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実家の近くには神社と一体化した公園があった。ブランコやシーソー、地球儀型の遊具があり、幼少期は、夏の夜になると、よく母親と涼みに行ったりしたのだ。そこで吸おうと思い、進んだ。荷物を家の玄関に捨てた。母はまた眠りについたよう。煙草とライターだけ持って家を出た。すぐに火をつけて吸った煙を吐き出した。街灯の灯りへと霧散した。
神社への石段を上って草むらに足をつける。
キーコ、キーコと音がする。
見覚えのあるブランコがあった。
長い髪が揺れていた。
近づいていくと、確証に変わる。ジャージ姿ではない、若い女性。
二台あったブランコ。彼女の隣に私は腰を掛けた。
彼女の表情が少し硬くなったように見えた。
「ブランコなんて乗ったのいつぶりだろうなー」と私は言ってみる。
「私は小学生ぶりかな」
「俺もそんくらい」
会話は途切れた。たまらず私は切り出す。
「こんな時間まで待っててくれたんだ」
「あ、だって、お母さんから今から奏太が来るって聞いたからさ」
また会話が止まる。そして、
「『何しに来たの?』」
私と千紘の声は重なった。そのとき一緒に目を見合わせて笑ったのはよかったのかもしれない。おそらく、私も千紘も同じようなことを伝えに来ていたのだ。
「どっちからしゃべる?」と私が聞くと、「じゃあお先に」と差され、私は思い切って話した。
「謝りたかったんだ。お門違いかもしれないけど、あの夏休みの補習のときのこと。あのときの俺は何にもわかってなくて、千紘を傷つけた。結果的に整形もして、それが千紘にとって良かったことなのか今でも後悔してることなのかはわからないけど、もっと違う方法もあったのかなって」
「知ってるんだ……」
「何が?」
「整形のこと」
「ああそりゃあ、手紙読んだからね。島に行って」
私がそう言うと、彼女は驚いた表情をしていた。
「え? わざわざ島に行ったの? え、何で?」
「なんでって、そりゃ……」
あなたに会いたかったからだよ。そんな言葉は喉のすぐそこまで出かかって止まった。
「私さー、ずっと待ってたんだよ。奏太との約束のことずっと考えてて。だからさ、そんなに奏太のこと嫌いになってた訳じゃないんだよ? そりゃ最初はどうせ男は顔と胸のことしか考えてないんだーとか思ったけどさ」
「いやそれは言いすぎ」
「だってそうじゃん。あのときもそんな言い草だったし。でもね、その後ちゃんと奏太は言い直してくれた。ごめんねでも、これが俺だ! って開き直る訳でもなくて、私がずっと求めてたような言葉をくれた。だから、今の今まで待てたんだよ。いつかあの島に来てくれる。私の居場所も電話番号も知らないと思うけど、なんとなく軽い気持ちで待ってた。別に来なかったら来ないでそのまま暮らしていける訳だし。それでやっと来る、って思って奏太の顔見たらこれだからね。正直あの言葉は嘘だったのかと思った。でも、もしかしたら偶々観光でこの島に来て、私の整形した顔に気づいてないだけかもしれないとも思った。人間って不思議でさ、どれだけ確固たる証拠が残っててもさ、少しの希望が見えるとそっちに縋りたくなっちゃうのよね。でもそれも縋ってよかったのかもしれない。あのとき、オリエンテーリングの別れるとき、千紘って呼ばれてすごく胸がキューってなったの。私に気づいてくれた人がいる。捨てたはずの名前を誰かが呼んだ。誰だろう。でも知ってるのって……。振り返ったら奏太だったから」
それは、千紘の本心そのものだったのだろう。真っ暗の中だがそんな気がしたのだ。ただ鼻を啜っただけに過ぎないのかもしれないその音が、私にはそう聞こえるのだ。
待っている人の気持ち。本当に来てくれるかもわからない状況で待つということ。それはとてつもない真っ暗闇のトンネルを歩き続けるのと大差ない。
彼女は自分からトンネルを壊そうとしたのだ。
今の千紘は昔と何ら変わりはない。顔の形と声音が変わっただけで、高校時代に話していたあの千紘と変わりない。
千紘を好きになっていいだろうか……。
誰かが死ぬと誰かが悲しむように、本物の愛を求めて不倫すると誰かが悲しむように、この世界は誰かの我慢や悲しみによって、一つの愛や誰かの生きやすさが生まれている。
千紘を好きになると美菜が悲しむかもしれない。千紘が死ぬと私が悲しむ。美菜は喜ぶかもしれない。人を好きになるってこんなに残酷なことだったっけ? と思わせられるのだ。
人が死ねば誰かが悲しんでくれる。ニュースで報道されれば国民が悲しんでくれる。どんなに親不孝者でも親が悲しむかもしれない。つるんでいた友人はそのときだけ悲しんでくれる。心からは悲しんでくれない。
確かに、誰かが死ぬと誰かは悲しむのだ。それが命だった。
千紘は言った。
「私はさ、私のこの二年間想い続けてきたことを奏太に伝えたかった。それだけ伝えて、私は素直に都会の中で誰かに揉まれながら普通に就職しようと思った。奏太はさ、あの階段での約束、ちゃんと覚えてる?」
「覚えてるよ」
覚えてるよ。覚えているが……。
千紘の顔。二つ。
耳に髪をかける動作。二つ。
少し下の方から上目遣いで私を見る。一つ。
美菜……。同じ私だからわかる。――お前は。
誰もが悲しまない方法はないのだろうか。そう思った。