最後の晩餐
貪り喰うとはまさにこの時のためにある言葉。
そう思わせるほどに獣たちの晩餐は見るに耐えないものだった。
普通の人間が目にしていれば思わず目を覆いたくなるような光景。
食される餌たちの悲鳴と絶叫も、今はただ捕食者の食欲を駆り立てるものでしかなかった。
白い翼が舞い上がる度に天使だった者は、黒く解き放たれた顎の向こう側へとその姿を消して行く。
理性のない獣が奏でる食卓は、地獄と呼ぶに相応しい音色を奏でていた。
“堕ちた天使の断末魔”。
ルシエルは目の前で繰り広げられる殺戮という名の獣の食事を見下ろしながら、そんなタイトルを頭に思い描いていた。
「そうだ、確か契約者の世界にこの光景にピッタリの音色があったな」
ルシエルは天使たちの苦痛と絶叫の声に耳を傾けながら、ふと昔を思い出すようにそっと目を閉じた。
胸の刻印に手を当ててどこか懐かしむように思いを巡らせる。
そして目当ての記憶を見つけたのか、ルシエルが鼻歌混じりにとある曲のメロディを口ずさみ始めた。
「確か名前は交響曲の……、何番かは忘れたがそんな名だったな」
うる覚えの曲名にとくに気にすることもなく、ルシエルは眼下に広がる暴虐の数々に向かって静かに両手を構えた。
自らが狂宴という名の音楽を奏でる指揮者のように。
「観客はものを知らぬ馬鹿天使。演奏者は死炎が従えし魔獣の王。では、遅ればせながら、狂宴の続きを引き継がせてもらうとするか」
言ってルシエルが両手を優雅に振り刻む。
ルシエルが奏でる曲の名は、キョウヤのいた世界では有名な曲。
名前は交響曲第9番。
音楽に疎いキョウヤの数少ないお気に入りの曲でもあった。
地獄への道先案内人の如く、ルシエルの獣たちに指示するリズムも徐々に熱を増して行く。
激しく腕を振れば絶叫が木霊し、優雅に指先を動かせば断末魔が響き渡る。
やがて観客を襲うという狂った演奏は盛大に舞い上がった白い羽根と、光の粒子によって幕を閉じた。
後に残ったものは何もない、無。
それがこの曲の終曲であり、ルシエルがキョウヤの望みを叶えた結果でもあった。
再び炎が部屋を覆い尽くし、そして風と共に消えた頃、ルシエルは幽世から現世へと姿を移していた。
ルシエルは背中の翼をゆっくりと揺らしながら地上へと降り立った。
先程まであった汚ならしい天使の笑い声も無くなった部屋。
ルシエルの狂宴を静けさだけが出迎える。
「ふぅ、これで契約者の望みは果たせたな。ついでに私の欲求も満たせて楽しい時間であった」
ルシエルはホッコリとした表情で満足そうに一息つく。
しかし胸の刻印に手を当てると、残念そうに眉をしかめた。
「ただ、やはりというべきか、魂への侵食が随分と進んだな」
漆黒の黒衣の下で滲む胸の刻印は色鮮やかな紅で輝いている。
ただ、その半分程が赤黒い闇のような色に染められていた。
「あまり長居は出来ぬか」
ルシエルはそう呟くと自身を黒い炎で覆った。
やがて炎が消え去ると、そこにいたのはルシエルではなくキョウヤ。
表情はどこか暗く元気がない。
とても望みが叶ったあとのものとは思えない。
「あれで満足ならぬか?」
キョウヤは背中から聞こえて来た声に億劫な動作で振り返る。
そこにいたのは体が小さくなったルシエルだった。
床に着くほどの長い黒髪。
吹けば飛んでしまいそうな薄い黒布。
幼女の悪魔がそこにはいた。
以前の憑依と同じで今回も力を使った反動か、随分と可愛らしい大きさに変わっていた。
「いや、十分すぎるくらいだったよ。ありがとう」
悲しそうな表情で感謝の気持ちを伝えるキョウヤ。
「それよりも、あの子達。お前の力でなんとかならないのか?」
キョウヤは微動だにしない子供たちを見つめながら淡い期待をルシエルに寄せる。
床に空いた無数の穴。
壊れて散乱した玩具。
その中に混じって倒れたままの子供達。
更に天井に見える白く揺れる光の玉は魂と呼ぶものだろうか。
その揺らめきはとても幻想的な輝きをしている。
彼らが既に生きていないことはわかった。
けどだからと言って諦めたくはない。
自分の世界では不可能だったことも、この世界では可能かもしれない。
天使と悪魔。
人知を超えた存在と力がこの世界にはある。
そして自分には契約した悪魔がいる。
だからキョウヤはルシエルにすがった。
こんな理不尽極まりない現状をなんとかしてほしいと願いを込めて。
「すまぬが蘇生は不可能だ。魂が器から離れてしまっていてはもう遅い」
しかし返ってきたのは無慈悲なまでの現実。
ルシエルが無理だと言うのなら、それはきっとどう足掻いても覆すことができない現実なのだろう。
込み上げてくる仄暗い感情。
キョウヤは感情に任せて叫びたい衝動に駆られた。
暴れたい欲求に支配されそうになる。
けどそんなことをしたところで子供たちは返ってこない。
死んだのだ。
死者が生き返ることはない。
それがこの世界の現実。
イリノを生き返らせるみたいに、あの子達にも同じことはできないのか?
それでも諦めきれないキョウヤ。
そんなキョウヤの頭をよぎったのは自分がルシエルと契約した内容だった。
イリノを生き返らせる。
必要なのは魂と今は天国にあるとされる神器。
そして生贄に捧げる血の繋がった者の魂。
それらが揃えば生き返らせることは可能なはずだ。
しかし、その内の1つがとても困難であることはキョウヤ自身薄々気付いてはいた。
だからルシエルの返答を聞いてもさほど驚きはしなかった。
「残念だが彼らが孤児である以上血の繋がった魂を探し出すのは困難だ。それに見つかったとしてもその者に代わりに死んでくれとでも言うのか?」
言われてキョウヤは唇を噛み締めた。
自分の願いがただの我儘だということはわかってる。
自然と握った拳が行き場をなくして震えている。
受け入れたくなくても受け入れるしかない。
わかってはいても心がそれを拒絶しようとする。
ただ、絶望したところで何も始まらない。
それは自分がよく知っていた。
泣いて喚いたところで、誰も助けてはくれないことも。
自分がいた世界と同じことだ。
キョウヤは自分の中に生まれたドス黒い感情を吐き出すことなく全て心の中に溜め込んだ。
こんな場所で吐き出すのは勿体無い。
この感情をぶつける相手はもっと別にいる。
そう自分に言い聞かせて。
キョウヤは大きく深呼吸をした。
冷静になれ。
できないことを無理矢理どうにかしたしようとしたところで出来ないものはできない。
なら可能なことからやるしかない。
今自分に何ができて何をするべきかを考えるべきだ。
自分に言い聞かせながら徐々に落ち着きを取り戻し始めたキョウヤ。
そしてそんなキョウヤの頭にふと疑問が浮かぶ。
そういえばあの光る糸はどういう仕組みで子供達の体と魂を繋いでいるのか。
この世界ではあれが普通なのかと。
光の糸を目で追うキョウヤ。
天井に浮かぶ白い光の玉から床で寝そべる動くことのない小さな器へと伸びる細い糸。
更にそれらいくつもの光の糸が収束し、ある一点からそれが出ていることを確認すると、キョウヤはそっと光の糸が集まる場所へと歩み寄った。
「……メローネさん」
キョウヤの瞳に映るのは、自身の上で倒れたままの女の子を優しく抱きしめるメローネの姿だった。
胸にあてられた血に染まり続ける赤い布。
メローネを中心にできた大きな赤い水溜り。
彼女も子供達と同じで既にもう……。
悲惨な現実を突きつけられたキョウヤは、再度この世界の理不尽さを思い知る。
自然と涙が溢れ落ちてくる。
泣きたいわけでもないのにそれは次から次へと。
体に力が入らず床に膝をつく。
頬を伝った涙は血に濡れた床に小さな波紋を作った。
ここへ来て自分の無力さを再認識させられた。
妹1人助けられない自分。
守りたいと思った子供たちにさえ手を差し伸べられない哀れな自分。
結局この世界に来たところで何も変わっていない。
向こうの世界と同じだ。
救いたいと思う人ほど自分から離れていく。
手の届かない場所に。
自分だけを置いて。
こんなことでイリノを本当に生き返らせることができるのか。
不安から弱い自分に自問自答するキョウヤ。
ルシエルという圧倒的な力がありながら、結局何も救えてないじゃないか。
自分を守るので必死。
誰かを守ることなんてできやしない。
自分はいったい何のために生きてるんだろうか。
「メローネさん」
キョウヤは涙で霞む瞳でメローネを見た。
会ってから1日程度。
話したのも数える程度。
それでもキョウヤはメローネのことを母親のような人だと思っていた。
暖かくて優しさに満ちた心を委ねられる女性。
ここで暮らす子供達がずっと笑顔だった理由がわかった気がした。
こんな人が母親だったら……、きっと自分やイリノも幸せになれたんじゃないだろうか。
ふとそんなことを考えてしまう。
今更そんなことを考えたところでどうしようもないことはわかってはいたが。
何故ならメローネはもう……。
無気力にただメローネを見つめるキョウヤ。
このまま自分もこの場に倒れたい気持ちに支配されそうになる。
何をやっても駄目。
誰も救えない。
こんなんじゃイリノも……。
いっそ全てを投げ出して自分も子供達と一緒にこのまま……。
自暴自棄になりそうなキョウヤ。
何が正しいのかわからない。
力無く虚無感だけがキョウヤの瞳を染める中、ふと目に映ったのはメローネの上で優しく抱かれている女の子だった。
何かが気になる。
涙を払いのけてよく見てみると、女の子が僅かに動いているのが見えた。
上下に小さく動いている。
正確に言えばメローネの胸が微かに動いていた。
僅かに見えた希望の光。
メローネはまだ生きている。
しかしその光がいつ途切れるかわからない状態だ。
キョウヤはすぐさまルシエルを呼んだ。
「ルシエル!メローネさんが……!!」
「すまぬが不可能だ」
希望にすがろうとしたキョウヤに対して、返ってきたルシエルの即答はまさにその希望を粉々に打ち砕くものだった。
再度の無慈悲なルシエルの言葉にキョウヤは若干の苛立ちを込めて叫んだ。
「どうしてっ!!!?」
「先程の女との戦いで受けた傷。まだ完全に癒えてないのではないか?」
ルシエルの指摘を受けてキョウヤは自身の肩を貫いたアイリスの剣を思い出す。
確かにルシエルのいう通り、傷は塞がってはいるが完治とは言えない程度に傷跡もあり微かに痛みもある。
「加護と呪詛。この2つは相反する存在だ。契約者にもわかりやすく言うなら油と水。それに近いものがある。つまり、加護に侵された傷を癒すのは困難であり、その逆もまた然り。その女の場合、長年天使の加護をその身に宿してきたせいだろう、とてもではないが呪詛を受け入れることは不可能に近い。それに」
幼い少女はその顔に相応しくない険しい表情を浮かべると、残酷なまでの言葉を口にする。
「最早手遅れだ」
キョウヤの瞳から光が失われる。
「なぁルシエル……」
「なんだ?」
「どうしていつも酷い目に合うのは俺たちみたいな人間なんだろうな」
ポツリと出た言葉はキョウヤの心の声そのものだった。
「ただ普通に生きてきただけなのに、大切な人と幸せになりたいだけなのに。俺たちが何か悪いことでもしたか?この子たちが誰かに迷惑でもかけたか?ただ普通に生きてただけだろ?無邪気に笑って遊んで、誰にも迷惑なんてかけてない。なのに、なんで、こんな……」
「天使信仰者たちに伝わる天使の教えとして、『聖刻』と呼ばれる偽善と欺瞞に満ちた戯言がある。その中の1つに、人に優劣はなく皆平等である。というなんとも有難い言葉があってな」
「はっ、なんだよそれ。これのいったいどこに平等なんてもんがあるんだよ」
冗談も大概にしろ。
笑いさえ出そうになるキョウヤ。
「人は平等である。しかしそれは裏を返せば人でなければ平等ではない。とも言い換えることができる」
ルシエルの言葉は淡々としたものだった。
「例えば、契約者のことを人ではないとその他大勢が決めつけたとする。悪魔と関わったのだから人ではないとな。するとそれだけで契約者は周囲からすれば得体の知れない何かになる。聖刻の戯言にも当てはまらない、平等もなければ人権もない。差別する対象へと早変わりだ。後はそこに不満や鬱憤が加わればストレス発散に丁度いいサンドバックの出来上がりだ。人ではない悪者を退治して気持ちはスカッと爽快。ついでに名ばかりの世界平和へと一歩前進。全くもって素晴らしい教えだ」
「全くその通りだな。この世に平等なんて存在しない。この世界に来て改めて自覚させられたよ」
うなだれたままキョウヤは呟いた。
そして力なく天井を見上げる。
揺らめき続けるいくつもの光の玉。
それを見てキョウヤは疑問に思う。
果たして子供達の魂はこの後どうなるのだろうかと。
死後の世界についてそれほど詳しいわけじゃない。
死んだら地獄か天国にいく。
その程度。
悪い人間は地獄に。
善い人間は天国に。
何を基準にして善悪が決められるのかも知らない。
そもそも天国が良い場所で地獄は辛い場所。
その認識すらこの世界に来てから揺らいでいると言うのに。
なら死んだ人間の魂に救いは無いのか。
そもそも死後の世界や魂ってなんなんだ。
行ったことが無い以上、行ったことのある人間に会ったことが無い以上、キョウヤの知り得る知識には限界があった。
ただ地獄や天国に詳しい人間はいなくとも、地獄を良く知る悪魔なら自分のすぐそばにいた。
悪魔のルシエル。
自分が契約した悪魔であり、この世界に連れてきた張本人。
ルシエルに聞けば簡単なことだ。
子供たちの魂がこの後どうなるのか。
そこに救いはあるのか、無いのか。
せめて死後の世界で彼らが幸せにありますように。
キョウヤはすがるような思いでルシエルに疑問を投げかけようとした。
しかしそれは突然聞こえてきた1人の女性の声によって遮られてしまった。
「そこに、貴方と契約を交わした死炎の悪魔はいますか?」
キョウヤの頭に直接響き渡るその声は、紛れもなくメローネのものだった。
気付けば光の糸が1本自分の足に巻きついているのが見える。
キョウヤは咄嗟にルシエルを見た。
契約した悪魔は目の前にいるが、メローネのいう死炎の悪魔が誰のことかがわからない。
返答に戸惑うキョウヤ。
するとルシエルがその質問に対して端的に答えてみせた。
「私ならここにいる」
するとメローネは安堵するように小さく表情を和らげた。
そして再び光の糸を使ってキョウヤへと話しかける。
「実は貴方に、いえ正確にはキョウヤさんにお願いしたいことがありまして」
流れ続ける鮮血を気にすることもなくメローネが穏やかな口調で言葉を繋ぐ。
「天使信仰に身を賭した私などが、貴方がたにお願いできる立場にはありませんが、それでもどうか聞いて欲しいんです」
キョウヤは静かにメローネの言葉に耳を傾けている。
死が訪れようとする者の最後の願い。
キョウヤはどんな頼みごとでも聞き入れようと考えていた。
それが生まれてからこれまでの人生で、自分に優しくしてくれた数少ない人の暖かみを持つ人。
メローネへの恩返しになると思ったから。
しかしメローネから溢れた最後のお願いは、とても自分に叶えることができないものだった。
「貴方の力で、この子達の魂を救ってはくれませんか?」
救ってほしい。
その言葉がキョウヤの心に突き刺さる。
自分に彼らが救えないことはルシエルとのやり取りで良くわかっていた。
不可能なのだ。
彼らを救うことは。
自分には。
望みを叶えられない悔しさからキャウヤは言葉に詰まった。
しかしメローネは構うことなく語りかける。
そしてそれは絶望続きのキョウヤにとって、本当の意味での救いの言葉になりうるものでもあった。
「噂でしか聞いたことがない不確定な話ですが、高位の天使と悪魔のみが操れるという特別な力があると聞いたことがあります」
無表情でメローネの話を聞いていたルシエルの眉がピクリと動いた。
メローネは続ける。
「天使には『輪廻転生』の力が。そして悪魔には『異世界転移』の力があると」
ハッとしてキョウヤが顔を持ち上げた。
そして思い出したように自分の胸の刻印に手を当てる。
そうだ、どうして今まで気づかなかったんだ。
異世界転移。
それは自分が身を持って体験しているではないか。
死んだ後にルシエルが現れて自分を生き返らせ、その後この世界へ連れてきた。
この世界でも同様のことができるのなら、子供たちを生き返らせることも可能なんじゃないか。
キョウヤが慌ててルシエルを見た。
藁にもすがる思いで。
この最後の頼みの綱すら否定するのはやめてくれと。
すがるように。
そして祈るように。
キョウヤはルシエルの答えを待った。




