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辺りは陽が完全に落ちてしまっていて、低い明かりが点々と路頭を照らす。昼間以上に行き交う人々の声のボリュームは高く、それは遠くから耳をすませば雑音に変わるだろう。
不意に彼女は左に曲がろうとする。まっすぐ進むつもりでいた私はとっさに方向を変え左折した。
「そう言えば、どこ向かってるんだっけ?」
「ん、ホテル」
ん? と不用意すぎて言葉に詰まる。
「え、もう?」
「だって、あそこでアルバイトしてるってことは、武田君こういうの慣れてるんでしょ? 別に良くない? それともおかしい? それとも、あのサングラスの人が言ってたお金払ってるけど絶対服従ではないっていう忠告は今のことを言うのかな?」
増田さんは強気だった。その横顔にはっとさせられる。今までこの仕事で付き合ってきた女性たちも、こんな顔をした人が多かったようなと思い至る。金払って付き合ってるんだから多少は目を瞑れ、自分の言うことを聞け、と言わんばかりの態度だった。
腹の底にたまった泥を洗い流そうとするような、ドロッとした感情の反射。正直迷ったが、「増田さんがいいなら……」と私は増田さんの手を引いた。
人がまばらないわゆるホテル街というところに私たちは入っていた。道は表通りに比べて入り乱れていていて、その角には必ず光る数字と文字の羅列された看板が見えた。
「こういうところでいいの?」
「全然ここで」
全然をつける必要あったかと頭で何回か反芻しているうちに、私を置いて増田さんは早くも中へ入っていく。増田さんこそ慣れているのでは? と考えを改めそうになるのだが、それはやっぱり間違いだったと覆される。
ボタンを押して鍵を受け取り、部屋に行くまではよかった。そこからだった。本当に肝心だったのは。
「あの……どうすればいいんでしたっけ……」
上着を脱いで、向き合って、抱き合う直前までの身体の寄せ合いはそつなくこなしているように見えた彼女だったが、実はそれが、演技、だったということはこんな私にもすぐにわかった。
「別に、そんなに無理しなくても……」
「今しないと、消えちゃう気がするの。なんかよくわかんないんだけど、もう一生武田君と会えない気がして、でも脚は震えるし……」
外はもう日没だ。正直この薄暗い部屋では、増田さんの脚が本当に震えているのかなんて確認できなかった。だが、私は忠実だった。ここは言わば私の土俵だ。公共の場を自分の土俵に変えてしまう人たちみたいに、私はすごくない。元からある土俵ですら輝けないなんて、生きるとか、働く価値を見失いかける。
私は、仕事に忠実だった。
「死ぬまででいいならいくらでも一緒にいてやるよ。それは確かだ」
彼女の柔らかいサラサラな髪。指の間をすり抜ける優しさ。後ろに触れて自分の胸へと優しく押し付ける。鼻を啜ったか、胸の辺りに水気を感じる。しきりに瞬きをしているのがわかる。睫毛がこすれる。前髪がこすれる。声にならない想いが涙と化す。
私は何をお門違いな発言をしたのだろうと、自分の言葉に感慨深く、悩んでしまった。自分もわからない。相手のこともわからない。みぞおちに滴った水は何を含んでいるのだろう。彼女の顔を上から覗いても、確かに私の背中に巻き付く華奢な腕も、泣いて膨らんでしまった前髪も、揺らす頬も、口も、啜る音も、小刻みに揺れる身体も全部私は知っていた。なのに、私はあなたのことを知らない。
散々共にしてきた女性との経験は、爪で拾っていただけで箕でこぼしていたに過ぎなかったということか。どこかに忘れてきた。焼け石に水。