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「ま、待ってよ!」
「まだ何か?」
明日香の顔は酷く歪んでいた。怒りさえ感じられる表情なのだが、私はまだ期待しているようだ。その歪んだ顔が泣きそうな顔に見えてしまう。
必死に止めたのだ、このときの私は。なぜだろう。階段を降りる明日香の肩を必死に掴もうとし、掴み、解かれ、それでもなおしつこく肩を掴もうとする私に、彼女も嫌気がさしてきたようだった。
「いい加減にしてよ」
揉み合いながら玄関の外に出たとき、彼女の掌が私の頬を捉えたのがわかった。じんじんと伝わる熱さのようなものが、私の頬の血色を腐敗させる。
空は白かった。暗い夜は神様がどかしてくれたみたいだ。暗闇で殴られていたら、彼女の顔なんて見えない。見えないから本当の彼女の表情を知れない。疑えない。だから信じる。希望が残る。まだ私に縋ってくれるのではないかと。
凍える涼しさが、私の頬を嫌に解凍していった。
明日香が本気で私の頬をひっぱたくまで、それは彼女の演技なのではないかとどこかで疑っていたなんて、私はたいそう愚かな人間である。しかも、ひっぱたかれても尚、まだその期待を自分の中から葬れないでいる。
「なんで素直にならないのよ。私が好きだって言ってるんだから、あなたもそう言えばいいじゃない! それとも何? 私のこと嫌いな訳? あんなにキスしといて? 人を弄ぶのもいい加減にしてよ!」
彼女は車の運転席に乗った。聴きなれたエンジン音が響く。横顔、横顔、と私は必死に彼女の去って行く姿を見ようとした。彼女が出ていくのを止めるのではなく、止めることを忘れて、その横顔が、さっきの部屋を出ていくときの顔と変化しているのか、それだけが知りたかった。
フロントガラスに透けて見える彼女の緑がかった表情。ハンドルに手をやる。車は動き出す。
否応なしに、目尻に水滴を乗せながら彼女は颯爽と去って行った。
そう見えたんだ。
ミナトの顔が浮かぶ。幾度となくキスをした。あなたも泣きたかったのだろうか。泣かないだけで、明日香と同じことを思っていたのだろうか。
泣かせるところまで感情を表面に出させなければ、私は他人の感情がわからないらしい。泣かせてもわからないというのが正直だった。
「キスをするから好き? なの? キスもセックスも一方的なエゴと互いの自己満足じゃないの?」
自分の唇が真赤に燃えている様だった。
だって、
彼女が私のことを好いているなんて、これっぽっちも思っていなかったのだから。