王妃様が訪ねて来ました
孤児院上がりの一国民である身を考えれば生涯王城に立ち入る機会などないのが普通ではあろうが、ユーリ・ユーベルは『大いなる翼』の【アイテム使】として王城に呼ばれた経験も少なからずあった。
当然『大いなる翼』として呼ばれたという以上は国王の名の元召集されたということにほかならず、国王アジュール・イル・パラディーアと面と向かって言葉を交わした経験も一度や二度ではない。そしてその過程で、王妃シルヴィア・バルドール・パラディーアとも面識が出来上がるのは至極当然の流れではあった。
バルバラ商店二号店。開店したばかりのその大忙しの店舗の、その応接室。まさか初めて迎え入れる客が王妃になるとは誰も想定していなかったであろうそこで、シルヴィー夫人を名乗る王妃とユーリは向かい合っていた。
「では、その……えぇと、シルヴィー夫人、でよろしかったでしょうか?私は申し訳ありませんが店舗での仕事に戻らせていただきますので、当店の店長とどうぞごゆるりと」
「えぇ、急に来店して申し訳なかったわねミレイユ・バルバラ。後でしっかり売上に貢献させて貰うから、少し店長さんを借りるわよ」
常日頃から余裕綽々を体現しているようなバルバラ商店の主とて、流石に王妃の前では委縮すると見える。ユーリを生贄に捧げると、ミレイユは紅茶と茶菓子だけ置いてそそくさと応接室を後にした。
「……毒見役の方とか、護衛役の方とかはご一緒じゃないんですか?」
置かれて行った紅茶をカップに注ぎ、シルヴィー夫人に差し出しながらユーリは問うた。部屋に充満する香しい匂いを堪能しつつ、この紅茶に毒でも入ってたらどうするんだろうなどとあらぬ想像を巡らせる。
そんな青年の内心を知ってか知らずかシルヴィー夫人は鼻を鳴らして笑った。
「私に必要だと思う?その手の存在が」
「お立場的には、まあ必要なのではないかと……」
「立場上だけ見ればそうかもしれないけれど、実利にそぐわないわ。カット出来るなら無駄はカットするべきよ。何事においてもね」
せめて自分が先に飲んで毒見役の代わりでもするか。そんなユーリの気遣いなど知らぬとばかりにシルヴィー夫人はさっさと紅茶に口をつけてみせた。無駄はカットするべきというその言葉の通り、時間的な無駄すら許さないとでも言わんばかりの素早さだった。
「さて、本題に入るわ。ユーリ・ユーベル。貴方、翼を追い出されてバルバラ商店に入ったという噂は本当だったのね」
一体何故いきなりシルヴィー夫人が店を訪れたのか心底疑問だったのだが、その言葉にユーリは得心した。『大いなる』の称号を持ったパーティーの元メンバーが妙な商売をしていれば国王の沽券に関わる。シルヴィー夫人はそれを危惧して一人調査に来たのだろう。
「翼を追い出された理由については私の知ったことではないのだけど、【商人】に転向するにしても何故バルバラ商店なのかしら?単純に【商人】をやるだけなら最大手のバエル商会とは言わずとも他にもフリード商会やドミア商会といったバルバラ商店以上の大手は幾らでもあるでしょう?」
「いや、まあ元々懇意にしてましたし、真っ先に声をかけられたので……その、王宮的にはバルバラ商店はあまり覚えが良くないということでしょうか?」
「失礼を承知で言えばトップクラスの商店とは言い難いもの。勢いはあるにせよ他の上級商店と比べれば信用度は落ちるし、貴方の腕ならもっと上の就職先を選べただろうから不可解……とは言え、王国的に疑問視されるほどの怪しさがあるわけでもないからこそこうして私が個人的に出向いたのだけれど」
「なるほど……」
つまり飽くまで王妃―――夫人の独断であり、そこまで大事として捉えられているというわけではない。多少怪しく思ったから軽い気持ちで視察に来たという程度の話なのだろう。
「俺……いえ私にはそこまで特別バルバラ商店でなければならなかった理由というのもありません。元々屋台でも引いて行商でも始めようかと思っていたところに家が焼け、そこに手を差し伸べて貰ったので渡りに船だったのが大きいと言いますか」
「別に俺でも良いわよ。公式な場で王妃様を前にしているのではなく、自分のお店で得体の知れないシルヴィー夫人を前にしているのが今の貴方でしょう?でもそうね……そう言えば貴方の家はマリス街のこの間焼けた集合住宅だったわね」
マリス街というのは王都イルタリアの端にある倉庫街だ。あまり人の気配のない閑散とした街で、一歩間違えれば貧民街と呼ばれそうな程度には安物件が揃っている。中心都市ロザリディアからは結構な距離があるため日常生活を営むには向いていないが、冒険者が冒険から帰ってきて荷物を放り込む場所としてはなかなか都合の良い立地だった。
「つまり、困窮していた貴方を目敏く良いタイミングで拾い上げたミレイユ・バルバラがやり手だったというだけで、貴方個人としてはバルバラ商店だろうがなんだろうが何処でも良かったという認識で良いのかしら?」
「拾って貰った恩はあるのでいざそう言われると頷くのは躊躇われるんですが、まあそんな感じです」
「そう、なら例えば……ユーリ・ユーベルを王宮の【アイテム使】として召し抱えると言ったら、貴方は首を縦に振るかしら」
「………………はい?」
思わぬ発言に失礼だと考える暇もなくユーリは間の抜けた返事を返した。そんな青年の反応に気を悪くした様子もなく仮面の貴婦人はゆったりとした微笑みで続ける。
「驚くことはないでしょう?貴方は国内屈指の【アイテム使】。冒険者を辞めたなら王宮で召し抱え手元で国のために働かせたいと私が考えることも不思議ではない筈よ」
「ま、まあそう言われれば不思議じゃないかもしれない……ですけど」
「勿論給金ははずむわ。バルバラ商店の店主などやっているより遥かに高い給金で迎えましょう。前例はないけれど国家【アイテム使】ともなれば、それこそ貴方の古巣を見返すのに十分な立場。『大いなる翼』を顎で使ってアイテムの素材を収集させることだって可能になるわよ?」
バルバラ商店二号店の店主の話が出た時以上に突拍子もない誘いに、ユーリも流石に目眩を覚えた。冗談でしょうと笑って済ませることが叶えばどれほど楽だろうかとも思うが、一度はなりを潜めたと思ったプレッシャーが再び夫人から噴出しふざけた回答をユーリに許さなかった。
(舐めた返答をしたら……殺られる!)
ユーリの背筋を冷たいものが走った。シルヴィー夫人―――王妃シルヴィア・バルドール・パラディーアに関する逸話は熟練と言って差し支えないユーリをしてなお恐怖を覚えざるを得ないものだったのだ。
曰く、エルダードラゴンを一対一で撲殺した。
曰く、山一つを拳でくり貫き一晩で道を作り上げた。
曰く、魔族の王相手に素手で挑み互角の戦いを繰り広げた。
ユーリがまだ生まれる前、当時王子だった国王アジュールやその仲間たちと共に魔族討滅の旅に出た伝説の冒険者パーティー。その最前線に立って獅子奮迅の働きをした王国最強の元【武闘家】。それが眼前の美女の正体であることはパラディーア王国民で知らぬ者のない真実だった。
勿論二十年も前の話だ。見た目こそ若々しいが内面はどうか分からないし、現実としていざ戦えば若いユーリが勝ち得る可能性もなくはないだろう。しかし、青年の脳裏にはふざけた口を利いたが最後、微笑みを浮かべたままのシルヴィー夫人に自身の頭が微塵に粉砕される光景がありありと浮かんでいた。
「その……大変ありがたいお話なのですが、お断りいたします」
結局ユーリには恐怖に怯えつつ丁重に断る道しか残されていなかった。
「へぇ……どうしてかしら?」
一切感情のこもっていない声というのは、時と場合によってはなまじ怒気のこもった声より遥かに恐ろしいものである。この時ユーリにかけられたのはそういった極めて恐ろしい類の声だった。
「その、俺は『大いなる翼』にまだ未練があるので……王宮勤めなんてものになった日には戻る目が完全になくなるかなって……」
「戻る目?貴方、戻れる算段なんてあるのかしら?」
「それは、ないですけど……でも可能性がほんの僅かでも希望持つくらい良いじゃないですか……」
「仮に可能性があったとしても、それは本当に王宮勤めの栄誉を蹴ってまで選択するべき道なのかしら?【アイテム使】に限らず、ありとあらゆる冒険者が今の貴方の言葉を聞けばその正気を疑うと思うけれど?」
「……っ!でも、俺にとっては何より大事なことなんです!」
思わず声を荒げて、それからユーリはハッと口を抑えた。いつの間にかシルヴィー夫人の口元からは微笑みが消え、仮面を被ったその素顔さえ仮面のような無表情になっていた。
「不思議ね。一方的に放逐された身でありながら帰れる算段もない古巣に縋りつくなんてみっともないとは思わないのかしら?プライドを傷付けられて、名を傷付けられて、逆に踏みにじって復讐してやろうと息巻いたところで何もおかしくないと思うけれど」
探るような口調に絶望的な気分になりながらユーリは仮面の淑女の顔を必死に見つめる。それは心情を訴えかけるという類のものでもなく、目を離した瞬間首をへし折られるのではないかという恐怖から逃れるための行動だった。
「そう思う人もいるかもしれません。俺の場合はみんなが大事なので復讐の対象なんかにはなり得ない……それだけです」
「……大事大事って、それしか言えないのかしらね」
「それしか言えません。本音がそれなので」
「………………ふぅん」
夫人の言葉を最後にしばしの沈黙が流れた。時間にしてほんの僅かな時間だったのかもしれないが、ユーリにとっては今日一日慣れない接客業で貯めた総量に倍するストレスを感じざるを得ない時間だった。冒険者時代に幾度も感じた命の危機から来る慣れ親しんだストレスではあるが、その相手が魔物の類かこの国を統べる国王の妻かという違いがあった。
「なら仕方ないわ。残念だけれどこの話はなかったことにしましょう」
ユーリの表情を観察していたシルヴィー夫人がそっと立ち上がったことで、青年の恐怖の時間は幕を下ろした。その声色には一切の怒気もなく、終わってみれば意外なほど呆気なく諦めたようにユーリには感じられた。
「そうだ。勧誘には失敗してしまったけれど売上には貢献すると言った以上何か買わないといけないわね……この店で貴方が手掛けているものというと何になるのかしら?【アイテム使】さん」
「えっと、俺が手掛けてるのはポーション類ですね。この店のポーションは現状全部俺が作っています」
「そう……ならそうね、キングポーションを二十個ほどいただこうかしら」
「……一個につき十万ジュエルほどいただいておりますが」
「二百万ジュエルでしょう?バルバラ商店のポーションは質がいい代わりに割高と聞いていたけれど開店セールだけあってお値打ちじゃない。ポーションの瓶だから雑に扱ったところでそうそう割れるなんてこともないでしょうけれど、徒歩で来ているから一応しっかり梱包して貰えると助かるわ」
「………………かしこまりました」
王妃が馬車を用いるでもなく徒歩で街中を闊歩するというのもどうなのだと思わなくもないが、それが彼女という人間だった。他国から入り込んだ暗殺者が街中を無防備に出歩く王妃を目撃して襲い掛かったら逆に全身の骨をへし折られ再起不能にされたなどという話も聞く。
夕焼けに赤く染まる街をキングポーションの詰め合わせを持ったシルヴィー夫人が欠片も重みを感じさせない歩調で去っていく。その後予想外の収入に大喜びして新店長の手腕を褒め称えたミレイユやメリルとは対照的に、ユーリ自身は疲弊し切った様子を隠すことも出来なかったのだった。
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