Chapter.2 / Stranger [ 闖入者 ]
「んがぁっ!」
昼前の教室。俺は脳天に強烈な衝撃を受け、もんどりうって椅子ごとひっくり返り、地面に倒れ込んだ。頭を抑え、その場にうずくまる。
「あ、が、が……」
「授業中にヨダレ垂らして爆睡とはいい身分だな? 神月」
頭上から数学教師の声が聞こえた。ちらりと見ると、俺の頭をぶっ叩いたらしい出席板を手に持っている。その声に混じって、周りからクスクスと俺を笑う声がする。うるせえ、人が苦しんでるのがそんなにおかしいかよ!
……そりゃまぁおかしいだろうなあ。他人の不幸は蜜の味。
「特別課題と特別補習、どっちがいい?」
「廊下に立ってる、ってのはダメですか?」
「馬鹿もん、誰が逃がすか。そういう態度なら、お前にはたっぷり宿題を用意してやる。楽しみにしてるんだな」
そんなあ、殺生な。買ったばかりのRPGがいいところなのに。
この数学教師の柿崎、普段は温厚なのだが不真面目を働くと途端に厳しくなると有名なのだ。だから俺も普段は気をつけて真面目に授業を受けていたのだが――いかんせん、昨日買ったゲームがあまりに面白くて夜更かししすぎてしまったのだ。
だけど、今のはどう考えても体罰だろ。目玉がぶっ飛んでくかと思ったっつーの。教育委員会にチクるぞ、こん畜生。
俺は内心で柿崎を呪いながら、ひっくり返った椅子を直そうとした。そこで、隣の女子に被害を及ぼしてしまっていたことに気付く。ごめんと謝り、俺は椅子に座り直した。
そして元通り、数学の授業が再開される。黒板には二次関数のグラフが書かれており、等式やら不等式やらが呪文のように書き殴られている。そう、柿崎の文字はミミズが――いや、セイウチがのたくったように汚いのだ。
加えて、自慢じゃないが俺は数学が苦手だ。人は、現代というものは数学を基礎にして成り立っているのだから重要なのだと言うが、俺にしてみりゃ道具が使えさえすりゃいいわけで、こんな方程式やら不等式が解けたからって何の役に立つんだ、と思う。
ああ畜生、数学のない世界に旅立ちたいなあ……
数学の無い世界というわけではないが、俺は今見ていた夢のことを思い出した。
それはそれは、不思議な夢だ。
夢の中で、俺は少女になってしまうのだ。少女として考え、行動する。いや、正確には自分が考えているのではなく、少女の思考をなぞっている感覚なのだが。
その世界は圧倒的な臨場感を持っていて、俺が少女の夢を見ているのか、少女が俺の夢を見ているのか分からなくなってしまいそうなほどだ。
世界は中世~近代ヨーロッパのような雰囲気で、どこかファンタジックな印象を持っている。特筆すべきは、魔法みたいな"唱術"というものが存在していることだ。
それだけだったら、俺も単なる夢と思ったかもしれない。しかし、この夢を見たのは一度や二度ではないのだ。3年くらい前から数日に一度、合計にして数百回は見ているだろう。
それが何の意味を持つのか、俺は理解することができなかった。ただそういう現象が事実として存在しているだけだ。全く、摩訶不思議にも限度というものがある。
少女は名をリルカ=マイヤーと言い、俺と同じくらいの年頃に見える赤いショートヘアの子だ。性格は優しく家庭的で明るい。とても妹思いで、二人の妹からは慕われている。顔立ちは可愛らしく、プロポーションも均整が取れている。ぱっと見、非の打ち所があんまりなさそうだ。
なんでプロポーションまで知っているのかというと……その、あれだ。夢で見たときにリルカが入浴中のこともあって、鏡に映った自分の姿を見てしまったことがあるのだ。しかし俺の意思で身体は動かないのだから視線を逸らすこともできず、つまりは仕方がなかったんだ、うん。
って、俺は誰に言い訳をしているんだ。
これを単なる夢と割り切るには、あまりにも情景がクリアすぎる。夢ってのは本来もっとカオスなもんだろうが。例えば知らないうちに俺が連続殺人犯になっていて、逃げていたら突然スーパーマリオの雲のステージに出て、そこをクリアしたら金だらいが雨のように降り注いできたりとか。
だから俺はこんな想像をしていた。俺が見る夢はここではないどこかの世界に過ごす誰かの風景なんだと。そう考える方が夢が広がっていいじゃないか。
しかし気になるのは、いつもとは異質な今日の夢の内容だ。悲しみに沈むリルカの家族に、エフェメラルという存在。そして、記憶を失うってのはどういうことだ? 戦い? 八聖珠? 分からないことが多すぎる。
一方的な俺とリルカの付き合いは、彼女へのシンパシーを生み出していた。思考をなぞっているせいなのかもしれない。まるで彼女が自分の一部であるかのような、そんな愛おしさを感じさせる。
だから、今日の悲しみはまるで自分のことのように感じていた。病気かな、俺。
「神月! またボサっとして、いい度胸をしてるなお前は!」
うげ、やべぇ、また怒られた。いかんいかん、今はまず授業に集中しよう。これ以上ペナルティを増やされたらたまったもんじゃない。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■
「はっはっは、また災難だったなあ白亜」
昼休み、俺の正面にはランチメイトである市ノ瀬隆が座っている。茶色のオシャレボウズの男だが、俺はコイツのことを親しみを込めて「猿」と呼ぶことがある。
「笑い事じゃねえよ。あさってまでに問題集12ページだぞ? 俺の頭でどうしろってんだよ」
「1ページ1食で引き受けるぜ?」
「……半分くらい頼もうかな」
隆は驚くべき事に数学が得意科目なのだ。何でも、今使っている問題集はもう終わらせてしまっているとのことだ。人外か貴様は。
「ところで、今日はリルカちゃんに会えたのか?」
夢のことは隆も知っている。あんまり親しくない人に話したらキモがられることこの上ないだろうが、隆とは中学からの付き合いであり、十分信用できると思っていた。
「ああ」
「いいよなぁ、俺もそんな美少女と知り合いになってみたいぜ」
「夢で見ることのどこが知り合いだよ」
「夢がきっかけで親しくなって、そこからはじまるめくるめくロマンス。くぅー、たまんねえぜ。エロゲだよエロゲ」
「いや、聞けよエロ猿」
こいつは自分の世界に入ると外野の言うことが通じなくなる。全く、困った奴だ。だから猿なんだっての。
「で、ぶっちゃけた話どうなのよ」
「何が?」
「リルカちゃんのことだよ。好きなんだろ?」
何を言ってるんだコイツは。
「好きとかそういう問題じゃないだろ。何が悲しゅうて空想みたいな存在を好きにならなきゃならないんだよ」
同情してしまったというのは内緒。
「何だよ、夢がないなあお前は」
「年中妄想という名の夢を見てるお前には言われたくない」
断っておくと、隆は結構なエロゲオタクだ。15,6歳なのにエロゲをやってるというのは……まぁ、公然の秘密と言うことにしておこう。どっかの泉こなたもやってたし。
そんなわけで、俺もちょこっとオタクの道に踏み込んだりしている。奴の汚染力は半端無いのだ。だって、次から次へと「これ面白い」「これやってみろ」って持ってくるんだぜ? しかもイチオシのものばかりだから、実際面白くないはずがない。そりゃ感染するわ。
だが、エロゲにまではまだ手を出していないと断言しておく。
「だってよぉ、これはもう運命だと思うよ? きっともうすぐお前はリルカちゃんと出会って、そこから色んなストーリーが始まるんだよ。俺が言うんだから間違いないに決まってる」
「分かったから少しだまれ。それと、お前の存在が間違ってる時点で信憑性なんてものはないぞ」
「なんだよー、いけずぅ」
「やめんか気持ち悪い」
下らないを通り越して頭が悪すぎるやり取りをしていると、にわかに教室の中が騒がしくなった。何事かと俺は周りを見回してみる。
「お……おい、あれ、見ろよ」
隆が教室の入り口の方を指さして言った。俺はそっちを見てみると――
絶句した。
そこにいたのは、フリフリの服にヘッドドレス――いわゆるメイド服をまとった女性――いや、少女だった。更に驚くことに、腰ほどもある長い金髪をきらびやかになびかせ、瞳の色は透き通るように青い。どんな写真でも見たことがないような、まさしく空想を体現したような姿だ。
そして、言葉を失うほどに美人だった。美しさの中にあどけなさを残しているような、そんな印象を与えている。年の頃は俺たちとさして変わらないように思える。ちょっと幼いせいで服に着られているという印象も無くはないが、それでも綺麗だった。
場違いにも程があるような存在だ。
「生きてて良かった……俺、もう死んでもいい」
そんなことを呟いたのは隆。お前、そんなことでいいのか。
俺がため息をつくと、隆が抗議の声を上げる。
「だって、金髪メイドだぞ!? しかも超絶が付いても足りないほどに美人なんだぞ!? 萌えの究極系なんだぞ!?」
「分かったから離れろ鬱陶しい。それと、まず疑問を抱けお前は」
ざわめく教室の中を少女は歩いていた。まさか、誰かの知り合いにこんな娘がいるのか?
しかしどう見たって日本人じゃないんだし、そんな知り合いがいるなんて聞いたことがない。
あれか、隆の妄想が極まって現実に出現してしまったとかそういうやつか。
……そんなことを考えてしまう時点で俺も大概ダメだな。
少女はあたりを見回し……また歩いた。
そして、俺の横で足を止めた。まさかと思い、ドクンと俺の心臓が一際高く鼓動する。
「お迎えにあがりました、白亜様」
何を言っているのか分からなかった。状況が飲み込めず、口の中がカラカラに乾いていくのが実感できる。
周りはもうざわざわなんてレベルじゃない。きゃーきゃーわーわーといった騒音のレベルだ。俺に関して何を言われているのか、正直想像したくない。
しかもなんだ、白亜"様"? 俺を様付けで呼ぶなんて、何なんだ君は?
メイドに知り合いがいるなんて寡聞にして知らないぞ。
「――君、は?」
「私、イリス=デア=ラングートと申します。今日から白亜様の付き人をつとめさせていただくことになりました。どうか、お見知りおきを」
そう言うと、イリスと名乗った少女はスカートの裾を両手でつまんで片足を後ろに下げ、頭を下げた。まさか現実にこの仕草を見ることになろうとは。
それにしても、流暢な日本語だった。俺は生まれてこの方、ここまで見事な日本語を話す外国人を見たことがない。むしろ、そこら辺の日本人より上手い。暖かみを感じさせるというか。
「は、はははははくはくはくあ、お、おおおおおおまおまおまえ一体――」
言葉にならない言葉を吐きだしているのは隆。ダメだこいつ、完璧に混乱してる。ていうか、混乱したいのは俺だよ。ある意味泣きたい。
これは何だ、新手のナンパか何か? それともドッキリか? あるいは罰ゲームか?
「付き人って、一体――」
俺の言葉に、イリスは微笑んだ。
「詳しいお話は後ほど致します。ここは落ち着きませんし、そうですね……どこか喫茶店にでも参りませんか?」
いや、俺このあと午後の授業があるんですけど。サボれってことですか。
しかし今の俺にとって、サボるのサボらないのということは正直どうでも良くなっていた。突然飛び込んできた非日常の正体を解明しないことには、何も手に付かないっての。
好奇心は猫を殺すが、人間は殺さない。
「え……と。ああ、分かった」
今の俺には、そう返事をするのが精一杯。
「ありがとうございます。それでは、参りましょう」
イリスが歩き出す。俺は食べかけの弁当をそのままに鞄だけを持って、歩き出したイリスの後をついて行った。ざわめく騒音と突き刺さるような視線が痛い。痛すぎる。うぅ、あまり目立たないように意識して過ごしてきたのに。さらば俺の平凡ハイスクールライフ。こんにちは俺のストレンジハイスクールライフ。
こうして、俺は人生ではじめて学校をサボることになったのだった。