①
「来週の授業は休講にします。よろしくお願いします。」
ボートレースの公式サイトを意味もなくあてもなく眺めていた僕はその言葉にだけ反応した。全く興味がない経済学のよくわからない授業を単位のためだけ受講したことを後悔している。 横で一緒に受けている咲が僕の方を向いて言う。
「来週休みとかめっちゃラッキーじゃん」
「そうだね」
休講になるということは来週の月曜日がなにもなくなることを意味する。正直なところ授業があった方がいいとさえ思った。どうせ一日中家で寝ているだけになる。
「拓海、来週月曜バイトもないんでしょ?」
「ないけど、どうして?」
「私3限切るから、どっか行こうよ」
「わかったよ」
「じゃあ私友達とご飯行くからまたね」
「うん」
僕は授業を休むという行動があまり好きではない。自分では払えないようなお金を払ってもらって授業を受けているのに、それを無駄にしているような気がしてしまう。咲はよく簡単に授業を休めるなと感心さえする。とは言っても授業中、ずっとスマートフォンをいじっているだけではあるのだが。
大学に入って2年と半年。気づいたら3年生の10月になっていた。この時期の大きな話題は就職活動である。夏にはインターンに行ってる友達もたくさんいて、あの仕事は大変そうとかこの仕事は面白そうとか感想会が繰り広げられていた。そんな周りに流されて就活サイトに登録したものの、特に動くわけでもなく、いつも通りの生活を送る。なるようになる。そんな風に思っている。咲が友達と合流し、1人になった僕はまだバイトまで時間があるので、駅前の牛丼屋に1人で向かった。
牛丼といえばすき家だった時期があった。これは僕の地元が福井で、すき家が多かったからだ。東京で一人暮らしを始めて、松屋の多さに驚いた。福井で見たことある松屋は1店舗だけだったのだ。東京に来てからというもの、松屋ばかりになった。もちろん今も松屋に来ている。券売機システムがものすごく気に入っているのだ。店員との会話は一切する必要がない。それに値段も高くない。大学生にとっては最高の味方だと思う。
スマートフォンとイヤホンを繋ぎ、僕は音楽を聴き始めた。ここ数年bluetoothのイヤホンが主流になり、顎の下でコードが絡まることは無くなった。昔のようにCDをTSUTAYAまで借りに行き、パソコンに保存する必要もなくなり、音楽アプリに月数百円払うだけで大体の音楽は聴けるようになった。便利だなと思う。しかしそれと同時に寂しさも込み上げてくるのだった。5枚のアルバムを借りるのに1000円かかった時代。その頃は目の前にある無数のアルバムの中から5枚を見つけ出して借りていた。時にはTSUTAYAに行く何週間も前から予定を立てていたことさえあった。それでも人気のあるアルバムは全て貸し出されていて、借りれないことさえあった。その度に世間では何が流行っているのか身をもって体感していた。なんとなくこの時代にカリスマが生まれないことが分かった気がする。ニーチェは神は死んだと言った。そしてその名を残した。しかし次はそんな大衆のカリスマが死のうとしている。牛めしを食べ終えた僕はまだバイトまで1時間あるが、特にすることもないので歩いてバイトに向かうことにした。
東京の外れ、神奈川との県境にあるこの街は時に本当に東京なのかと感じることがある。ただ唯一綺麗に整備された歩道は住み始めた時から好きだ。歩道の両端にはたくさんの木が植えてあり、階段には時に猫たちが集会をしている。僕は少し暇な時間があると、ゆっくりバイトまでの道を遠回りしながら歩いていた。異常気象のせいなのか、10月の中旬にも関東に台風がやってくることが増えた気がする。土曜日に関東を通過した台風によって、ばらまかれた落ち葉たちが秋の肌寒い風によってあちらこちらへと忙しなく動いていた。ネット社会の発達によってすっかりテレビを見ることがなくなった僕は、今回の台風が来ることもネットで知った。Twitterでは養生テープを窓ガラスに貼ると散乱が防げると騒がれており、ホームセンターでは多くの養生テープが売り切れになっていたらしい。バイト先のスーパーでも先週の金曜日は客が多く、いつもの倍近い売り上げだった。きっと今日も客が多いだろう。憂鬱な気持ちになる。結局先週の台風も大したことなく、停電もなければ断水もなかった。結果論と言えばそれまでだが、それにしてもあんなに納豆や牛乳を買って何になるのだろうかと思った。電気が止まれば納豆も牛乳も腐る気がする。そんなことは気にしないのだろう。一種のお祭りと同じなのかもしれない。
「田中君?あぁ、田中君、お疲れ様。」
名前を呼ばれたので誰かと思って振り向くと、パートのおばさんが歩いていた。
「あぁ、お疲れ様です。」
「今から仕事なの?」
「そうです」
「そっか、頑張ってね」
意味があるのかないのかよく分からない会話は秒数にすると10秒足らずで終わった。おばさんの名前は正直に言うとよく分からない。ただ挨拶された以上、無視するわけにもいかないのである。僕はゆっくりと歩きながら、視界に入ってきたスーパーに向かって行った。
「お、来た来た、今日も早いね。」
チーフの尾崎さんが僕を見て話しかける。
「やることないので。お客さん多いですか?」
「まぁまぁ多いね。本当に嫌になるよ。」
「ですよね。頑張ります。」
18時から22時までの4時間のアルバイト。友達たちはバイトがめんどくさいとか行きたくないとかよく言っているが、僕はこの4時間が嫌いじゃない。大学1年生のとき先輩に誘われてもう2年以上続けている。最初の頃はなかなか早く出来ず、たくさん迷惑をかけていたが、今では仕事も完全に覚えてたまに社員の仕事さえこなしている。この4時間は何も余計なことを考えず、どのように動いたら仕事が終わるかだけを考えていられる。だから好きなのだ。それに居心地も悪くない。廃棄の寿司や弁当も貰える。もちろんそのことはあまり知られてはいけないことではあるのだが。ふと目の前を見るとパートの清水さんが僕に話しかけてきた。
「お、タナちゃん。今日も頼んだよ。」
「はい。頑張ります。」
僕は今年40になった清水さんが好きだ。二回り離れて父との年齢の方が近いおじさんだが、入った時からすごく親切に面倒を見てくれた。今では毎週金曜日、仕事の後にラーメンに連れて行ってくれる。中学を卒業した後、すぐにスーパーの店員になった清水さん。僕とは全く違う人生を歩んでいる。時にどんな人生だったのだろうと考える。いまだ独身だが、別に寂しそうでもないし、趣味も特にないらしい。それでもいつも頑張ってると僕から見ても思う。あんな人生もあったんじゃないかとさえ思う。とても特殊な人な気がした。僕の周りは良くも悪くも頭の良い高校に行き、そこそこの大学に行き、そしてそこそこの会社に就職するという人生を歩む人が多い。だから新鮮な気がするのかもしれない。もちろん清水さんのような人はきっと世の中にそれこそたくさんいる。Twitterで調べれば本当に実感する。しかしそれは画面の向こうの世界で、芸能界みたいなものだ。こんな時代だからこそきっと手触りが意味を持つとすら思う。僕は出勤時刻になったのを確認してタイムカードを切り、黙々と品出しを始めた。