③
「ねぇ、抱いてよ。もっといやらしくしてよ。そんなのじゃ満足できないの。もっと深く愛してよ。私の中から壊してよ。そしてあなたので埋めてよ。」
「うん。」
「いつもそうじゃん。あなたは私のことなんて何一つ分かってない。分かろうとしてないの。私は1人なの。ほら、はやくちょうだい。私の中にちょうだい。」
「寂しいの?」
「別に寂しいわけじゃない。何かに満たされていたいだけ。それは何でもいいの。でも何でもいいわけでもないの。」
「よく分からない。」
「分かろうとしてないだけでしょ?あなたは全て自分の中で完結させる。何もかも。そこに誰かの居場所はほとんどない。違う?」
「そんなことはないよ。」
「そう。もうどうでもいいわ。早く抱いてよ。」
朝から騒がしいスマートフォンの音で僕は目を覚ました。なんだか変な汗をかいていた。
“9時半に駅前だよ!遅刻厳禁だよ!”
咲と鎌倉に行く日だ。スマートフォンの上の方に目をやる。8時11分。危なかったと思った。あと20分寝ていたら間違いなく遅刻していたはずだ。そうなると咲は今日少なくとも午前中は拗ねる。ただ拗ねてる咲は可愛いと思う。だからといってわざと意地悪をしたりはしないのだが。
9時18分。僕は駅前に着いた。約束までまた10分少しあることを確認して、喫煙所に向かった。蓋の閉まりが緩まったジッポを開けてタバコに火をつける。煙は僕の体の中と空気の中に流れる。火をつけて吸うまでは一つだった彼らはそれぞれ違う運命を辿るように離れ離れになっていく。ラッキーストライク。今まで何も考えず吸っていたタバコの名前が少し気になった。「大当たり」という意味らしい。便利だと思った。何か気になったらスマートフォンに打ち込むだけでいい。分かることと分からないことの差はこの時代ほとんどないのだ。それは知の死とも言うのだろうか。知っていることよりも発想が出てくることを重視するようになった時代。便利になると同時に才能がないものは去れという時代。それは幸せになったと言えるのだろうか。よく分からない。しかしそういうものだと言ってしまえばそれまでなのだろう。相変わらず煙は何処にでも行ける自由に縛られたように漂っていた。
咲がこっちを見て聞いてくる。
「どこに行くの?」
「鶴岡八幡宮に行きたい」
「どうして?」
「落ち着いてて好き。」
「わかったよ、じゃあそうしようね。」
鶴岡八幡宮にある名前の知らない池の前で鯉を見ていると気持ちが落ち着く。彼らにとってはこの池自体が世界で、その外は外界の何かなのだ。ぼんやりと鯉たちを眺めていると僕は隣に咲がいることも忘れそうになる。高校生の頃、俗に言う自称進学校に通っていた僕は特にやることもないので勉強をしていた。すごく規則的だった。意地でも毎日4時間は勉強した。何があそこまで僕を突き動かしていたのか今になっては分からない。ただそれで充実していると感じていたのだ。高校1年生の頃では手が届くどころか志望することさえ届かないような大学にも手がかかりそうになっていた。結局色々あって、かなり余裕があった今の大学に合格した。残酷だと思う。努力をした結果、本来見えるはずがないものまで見えてしまう。そして十分納得できたはずの選択肢がなぜか物足りない気がしてしまう。幸福とはやはり相対性なのじゃないかと思った。
「拓海?聞いてる?」
「あぁ、聞いてるよ」
「お昼ご飯どうする?」
「駅の近くに何かあるかな?行ってみる?」
「そうだね、そうする。」
散々悩んだあげく、僕たちは適当に見つけた蕎麦屋に入り、昼食を取った。まだ1時半を過ぎたあたりである。鎌倉に来たら紅谷のくるみっ子だけは絶対買って帰る。これはもはや僕のルールでさえある。咲にそのことを話すと、美味しそうと言った。とりあえず僕たちはくるみっ子を買うために紅谷に向かった。
「美味しいね、これ。」
「だよね、いつも買っちゃう。」
「でも、拓海そんなに鎌倉来ないでしょ?なんで知ってるの?」
「地元の友達が昔買ってきてくれたんだ。だから知ってる。懐かしさも感じる。」
「なんかいいなぁ。」
「どうして?」
「私は実家暮らしじゃん?友達に対する懐かしさとかまだあんまりないの。だって会おうと思えばすぐに会えるからね。」
「それもそうだね。」
僕たちはその後鎌倉を適当に散策し、特にやることもなかったので帰ることにした。咲にとって今日はどんな一日だったのだろう。幸せだっただろうか。普段笑顔で全てを隠している彼女の裏にどんな塊があるのか見てみたい。人間は誰だってそういった黒い石のようなものを心に置いて生きているのだ。投げ捨てようにも重たくて持ち上がらない。持ち上げると次はその色が自分に移ってしまう。そういった油汚れのようなものなのだ。何かを作った後にコンロに残る油汚れ。何かがあった証拠、僕たちが僕たちである証拠だ。
「じゃあまたね。」
「うん、また。」
「楽しかったよ。」
「僕も」
「バイバイ」
「バイバイ」
咲と分かれた僕は足早に家に向かって歩いた。