*
数日前に電話をかけてきたボスの顔が浮かんできた。
「悪い」
ボスのその一言ですべての辻褄はあってしまった。前々から頭の片隅に置いていた余念たちが皆、手を繋ぎだした。
もう二度とかかって来ることもないであろう電話は躊躇なく切られたので、私はすぐにオフィスに向かった。しかし、ついたときにはすでに、その雑居ビルの二階はもぬけの殻だった。
トンずら。
やっぱり何か悪いことに手を染めていたみたいだった。売春や風俗のことはよく知らないのでわからない。ボスの口からは聞いていないので、法に触れることだとか悪いことだとかも正直よくわからない。「やばくなってきたから火種が広まる前にトンずらをこく」、そうだった。倒産なのか破綻なのか。一応火種はすべて消したみたいだった。元々情報を外部に漏らさないように、私にさえ細かな情報を教えてくれなかったぐらいなので、その辺は納得している。
そして、意外にも儲けがそれなりにあったということも含めて、ボスは仕事を辞める決心がついたようだった。
「こういうときのためにすべてを隠してきたんだ。お前の情報も洩れない。俺にはお前の情報を流したところで利益がないからな。おまけにソウタも俺のことを細かく知らない。名前だって知らないだろう?
うぃんうぃんだ。
所詮雇用主と雇用者の関係だ。友達でも家族でも深い繋がりがある訳でも何でもない。まあでも、お前みたいに話がいのある輩はそうそういるもんじゃねえが、それでももうお前と会うことはねえだろうな。ソウタ。これも偽の名前なんだろうが、俺結構お前のことが好きだったんだよ。内心読みあってる感じとかさ。でももう会わねえ。これが何を意味するかわかるか?
人が大好きなものを失うとき。故意に失うんだよ。大事なものを自分から捨てるときの感情ってわかるか? 性癖が社会に出る足枷になって、それを外さざるを得ない状況。誰しも本当は自分のことが好きなはずなのに……整形をする人。
何が悪いと思う?
社会か?
貞操か?
風習か?
レッテルか?
スティグマか?
いいや違う。
嘘だと思っていたことが真実になるんだ。
もっと大事なもんがあるだろう。
もっと確かめなきゃならないことがあるだろう。
興味を示すのは本当はどうでもいいことで、承認欲求に促された、ただ言ってみたいだけって感情。優しさを振りまいてた人間が、社会が忌み嫌う疑わしいことを言ったとしたら手のひらを返せるか? お前たちがこれまで見てきたものはなんだったんだ? 感じてきたのは何だ?
失望? そんなのは裏切られたときにするもんだ。裏切られてもいないのに『こいつはこういう性格だったのか』ってそれは失望じゃないだろう。解釈がおかしいんだよ。それが人間なんだよ。自分の行動の真意は気がつけないことの方が多いが、何も見えてないよ君たち。それらしいことを主張してるだけ。何もわかってない」
ボスの声が、あのときの電話が、一気に私の頭に流れた。
「純愛は悪いことじゃねえんだ。偽造の愛から始まる愛だってそこに純潔と二人の思う気持ちがあれば、それは正しい。俺が好きだったのはな、そうやって垢抜けない女たちが垢抜けた女に見える瞬間だった。その過程が好きだったんだ。成長を傍から眺めるのがな。本当は結果がすべてなはずなのに、俺は誰かの過程を見ているのが好きだった。それはソウタ、お前も薄々気づいていたことなんじゃないのか?」
追い打ちをかけるようにボスの声が、煙草の先端から不規則且つ規則的に渦を巻く煙のような私の心に囁いた。
今まで偽造の恋人だった女性たち。嘘でも私を愛してくれていた。私を求めてくれていた。いつかこのまま余生を共に暮らすのではないかという未来が過った。それは多分嘘じゃなかった。
人間は変わる。いいようにも悪いようにも。生まれた場所で咲き乱れようと、咲き誇ろうと自分を綾なしていく。スタートラインのステータスは皆それぞれ違えども、いつか一対象にとって上振れすることを望んで様々な美徳を自分に刷り込ませていく。
それを一番拒絶していたのは、私だった。関係と期待を壊していたのも私だった。馬鹿だったのだ。