クリスマスで君と
その日はいつにも増して起きるのが辛かった。
カーテンからはうっすら光が滲み出ていて、雀の声が聴こえる。
午前6時。薄暗い部屋の中でベッドから這い出でる。
部屋を出て廊下を歩き、肌寒い感覚をぶるぶるとふるい落とす。
キッチンに入るとドアを開けた音が響く。
まるで時が止まっていたかのようなそこは、その音でやっとそれが動き出したような気がした。
電子レンジや炊飯器が並ぶ棚からナイロン袋を探し出して漁る。
確か昨日買ったくるみパンがあったのだ。
予想通りにそれはあり、手に取った後間髪入れずに袋を開ける。
このパンは電子レンジでチンして食べるのが普通だがこのままでもいける。
むちゃむちゃと口の中で音を立てて食べながら、次はコップを取るために食器棚の扉を開く。
俺が手に取ったのは、透き通った緑色のガラス製のコップだ。
コップと言うより、グラスと言った方が適当なのだろうか。
どうでもいいような事で迷ったりしながら冷蔵庫の中を覗く。
牛乳パックを取り出して注ぎ口を開き、例のグラスにトクトクと静かに音を立てて注いでいく。
このグラスは俺の大のお気に入りで、修学旅行に行った時に購入したものである。
名前は忘れてしまったが、一緒に食べたドーナッツに似たあの菓子も美味しかったな。
暗い洞窟に入ったっけ。
その時に君が近くにいたね。ふと手が触れた時には、洞窟の説明なんて頭に入らなかったよ。
考えるのをやめて、パンを咀嚼し嚥下する。
グラスを持ち上げ、今度は牛乳を口に注ぐ。
このくるみパンは美味しいけど、口に残るのが苦痛だ。
牛乳で流し込んでしまえば、それも無いのだけれど。
洗面所に行き、軽くうがいをする。
鏡に映る自分はげっそりしている。こんな引きこもりに相応しい顔だ。
心の中で自分に向かって毒を吐いて背を向けた。
これは毎日やっている事だ。
誰よりも自分のことを知っている人に、責められるのが何よりも自分の心を癒す事を知ったのだ。
俺は、相応の罰を受けているぞ。あの日の自分よ。
部屋でソシャゲに耽ける。
からっぽの時間だ。そして、そのからっぽの時間が大好きだ。
その時だけ、何もかも気にせずにいられるから。
【メリークリスマス。お祝いのメール!】
ゲーム内で運営からメールが届いていた。
今日は12月24日。何の日かは言わずもがなである。
プレゼントを受け取り、その中にガチャ石があったので直ぐにまわした。
ハズレである。
別段、自分の推してるキャラがピックアップされていた訳では無いし。衣装が出ている訳でもない。悔しがることもなかった。
しかし、仮にそう出なかったとしても。
やはり俺は悔しがることはなかっただろう。
次に腹の虫が鳴ったのは午後2時。
再びキッチンに降り立ち、いつの間にか炊かれていた炊飯器のご飯を、いつの間にか置かれていたお椀に入れる。
冷蔵庫から卵と醤油を取り出し適当に混ぜる。
卵かけご飯をずるると口に吸い込み食事完了だ。
洗面台に向かい歯を磨いて寝癖をなおした。
今夜食べるためのお菓子を買いに行くのだ。
灰色のパーカーを着込んで、黒いジャージズボンを履く。
近くのコンビニなので靴はクロックスだ。
街は予想通りにクリスマスに浸っていた。
まるでサンタクロースが贈り物として楽しげな雰囲気を撒いて行ったかのようだ。
未だに慣れないマスクを唇で弄びながら足を動かす。
物凄い寒さのせいで既に耳の感覚がない。
それなのに周りの人達は皆楽しそうだったり嬉しげだったりするので何とも奇妙なものだ。
また今度、耳あてを注文する事を固く誓ってコンビニの中に入っていく。
中には数人の人がいた。やはり幸せそうだ。
5歳くらいの子を連れた母親は、お菓子コーナーで子にお菓子を選ばせていた。戦隊モノのチョコレートを手に取る子を見て顔を綻ばせていた。
それを横目にジュースコーナーに行き、エナジードリンクを数本取って近くの置き場からカゴを取ってその中に入れた。
ポテトチップスと、インスタントラーメン。あとはおにぎりを放り込みレジに向かう。
レジの前では一組のカップルがいた。
鮮明に会話が聞き取れた。
「味しみ卵美味しそー。」
「おっさんかて。俺は大根。」
「卵は誰でも食べますー。というかお前もおでんにすんのかいっ!」
じゃれ合う2人はどちらも破顔している。
羨ましかった。
精算機で支払いを済ませて、足早にコンビニを出た。
子供も、彼氏も、幸せそうにしていた。
帰りながらふと昔のことを考える。
あの時、もっと早く決断していたら。
君に想いを伝えられていたでしょうか。
君に、想いを伝えようと誓った日から、
君に、想いを伝えることを諦めた日まで、
その年月がとても昔のように感じられるんです。
もう、昔の恋になりかけている。
思い出になりかけている。
あの時伝えればよかった。
修学旅行で手が触れ合ったあの時から、君が好きでした。
言い訳がしたかった。
修学旅行の後で君が居なくなるだなんて知らなかった。
引越しだなんて、そんな陳腐な理由で、在り来りな展開で、想いを伝えられないままになるだなんて。
空に線を引く飛行機を見て、涙が流れるのを抑える。
枯れてもおかしくないほど涙を流したのに、やはり涙は枯れずに流れ続けるのだ。
自分の暗い気持ちとは裏腹に、辺りはうるさいぐらい明るかった。
気づいたら、夜になっていた。
無気力感、無力感。去年のこの日に、君を探し出すのを諦めた。
その事実が心に冷たい氷柱のようになって突き刺さる。
それが抜けもしないまま一年を過ごした。
テレビをつける。
芸能人も皆明るく振舞っている。
この日にこんなにも暗い気持ちになるのは、自分だけじゃないだろうか。
そう思ってから、ふっと鼻で笑って訂正する。
そんな訳が無い。きっと自分より悲しい思いをしてる人は他に居る。自分なんかが1番を騙るなどと、よくもまあ烏滸がましい事を考えられたものだ。
自分には、救いも懲罰を必要ないのだ。
否、欲しくないのだ。
もう、誰にも逢いたくないのだ。
俺の中には今でも、君しか居ない。あの時からずっと。
君と僕しか、見えない。
スマホが電話を受け取った。
騒がしい音を立てて冷たい虚無が広がる部屋に響く。
画面を見る。
君の名前だった。
『もしもし、久しぶり…だよね。』
即ボタンを押して電話に出る。
聞きたいこと、言いたいことがいっぱいある。
『そうね。久しぶり。』
『あの、俺の事覚えてたり…する?』
鼓動の音がうるさい。血管の動く音が、空気のつんざくような音が。とても煩わしく感じられた。
『○○君、であってるよね?』
『…!』
君は俺を覚えてくれていた。それだけで俺は、勇気を得た。あの時とは違った。
『言いたいことが、あるんだ。』
どうやって伝えるべきか。
君に逢いたかった?君に恋をしていた?君が好きだった?
『私も…あるよ。今、伝えたいこと。』
………
『私から、言っていいかな?』
『………』
肝心な所ではこの有様なのか。変わったと思っていたが、人間根底は変えられないのかもしれない。
『私、君のこと好きだよ。』
………
『は?』
『うん、大好き。今も昔も、ずっと。』
正直、もはや訳が分からない。
まるで今まで凍りついていた数年が、一気に溶けていったかのようだ。
恋を過去にするのも、思い出にしないのも、全てはその人次第であるのだ。
『俺も…』
伝えるべきことは山ほどある。でも、まずは一言。
言いたくても言えなかった。
君を今でも好きだって事。
『ずっと、好きだよ。大好きだ。』
頬を伝う涙は止められることなく延々と流れ続ける。
この涙が、またいつ流れるのか分からない。
明日かもしれないし、もう流れないのかもしれない。
そんな不確定な未来を、自分は確かに歩いていく。
もし、自分が再び涙を流す時。自分はこの時のことを思い出すだろう。
過去のしがらみから解かれて、全てに対する前向きな気持ちが溢れ出ている。
でも、その気持ちの根源はたった一つ。
また逢えて嬉しい。
クリスマスで、君と。