を押さえて唸る兄にマリージュは、

「ねぇ、お兄様。夢の中でユーシスが高価な偽物の壺を買っていたのですけど?」

 と疑問を投げかける。

「あー、タチの悪い商人たちに騙されやすいカモがいる、って情報を密かに流して唆したからな。今までは俺かマリージュが側にいて防いでいただけなのに、伯爵家はそれを理解していない。伯爵家の財産をどんどん精巧な偽造品のガラクタにつぎ込んで、気付いた時には手遅れかもな。あいつ鑑定眼もないのに美術品にハマッているから」


「なるほど。ですからユーシスはお金欲しさにアヤシイ商売に手を出したのでしょうか」

 小さな傷からでも、果物も人間も腐ることがある。ユーシスも小さな切っ掛けから堕ちていったのかも、とマリージュは思った。

「夢の中ではユーシスは、言葉巧みに誘導されて商会の共同経営者になっているのです。表向きは他国からの輸入商品、でも裏では禁制の薬を流通させていて。ユーシスはそのことを知らなくて。結果として共同経営者の相手は逃亡して、ユーシスのみが責任者として捕まって伯爵家と親族も罰せられて、爵位も領地も財産も没収されて国外追放になるのです」


 兄は、金属の中に彫りこまれた彫金の花のように冷たく嗤った。

「ボケだな」


「伯爵家も親族連中も、母上が亡くなられた時に形見分けと宣って母上の宝石を掠め取ろうとした連中だからな。あれらはマリージュへの遺産であるのに。ふっふっふっ、天罰だ」

「当家も没落をしてしまうのですが?」

 愉しげな兄を、マリージュは遠慮がちに棘のある目で睨んだ。

「かまわん。男爵家といっても領地のない法服貴族だ。父上もこき使われる文官生活にうんざりなさっている。いい機会だ、他国に移住をしよう。きっと父上も賛成をなさる。俺が投資で築いた財産があるから不自由はしないが、マリージュは貴族の身分に未練があるのか?」


「ありません」

 婚約を破棄されたマリージュは、社交界で悪意がたっぷり染み込んだ噂を流されて嘲笑の的となっていた。


 悪役令嬢、と。


 劇でも小説でも主人公は仇役の存在により自身を耀かしくランクアップさせるが、伯爵家はユーシスと家名を守るためにマリージュに悪女の汚名を被せた。ユーシスの浮気に蓋をするようにマリージュを悪役に仕立てて、劇のごとく飾られた根拠のない噂を流布させたのだった。社交界には心ある者もいたが大多数の者は、ゆがめられ潤色された噂を面白おかしく楽しんだ。


 噂には噂を。

 だから兄は情報を操作して、ユーシスが騙されやすく財貨を搾取しやすい儲けの対象であるとの真実を噂として流したのである。


「マリージュの噂の主犯は伯爵家だが、追従をして社交界に行き渡らせたのは親族連中だ。悪事に対する報いだよ」

 潔いほど兄は、ユーシスも伯爵家も親族も切り捨てた。それほどに兄は激怒していたのだ。


 部屋の中は無風であるのに、マリージュは砂漠に雨が降り注ぐみたいな温かい風を感じた。兄の優しさが肌を撫でる。兄の愛情に胸が痛い。マリージュは瞳の奥からこみ上がってくる涙をかろうじて抑えた。


 愛犬がマリージュの膝にのぼってきて、マリージュの目元に滲んだ涙を小さな舌でペロペロ舐める。目も、頬も、口も。くすぐったくて顔を反らしたマリージュの晒された首を、さらにペロペロ。


「こら」

 兄がマリージュから愛犬を取りあげる。猫のように首根っこを掴まれて、プランとゆれるポメラニアン。

「むやみやたらと若い令嬢を舐めまわしてはいけない」


 マリージュがくすくす笑う。

 部屋に射し込む光が明るくなっていた。


 窓の外には朝日が昇り、ガラスみたいに澄んだ空気が庭の花々の目覚めを誘っている。朝露に濡れた蝶が翅を吐息のように震わす。小鳥のささやかな羽音が響いた。花びらがほぐれるように温度が緩やかにしずしずと上昇してゆく。生まれたばかりの太陽を吸い込み、白い雲が内部からほんのりと光っているのが美しかった。


 枝々や葉に光が濾されて、庭木の樹影が黒い天鵞絨のようになめらかだった。


「さて、もうじき朝食の時間だ。マリージュ、着替えておいで」

「はい、お兄様。ところで移住の候補地はあるのですか?」

「あー、ルカリウスの国に行くつもりだ。この毛玉をマリージュにくれた俺の友達の」

「まぁ、ルカリウス様のお国に。懐かしい。ルカリウス様が留学中は、学友であるお兄様の妹だからと可愛がっていただいて。ぽめちゃんもプレゼントしてもらって、私、実はルカリウス様が初恋の人なのです。子どもの恋でしたが。またお会いできるならば凄く嬉しいですわ」


 初恋の相手と言いながらマリージュに恋の色はない。幼い頃の憧れのようなものだった。だから、ひたすら懐かしいだけだ。


「ふっふっふっ、ルカリウスも苦労するな」

 ぼそり、と兄が呟く。


「? お兄様、何かおっしゃいまして?」

「いや、何も。もう自室に戻りなさい。俺も着替えるから」

「はい、お兄様」


 マリージュが愛犬のぽめちゃんを返してもらうべく兄に手を伸ばす。


「あー、ちょっと毛玉に用がある。後で連れていくから少し預かってもいいか?」

「ぽめちゃんに? わかりましたわ、では後で」


 マリージュが扉を閉めたことを確認して、兄がふわふわの毛をかき分けぽめちゃんの首輪を露にする。首輪には、大貴族の身代金並みに高額な通信魔石がほんのりと輝いていた。


「ーー聴いていたな、ルカリウス?」

 瞬時に喜色に染まった返事が返ってくる。

「聴いていたとも! 早くこちらの国に来いよ、必要なものは全て準備しておくから。早く、早くマリージュに会いたい!」


「ルカリウス、おまえ」

 兄は呆れたように口を開く。

「俺が勧めた時はマリージュのことは妹としか思えない、と断っておきながらマリージュが婚約した途端、自覚がなかっただけでマリージュに恋をしていた、と大慌てで通信魔石を送りつけてきて調子のいいこと言っているんじゃねーよ。おまえもボケの花か?」


「酷い! 親友だろ! だって国に帰って喪失感に悩んで理由がわからなくて、おまえからの手紙でマリージュが婚約をしたことを知って、やっと自覚したんだ! 協力してくれよ!」

「協力してやっているだろうが。毛玉の首輪に通信魔石を装置してやったし、おかげでマリージュのストーカーができてウハウハだろう?」

「ウハウハだけど! 音のみだから妄想力が1億倍くらいになったけど! ぽめちゃんの首輪に通信魔石をつけたのは結界も兼ねて、あの憎いユーシスからマリージュを守るための方法としてだろう。恩着せがましいぞ」


 超高価な通信魔石は、壊れないように結界も付与されていた。それはぽめちゃんを抱っこしている場合、マリージュにも及んでいた。


「いいじゃないか。おまえもマリージュを守る件については賛成だろうが! ユーシスに可愛いマリージュを触れさせるなんぞ虫酸が走る」

「指一本でもダメだ! チキショー、結界に毎日魔力を入れる仕事なんて契約するんじゃなかった。任期はあと半年も残っているし、マリージュを迎えに行きたいのに動けない」


 しょんぼりとした声を兄が励ます。

「そうだ。その半年の間でおまえのことを多く話題に重ねるようにしよう。なるべくおまえをマリージュに男性として意識させる方向で。今のマリージュにとって、おまえは思い出の人レベルだから」

「ーー天才か!?」

「ふっふっふっ、もっと誉めていいぞ」


 兄としては予知夢に開花したマリージュの守護に、国全体に結界をはれるほど卓絶した能力のルカリウスは最適任者なのだ。しかもマリージュのことをルカリウスは、昔から目に入れても痛くないと豪語するほど溺愛していた。それなのに妹だと主張していたのだから、やっぱりボケの花だと兄は思った。


「俺が努力してやるのだから、そちらの国に着いたら頑張ってマリージュと相思相愛になってくれよ」

「もちろんだとも!」


 兄とルカリウスの会話をぽめちゃんは、我関せずと兄のベッドの上でクワッと大きなあくびをしてコロンと寝転がった。ケリケリケリ、と短く細い脚でのびのびをする姿がとても可愛い。とどめに舌をちょこっと出して薄く白目になって脱力状態で死体のように寝る。マリージュがいれば激かわと喜ぶが、兄は話に熱中しているので喜んでくれず残念なぽめちゃんだった。


 その半年と20日後。


 大勢の護衛を引き連れて爆速でやって来たルカリウスは、男爵家を訪問した。ユーシスの凋落を見届けたいと、なかなか母国を離れない男爵一家にしびれを切らして迎えに来たのだ。


 半年の間にユーシスは、伯爵家の財産を傾けるほどの多数の贋作をつかまされ、自称友人の男に誘われてヤバい商会の代表者の席についていた。

 マリージュの夢の通り順調に転落コースを進んでいるので、そろそろ国から摘発される時期である。


 男爵家の方は、伯爵家と絶縁手続きも済み爵位も返上して使用人たちの再就職先も決まり、その他諸々の段取りも終わったのでユーシスの摘発の巻き添えになる前に出国をしようか、と家族で相談しているところでの、ルカリウスの来訪であった。


「ようこそ、ルカリウス様」

 愛しのマリージュに歓迎されて、男爵家の玄関でルカリウスは感激のあまり身体を震わせた。

「ひ、久しぶりだね、マリージュ。綺麗になったね、マリージュ。会えて嬉しいよ、マリージュ。本当に綺麗だ、マリージュ。会える日を指折り数えていたんだよ、マリージュ。ああ、本物のマリージュだ! 綺麗だし、素敵だし、可憐だし、可愛すぎるよ、マリージュ」


 怒涛のごとくマリージュマリージュマリージュと繰り返し名前を連呼して褒め称えるルカリウスに、マリージュは恥ずかしげに視線を伏せてもじもじしている。

 出迎えた兄が口を挟む。


「あー、ルカリウス。とりあえず積もる話もあるから屋敷に入らないか?」

 ハッ、と我にかえったルカリウスが、

「す、すまない、感動してしまって」

 と、ぎこちなく言葉を返したところで。


「マリージュ!!」

 門から大声が響いた。


 兄とルカリウスとマリージュが揃って顔を向けると、門にはユーシスの姿があった。門番に止められて、鉄の彫刻をほどこした厳めしい門扉の外から顔色の悪いユーシスがわめいていた。


「マリージュ! 困っているんだ! 助けてくれないか!?」


「あー、よくもうちに顔を出せるものだ。恥を知らないのか?」

 と、兄。

「崖っぷちなんじゃないか?」

 と、ルカリウス。

「もう他人ですから」

 と、マリージュ。

 3人とも声に冷淡さが凝縮して、冷え冷えとさめていた。


「ユーシス!」

 玄関から門まで色とりどりの薔薇が続く道を歩き、兄は門扉に近付くと冷たく言葉を放つ。低い植え込みの薔薇と両端の中高の薔薇への取り合わせが華麗な薔薇園は、豪華絢爛な無数の花が別世界のように蝶々を呼び、豊かな芳香が天空に御座す女神に届くかのようだった。


「何が困っている、だ? マリージュがおまえの失敗のために人々に頭を下げた時、おまえは感謝したことがあったか? おまえが身勝手にも婚約を破棄した時、マリージュに謝罪したか? 俺もマリージュもおまえの尻拭いをする度に、従兄弟として婚約者として幾度も忠告をしたよな? 耳を傾けたことはあったか? おまえはマリージュを便利なものと使うだけ使って、これまで何をしてきたのか言えるものならば言ってみろ!」

「あ、あ……」

 ユーシスは、喉に息を詰まらせ膝をつきそうになった。何も言えない。ユーシスはマリージュを大事にしなかった。婚約者として儀礼的に接して、身分が上だからとマリージュに命令ばかりして大切にしたこともなかった。


「何故来たのですか、時間は巻き戻りませんのに。私はもう婚約者ではないのですよ」

 ああすれば良かった、こうすれば良かった、と悔いても時間は過去へ逆流したりしない。マリージュがユーシスと労りあい思いあう未来があった可能性も、ユーシス自身が終わらせた。

「さようなら」

 兄の後方でマリージュはドレスの裾を持って淑女の礼をした。


 見限られた。

 いつも救ってくれたマリージュに突き放されてユーシスの頭は真っ白になり、目の前は真っ暗になった。絶望が胃の底から苦くこみ上げてくる。


「これ以上、門で騒ぐのならば兵士を呼ぶぞ」

 悄然と肩を落として萎れるユーシスに兄は冷酷に通達をする。


 兵士と聞いてユーシスは力なくノロノロと自分の馬車に乗り込み、ぎしぎしと音を軋ませて馬車は走り去った。


「ボケが!」

 元貴族なのに口の悪い兄であった。


 翌日の早朝、マリージュたちはルカリウスの大勢の護衛たちに囲まれて国境へと出発した。庭の木々の葉が風に吹かれて拍手のざわめきで見送ってくれる。花影に蝶々の影が重なり、葉陰から小鳥の脚が覗く。マリージュが今朝に水をまいた薔薇の花々が、波間に跳ねる魚のように水滴を纏って輝いていた。


 マリージュは振り返って子どもの頃からの人生の宝石のつまった、育った屋敷に手を振って別れを告げた。馬車に乗り込んで再度振り返る。ぽめちゃんとふたりで窓にはりついて、遠ざかる屋敷をずっと見ていた。


 そんなマリージュを兄とルカリウスが黙って左右から撫でてくれたのだった。


 そして、その昼にユーシスは違法薬の密売容疑で捕縛された。最後まで「僕は悪くないっ!」と叫んでいたという。

読んで下さりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ポメちゃんのお腹。 あまりにも可愛すぎます。 そしてお兄様。ほとんど外見描写ありませんけどもう絶対にかっこいい。確信。 ほんのちょっとした動作や表情の描写でそれ(お兄様のかっこよさ)を認…
[良い点] 兄の的確なツッコミが最高…!!流石やで~!!
[一言] ポメちゃんいなくても話に全く問題はないと思うけど。 たぶん、ポメちゃんいないと話がつまらなくなるんだろうなという。
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