局所麻酔2:分子構造
コカインの分子構造から中毒部分と芳香族残基部分を切断できないか。
いや、むしろ石油化学からトルエンを出発物質にしてカルボン酸を合成すべきか。
今回は麻酔の分子構造です。
助手のアマル「意識がなくなりました」
医師ユパンキ「よし、穿孔開始」
ここはインカ帝国。
アンデス山麓にあるクスコ(標高3400m)。
そこからさらに高い位置(4000m)に脳外科病院があった。
アンデス最高峰はアコンカグヤ(7021m)でもっと高い。
4000mでも、湿度ほぼ0%、平均温度は0℃の高山気候である。
今まさに脳の手術が行われようとしていた。
現代医学から見れば、あまりにもお粗末な石の手術道具。
だがその技量は脳外科医そのものだった。
アマル「頭蓋骨に穿孔できました」
全部で12個の穿孔が患部を中心に同心円周状に並んでいる。
アマルは貴重な糸ノコを、その穴に通し、繋いでいく。
チリチリッチリチリチリッ、パカッ。
頭蓋骨に、直径9cmぐらいの穴が開いた。
はずした頭骨は氷河の氷で保存しておく。
手術が終わったら戻さねばならないからだ。
頭蓋骨の中に硬膜に包まれた脳髄が見えた。
脳髄は脳脊髄液の中に浮かんだ格好だった。
ユパンキ「硬膜はハサミで切開だ」
チョキ、チョキッ。
アマル「先生、脳髄です」
ユパンキ「クモ膜を丁寧に翻転して脳を露出」
アマルは手術用アクセスポートを露出部に被せた。
ヒツジの腸で出来た低侵襲手術用のカバーである。
イオウ煙で殺菌処理したヒツジの小腸だ。
これは「カットグッド」といい、現在では、吸収性の縫合糸に使われている。
術野は狭小だが、そこは拡大鏡でカバーする。
拡大鏡は水晶ドクロを磨く職人が偶然発見した(フィクション)。
凹凸数種類を掛け合わせて収差を改善したものを使っている。
アマル「中心傍動脈と脳梁周囲動脈です」
助手が器用に脳の組織をかき分け、動脈瘤の部分を示した。
ユパンキ「これが脳組織を圧迫して、患者の行動を阻害していたのだ」
その動脈瘤は直径2.5cm程の大きさの未破裂巨大脳動脈瘤だった。
ユパンキには拡大鏡のおかげでオニギリ大に見えた。
ユパンキ「よし、結紮]
器用に動脈瘤を鉗子で持ち上げると、紫色の糸で根元を結紮する。
スルスルと手際よく糸を結ぶ。
動脈瘤から出血していない事を確認して、脳膜を縫合する。
採取した骨片を戻し、白金の皿ネジで締結する。
その後、頭皮を縫合し、手術は成功した。
手術用具は全て使い捨てである。
消毒や感染症予防の知識とかではない、経験則だ。
同じ手術道具を使うと、ほとんどの患者は死んでしまった。
使い捨ての施術にすることで、ほとんどの患者は生還した。
結果として、施術による感染症は低く押さえられていた。
そのため、生存率は70%にまで達した。
また4000mに近い標高も幸いした。
麻酔薬はコカの葉から摂った樹液を蒸留し、脱気して粉末にしたもの。
それを5%~10%溶液にしたモノを使用していた。
当時の粉末化は、煮詰めて水分を蒸発させること。
100℃で水分を沸騰蒸発させれば、ほとんどの高分子化合物はダメになった。
ここ4000mでは沸点は80℃前後である。
100℃で沸騰すれば壊れてしまう高分子構造が、ここでは保たれていた。
ワイナ「ありがとうございます」
この患者の若者は助かったようだ。
医師ユパンキはキープのカルテに症状を記録した。
インカには文字がない、だがキープがある。
キープはモールス信号のような文字を現していた(フィクション)。
結び目の間隔によって表音文字を現している。
イ・-
ロ・-・-
ハ-・・・
といった具合である。
コカインの麻酔が無ければ、脳手術など絶対にできない。
ここではフィクションとして高山気候での減圧沸騰を想定している。
南米に生えるコカの木の葉からとれるコカイン。
インカ帝国時代はコカの葉を噛んで一時的に疲労や痛みから逃れていた。
しかし葉に含まれるコカインは微量だったので効果は薄かったようだ。
またこれによって脳髄も施術対象とした痕跡がある。
頭蓋骨の穿孔跡が治りかけている頭骨が出土しているからだ。
もし手術中に死んでいたら、骨がつながりかけて出土する訳がない。
手術は成功し、何年も生きていたからこそ、治りかけていたのだ。
1856年ドイツの化学者がコカの葉を乾燥させコカインの結晶を抽出した。
「ぺろっ、し、舌がしびれるろら……」
舌に乗せると苦味があり後に麻痺する事を発見してしまった……。
いやいやいや、自分で人体実験するなよ。
1862年ドイツの薬理学者がコカインの舌粘膜への麻酔作用を報告した。
「ぺろっ」
1884年局所麻酔薬としてコカインが初めて手術に使用された。
しかしコカインには麻薬作用があり常用性がある。
麻酔作用は5%~10%溶液が必要だが、すでに7%から依存性があったのだ。
「ぺ」
コカインのトロパンアルカロイドを以下に示す。
これから植物毒のトロパン部分を抜けば
麻酔薬が出来るのではないかと考え始めていた。
蒸留、乾留、白金などの触媒、光合成、酸やアルカリ、すべて試した。
だが、分離は出来なかった。
結論から言うとコカインから最初の局所麻酔薬は合成されなかった。
複雑な高分子構造を無機化学のノウハウで分離は無理があった。
まずは簡単な構造から別のルートで構築していくほうが簡単だったのだ。
最初の合成局所麻酔薬アミノ安息香酸エチル|(Benzocaine)。
アミノ+安息香酸+エチル。
①まず安息香酸をアンソクコウノキ(本草綱目;明代)から見いだす。
②その効果効能を発見する。
これの構造を決定すれば、石油に大量に含まれるトルエン。
これから製作過程が導かれるのが分かる。
そこからすべてが始まる。
古代からエゴノキ科アンソクコウノキから採れる樹脂にはいいニオイがした。
これは安息香酸をエステル化したものでニオイはバニラっぽい感じだ。
「いいニオイがするからいいものだ!」
「いいものはいい効能があるぞ」
1832年ドイツの化学者がこれを研究して、安息香酸の構造を決定した。
「これがコカインから植物毒を除いた麻酔作用の部分に似ている……」
1875年ドイツの生化学者が安息香酸の抗菌作用を発見した。
「抗菌作用がある……手術に使える……」
1890年ドイツの化学メーカーがアミノ安息香酸エチル|(Benzocaine)を合成した。
石油から大量にとれる(BTX)ベンゼン+トルエン+キシレン。
①このトルエンをニトロ化して、カルボン酸にする。
②このカルボン酸から4-アミノ安息香酸にする。
③アミノ安息香酸エチルができる。
これで最初の合成局所麻酔薬が出来上がった。
1905年ドイツの化学者がプロカイン|(Procaine)を合成する。
この後もテトラカイン、ジブカイン等と続く。
研究の結果局所麻酔薬は芳香族残基と中間鎖とアミノ基が結合した様式である事が分かってきた。
これらは中間鎖の結合方式によってアミド型、エステル型に分類される事も分かってきた。
1942年スウェーデンの化学者がリドカイン|(Lidocaine)を合成する。
最初のアミド型局所麻酔薬だ。
このリドカインが現在もっとも流通している局所麻酔薬リドカイン(キシロカイン)になる。
この後も開発は続く。
しかし、効果が強いと毒性も強くなってしまう。
現在はリドカインと、強い麻酔薬を用途に合わせて、使い分ける格好になっている。
局所麻酔薬としてリドカインを知っておけば充分だ。
硫酸を触媒としてニトロ化する工程は省いて説明しました。
次回は痛みの作用機序です。