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「そんなことないと思うよ」
唐突な呟きは、私を現実に戻した。泣きそうだった。漫画みたいだった。私の心を読んだかのように明日香は、胸の前で縮こまらせていた両腕を私の首の後ろに回した。
「どこにもいかないでよ」
そう言って身を寄せる。
何度か聞いた、聞き覚えのあるその言葉は、きっと愚かな自分への試練だと思う。
人を好きになるきっかけは、もったいないくらいに転がっていた。それに反応しきれない私は、いつまで経っても愚行を繰り返す。
どこにもいかなきゃいい話なんだ。ミナトだって明日香だってずっと一緒に居ればいいだけの話だった。そうすれば多分愛情を毎日感じられて、そのうち本当の意味で愛を知ることができる。充実した日々を送りながら、愛情が少ししか入っていなかった器をだんだんと満たしていくことができる。人間になれる。なのに私はそうしない。怖くなんかない。でも一緒にはいられない。私を愛そうとしてくれる人がいるのに。一途な君も、容姿端麗なあなたも、私にはもったいないくらいで、輝いて見える。
もう訳がわからん。
「奏太君はどうしたいの?」
重力によってベッドに広がった明日香の髪は、いつも見ていたものではなかった。顔の輪郭がはっきりと見え、
綺麗だったんだ――。
「家、帰りなよ」
私はそんなことを言っていた。
「成人式終わってからろくに寝てないんでしょ? 家に帰って寝たほうがいいよ。千紘のことはありがとう」
私は明日香の手をほどいて、ベッドから立ってしまった。数秒経って明日香もベッドから抜け出し、部屋に置かれていた荷物に手を伸ばした。
そのまま無言の時間は続いた。気まずくなかった。それでいいと思った。矢先。
「そんな言葉が聞きたかったんじゃないのに」
明日香はそう言うんだ。
「そんなんだから千紘が整形なんてするんでしょ! いい加減気づけよ馬鹿」
整形、と発された言葉を置き去りにして、地雷を踏んだときのような追憶が再び私の目の前を流れた。
出ていく明日香の姿が、あのときの千紘に重なって見えた。