*
初めて島に触れた気がした。
我々の泊まる宿はまだ真新しさを取り残している方だった。少し下って民家に差し掛かると、黒い木造の平屋が一棟、二棟。塀を境にもう一棟と、都会では見られない光景が広がっていた。車が通る姿はあまり見られず、どちらかと言うと自転車の方が多く見かけられた。
遊んだ帰りなのか、小学生に声をかけると「こんにちはー!」とあたりまえのように挨拶が返ってくる。自転車で颯爽と通り過ぎようとする女子中学生でさえ、「お疲れ様でーす」と工事の業者と間違えたのかそんな言葉をくれた。
見知らぬ我々に挨拶をしてくれたというだけで、島の住民にでもなったように錯覚した。
海がだだっ広く見える、原っぱに面した道路を歩いていった。抜けると、そこにはまた民家が見えた。
「誰か探してるのか?」と唐突に首藤が言った。
「うん。ちょっとね」と曖昧さを残しながら、首藤に気にかけてもらっている時間がもう少し伸びればいいと思った。だが、私はただアスファルトの上を歩くだけだった。「人を探してるなら、どうして家の中まで行かないのか」と首藤に問われても、「また今度でいいかなって」と結局目的を達成し損ねる人の典型思考。
怖かったのだ。
千紘のことを覚えているのか。千紘の顔は少なからず変わっている。もうすでに見逃しているかもしれないのだ。自信がなかったのだ。
首藤は黙ってついてきてくれていた。私が口を噤んでも、そのことに対して深く追求してこない。その黙っているということに対しては。
「待ってる人の気持ちってわかるか?」
不思議な質問だった。
私は質問の意味を理解しないままに顔を左右に振る。
「まあ難しいんだよな。相手は待ってくれているかわからないんだし。でももし、待っていてくれるとしたら。そいつは来るかもわからないような人間をどうやって待っているんだろうな。俺には理解できん」
首藤は眉を曲げて見せた。
「首藤には待ってくれている人がいるの?」
「どうだろうな。俺みたいな人間を待っててくれる人なんて」
首藤は空を仰いだ。
首藤の口から出た悲観的な言葉は、陳腐な言い回しに聞こえた。高校の頃から事あるごとに「家に帰りたい、さっさと帰りたい」と教室の机で嘆いていた首藤。ぷーであるにもかかわらず、そのことを自分では意識されていないんだろうなと思った記憶もあった。だが、今の首藤の言葉は滅多にない言い回しな気がしたのだ。その違和感の正体は、首藤の口からその言葉が発されることを私は望んでいなかった、ということなのだと思う。首藤には冷徹でいて欲しかったのだ。
首藤のことを以前から、人間のありふれた感覚に振り回されない、感情を捨てた人間である、と思っていた。私の感情論を彼に投げつけても、いとも簡単に叱咤できる存在であることで、私は彼をよりどころにしていたのも事実だった。
なのに……。
私と比較して首藤のことを雲の上の存在だと思っていたのにもかかわらず、今の発言で首藤は私と同じ土俵に落ちてきてしまったではないか。
それでも……。
人の姿。心のありどころ。どうしてこんなにも私は感情的なのだろうと思えてしまう。過去の足跡を辿って、他人と自分を比較する。なかったことにしたいと思っていた過去は、途端に価値が見出される。
首藤の言葉は、私に対して言われているも同然だった。「俺みたいな……」という首藤の口調が、私の頭の中で自分が言っているように変換されて反芻される。
「首藤は大丈夫だよ」
「根拠なさすぎ」
戯けて、首藤はそう言うんだ。
これじゃまるでどこにでもいる友人だ。ますます首藤の印象が、偶像が崩れていった。それは私が望んでいたことではないと断言できるはずなのに、どうも自分の心の高ぶりを制御できなくなっていた。
もう民家は抜けてしまう。探そうと思って民家に入ったのはいいものの、家の中に立ち入ることはない。インターホンも押さない。「千紘さんいますかー」なんて声掛けは以ての外。すぐ隣の塀の向こうの家。奥から聞こえる音や話し声に耳を澄ませるだけ。当然千紘の声は聞こえない。声すらも忘れてしまったのかもしれない。
それなりに話したであろう千紘の声は、今も尚、私の頭で復元することはできる。だが、自信がなかったのは言うまでもない。久々に聞いたその声の正体が千紘だった、なんて思えずに、ありふれたその声の正体が実は千紘だった、という懸念が浮かんで止まない。
民家はもう抜けた。原っぱ、広く青い平野が一本のアスファルトを介して両側に広がっている。その光景の道を、数分の間歩いた。
「帰ろうか」
「ああ」
首藤は立った二文字で返答する。