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「誰あれ、島の職員の人?」
明日香の問いに、ああ、と私は答えた。私が振り返ると、「また会えるといいね」と明日香は微笑んだ。その微笑みの視界の隅で、一瞬美菜が不敵に笑ったように見えた。思わず視線を移すが、そこには楽しそうに美菜に話しかける桑原の姿と、それに順応する美菜の姿があった。
気のせいだ。
「なんだか明日香たち仲が深まったみたいだね」
誰もがそう思うだろう。朝の暗い雰囲気はもう漂ってはいなかった。桑原が楽し気に話していた。
「まあなんだかんだ言って人間の仲なんてそんなもんでしょ。一度は喧嘩したとしても、ずっとその状態って訳にもね。やっぱりどんなときもいい雰囲気で友達と接したいのは当り前じゃん?」
そう言って明日香は桑原と相澤、美菜と紗江の方へと顎をしゃくった。私はもう一度そちらの方を見て感心してしまう。誰も喧嘩なんかしたくてするのではない。仲がいいからこそ、これからも生活の一片として友人がいるからこそ、現状を曖昧にしておきたくないのだ。友人だからこそ思うがままの感情をさらけ出すことができる。無関心ではないのだ。そんな言いあえる姿がなんとも羨ましく思えてしまう。
「だからさ、正直新平のことはカチンときたけど、まあよく考えればあいつの性格って前からそんな感じだったし、そこまで怒ることでもなかったなって今じゃちょっと反省してる」
「明日香は大人だね」
「そんなことないよ。私から見れば奏太くんの方がよっぽど大人に見える。まあ、まだ許した訳じゃないけど……」
話の流れが私の方へ移ってしまいそうだったので、慌てて話題を変えた。それを明日香が察したのかはわからない。でも、こんなに優しい人だったのだと、彼女を知れたような気になれた。一時の行動や言動につられて、そういう人なのだと思ってしまう。彼女が送ってきた人生と比べれば、そんなのはごく一部分でしかないというのに。そのときになってやっと気がつく。
一番現状を曖昧にしていたのは私であった。明日香たちの作ろうとしている友情を壊しているのが自分自身の行いからのように思えた。喧嘩して、反省して、許す。私はまだ、この過程の「喧嘩」すらも成立させていないのだ。思いを打ち明けたのは明日香だけ。私は彼女に腹を割って話せていない。なのに彼女は私の想いを聞こうとせず、口を噤んでいつも通り接しようとしてくれている。友達とは仲良く居たいからと、彼女はそう言うのだ。
彼女らの気持ちを踏みにじっているような気分になった。
「おう、武田じゃん。聞いてくれよ。俺らのチームドンケツから二番目らしいぜ。はるばる本州からやって来たっていうのにこりゃないよなあ。相澤がさ、こっちだよこっちだよ、っつーうんだけどさ、そっちに行ったら看板なんて一つも見つからねえだぜ? それでかろうじて最後に俺が見つけてやったおかげでドンケツは免れた!」
「私が方向音痴って言いたいの!?」
「お前、あれだけのことしておいてまだ気づかねえのか。いい加減気づけよ。方、向、音、痴!」
またいつものじゃれ合いが始まっていた。桑原は相澤にケツを一蹴され逃げ回っている。もう一回蹴ってやろうとその後ろを金魚のフンかというほどに追いかける相澤。
「相変わらず仲いいよね。昔からなの?」と美菜が私に聞いて来た。
「ずっとあんな感じかな。大学入った当初ぐらいは二人ともおずおずしてたのになんか不思議だな、やっぱり」
「へえ、想像できない」と明日香。
「私もあんなカップル憧れるなあ」
紗江がそんなことを言った。「あの二人って付き合ってるの?」と続けて聞かれる。
「付き合ってるっていうよりは、もう夫婦だなありゃ」
「紗江ちゃん、桑原君に興味あるんだったら諦めたほうがいいかも」
明日香と美菜は笑いながら紗江の肩を叩きだした。
「もっといい男がいるって、あんなのじゃなくても」
そんな明日香の声がどこまでも響き続けていきそうだった。私が今憧れているのは桑原のような姿だった。それを否定されている。何か言い返さないと。そう思って私が口にした言葉は、
「桑原みたいな奴ってさ、幸せを幸せだと感じ取ってないんだろうな。幸せを求めようとしないで手に入れちゃうんだから羨ましいよ」
「まあそうかもね。案外ああいう奴が幸せになれるんだよ」
「うんそんな気もする」
「ちょっと羨ましいかも」
明日香も、美菜も、紗江も、みんな友達だ。
「じゃあ、あんないつまでも駆けまわってる幸せ者は置いといて、さっさと帰りますか!」
すかすかの私のジグソーパズルに、一つ、大きなピースが埋まった瞬間だった。