決行
僕たち四人もぼちぼちと教室へ向かい始める。彰人が雪村さんにまずみんの話を振り、雪村さんは面倒くさそうに話を返している。昨日の動画は六十点らしい。意外と高い、のか?
他の生徒たちの並みにもまれながら階段を上がっていると、晴海さんが袖を引っ張ってきた。手を小さくこまねいているので顔を近づけると、彼女は耳打ちしてきた。
「そーくん。リュック、いつもより重そうだけど大丈夫?」
どきりとした。二重の意味で。普段からよく僕のことを見ていてくれている。そして、リュックに紛れ込ませた凶器の存在に気づかれかけたことにも。
「余分な参考書持って来ちゃっただけだから、大丈夫だよ」
「さすが、そーくん。真面目だね」
三人は同じクラスなので、僕は自分の教室の前でみんなと別れた。素早く中央にある自分の席に座る。既に席に着いてぼうっとしていた明日馬さんに話しかける。
「明日馬さん。さっきはごめんね。通るの邪魔しちゃって」
「え? ……ああ、うん。大丈夫」
明日馬さんは何のこっちゃと言った具合に首を傾げながらも、そんな返答をしてきた。……あれ? もしかして、もう忘れられてる? というより端から顔を憶えられていないのか。日頃の観察から何となく察しはついていたが、この子は人の顔と名前を一切憶える気がないのかもしれない。
予想以上に大きな壁だが、彼女の印象に残っておかないと困る。僕はリュックを机の横のフックにかけると、中からペットボトルホルダーを取り出した。ボトルのキャップを外す。
「そういえば、明日馬さんってよく本読んでるけど、どんなの読んでるの?」
明日馬さんに話を振ると、彼女は眠たそうな表情のままこちらを見てきた。
「ジャンルとかは特に考えてないよ。家にある本持ってきてるだけだから」
「へぇ」
ボトルのお茶をくびりと飲む。明日馬さんは珍しいものでも見るかのように、青いペットボトルホルダーに視線を注いでいる。
「金属アレルギーで水筒がどうにも使えなくてさ。だからこれ使ってるんだ。もちろん保冷機能付きね」
嘘を言うわけにもいかないので、これは本当のことだ。ものによっては少し触れただけで炎症が出る困った体質である。
このペットボトルホルダーにはバンドも付いていて、肩からかけれて意外と便利だったりする。どうしてみんなもっと使わないのだろうと思っているくらいだ。
明日馬さんはぬぼーとした顔で呟く。
「それ、昔入院してたお爺ちゃんが、尿便代わりに使ったペットボトルの中身を隠すのに使ってたよ」
「そ、そう……」
そんなこと、言うか、普通? 確かにこのペットボトルホルダーは飲み口のすぐ下まで覆われるため、中身を隠すことはできる。けど、言うか? 言わなくてもいいよね。僕が考えていた以上に、彼女は非常識なのかもしれない。
けどまあ、彼女の印象に残ったと考えれば、上出来か?
「おーす、アオ」
リュックから必要なものを取り出して机の中に突っ込んでいると、眼鏡をかけた丸顔の男子が話しかけてきた。
「ギバちゃん。どうかした?」
「ただの挨拶だ。気にすんな」
彼は柳葉鉄郎。中学からの友人で、気のいい奴だ。彼がこのタイミングで話しかけて来るのは織り込み済み、かつ計画通りだった。こいつが明日馬さんに好意があるのは知っている。「明日馬さんいいなあ」みたいなことを言っていたし、何度か話しかけているのを見た。僕が明日馬さんと話していれば、自然と寄ってくるのは自明の理た。
僕は思い出したかのように言う。
「ああ、そういえばギバちゃんが好きな超精巧昆虫フィギュアのクレーンゲーム、新しいのが出ていたみたいだよ」
「え、マジ? ラインナップはどんなだった?」
「さお。あんまり憶えてないけど、なんちゃらヒラタクワガタとか――」
「スマトラオオヒラタクワガタ?」
「ああ、たぶん。それから、デカいコオロギみたいなやつ」
「リオックだな。……なるほど読めた。攻撃的な布陣だな」
「そうなんだ」
ギバちゃんがちらりと明日馬さんを見やる。明日馬さんは生物部に所属しており、生物部の顧問の佐渡原先生は極度の生物オタク。故にギバちゃんは明日馬さんも昆虫に興味があるのではないかと考えているようだが、それは絶対にない。
現に明日馬さんは壁掛け時計を呆然と眺めている。僕たちの話は彼女の耳にはまったく届いていない。たぶんこの子は何にも興味がないのだ。よく読書はしているが、ページを捲るペースが早すぎたり遅すぎたりすることが多々ある。きっと内容を頭に入れていないのだろう。……やはり、明日馬さんもいい。単純にシンパシーを感じる。
「ギバちゃん。お互いの部活が終わったらゲーセンいこうか」
ギバちゃんは明日馬さんから僕に視線を戻す。
「お、付き合ってくれんのか。んじゃあ、五時過ぎくらいか? 校門前で待ち合わせな」
「ああ。彰人も連れてこうか」
よし。今のところ、計画は順調だ。もっとも、まだ始まったばかりだが……。
◇◆◇
その後、僕は休み時間の度に二度三度、明日馬さんに話しかけた。ときには居眠りしていた彼女を起こしたりもした。話題は他愛のないことだ。流石に不信感と鬱陶しげな顔をされたが、気にしない。とにかく彼女の印象に残ることこそが重要なのだから。
三時間目終了後の休み時間、僕はお茶で喉を潤すと、
「そういえば桂川さんってどんな子なの?」
どんな話題でもいいとはいえ、しょうもない話ばかりでは怪しまれるだろうから、気になっていることを訊いてみた。
明日馬さんは何かを思い出したのか、嫌そうな表情になった。
「ミノねぇ……。性格が悪い口が悪い目つきが悪い。三拍子揃ったどうしようもない子だよ」
反応に困る。
「ええっと……変わった子ってこと?」
「あれを変わってるで済ませていいのかなあ。そんな可愛いものじゃないよ」
「けど、色んな事件を解決してきたんだよね? 凄いじゃないか」
「あれは面白がって解いてるだけだからなあ。殺人犯を許さない! とか、被害者の無念を晴らす……みたいな矜持的なものがあるわけじゃないし。単に調子乗ってる殺人犯が気に入らないだけだもん」
急に饒舌になったな。よほど桂川さんことが嫌いなのだろうか。それとも一周回って大好きなのか?
「私がミノに何かしたことないのに、向こうは頻繁に脛蹴ってくるし。野蛮だよほんと。元ヤンって噂があるけど、間違いないよ絶対」
口調から溢れ出る嫌悪感が凄い。間違いなく嫌っているなこれは。けど、見た目も中身も人形みたいな明日馬さんにここまで人間味ある愚痴を吐かせる桂川さんと、ちょっと話してみたくなった。事件が起これば、嫌でも話すことになるかもしれないが。
明日馬さんが唐突に立ち上がった。彼女はそのまま教室の外へ出ていってまう。トイレにいったのだろう。……予想していたことだが、回避不可能な事態でもある。申しわけないので極力他人を巻き込みたくないが、こういうときは仕方がない。できる限り巻き込んでも心が痛まない人に話しかけることにする。
「赤芝君。消しゴムが落ちていたけど、これって君の?」
僕は普段は使っていない小汚い消しゴムを、明日馬さんの真後ろの席に座る柄の悪い男子に差し出した。
スマホをいじっていた赤芝君は唐突に話しかけられてびっくりしたのか、肩を震わせて困惑の表情で僕を見てくる。彼は不良なので、ただでさえ人に話しかけられないし、夏休み前に起こった事件の関係者として更なる悪評を得てしまっているため、話しかけてくる人なんていないのだ。
「い、いや、俺のじゃないぜ」
「そっか」
これでいい。彼の意識はしばらく僕に向くだろう。
休み時間が終わり、授業が終わり、昼休みになった。我慢に我慢を重ねていたが、尿意を抑えるのに玄関を迎えつつある。便意の方は朝から固形物を何も胃に入れていないためまだ大丈夫だが、尿意はそういうわけにはいかない。晴美さんにバターの匂いを嗅がれたが、あれは事前に冷蔵庫にあったバターに触れていただけだ。
「蒼。飯食おうぜー」
教室を出入りするクラスメイトたちに紛れて、扉から彰人が顔を覗かせた。僕は手ぶらで立ち上がると、彼に近づく。
「その前にちょっとトイレいかないか?」
「いいぜ」
連れションに誘う。大真面目に何をやっているんだと思わなくはないが、これも重要なことなのだ。少しでも疑われるのを抑制する、大事な大事な種まき。
トイレを済ませ二人で廊下に出ると、僕は少し気分の悪そうな顔を作る。
「ごめん彰人。ちょっと今日食欲ないかも」
「え、大丈夫か?」
「昨日の夜、いわゆる次郎系って言うのかな? そんな感じのラーメン食べたんだけど、それが胃に残ってる感じがしてさ」
「あー……なるほどな」
僕が食べたのは小盛だったから、本当は既にすっかり消化してしまっていて、腹の虫の音が体内に響き渡っているのだが、これでいいのだ。できればご飯は食べたくない。大きい方のトイレは一人になる時間が長くなりすぎる。余計な疑いを招くかもしれないことはしたくない。
僕は彰人と別れて教室へ戻ると、するりと自分の席に座った。明日馬さんは弁当をちょこちょこと摘まんでいる。……食事中に話しかけるのは申しわけない気がするが、明日馬さんの場合、話しかけでもしないと僕のことを認識しない恐れがある。
「お弁当ってお母さんが作ってるの?」
「そうだよ」
いつもなら彰人、雪村さん、晴海さんとお昼を共にしている。しかし、腹の虫を聞かれるとバツが悪いから明日馬さんでどうにかするしかない。彼女にトイレに立たれると困るなあ。そればっかりは祈るしかないか。
その後も明日馬さんに度々話しかけ、いい加減うざいと思われていそうだが、それも仕方がなかった。
そうしているうちに昼休みが終わった。明日馬さんはトイレには立たなかった。かなりツキが回っている気がする。
◇◆◇
ホームルームが終わり、放課後になった。クラスメイトたちがわいわい話しながら、次々に教室をあとにしていく。明日馬さんは疲労感を滲ませつつ伸びをしていた。この子、授業を何一つ聞いてる感じもしないし、まともにノートも取ってなかったのに、何にそこまで疲れているんだろうか。
「お疲れ、明日馬さん」
「あー、うん」
僕はお茶の飲みきり、空になったボトルを軽く振るった。
明日馬さんが手早く荷物をまとめ始めたので、僕も机の中にある筆箱や教科書などをリュックに詰め込んでいく。
「蒼ー。部室いくぞー」
彰人の呼ぶ声に扉の方を見ると、三人が立っていた。僕はリュックを背負い、そちらへ向かう。
「そーくんお腹空いてない?」
開口一番、晴海さんが心配してくれた。僕は笑いながら答える。
「流石にちょっと空いてる」
本当はちょっとどころではないのだが。
晴海さんはごそごそ手提げカバンを漁ると、ラップに包まれたおにぎりを取り出した。
「これ、あげるね」
「え、いいの?」
「うん。そーくんのために残しておいたの」
「ありがとう、晴海さん」
本当に良い子だ、彼女は。幸せを噛みしめていると、
「まあそのおにぎり、私が食べきれなかった分なんだけどね」
雪村さんが晴海さんに呆れた目を向けつつ言った。晴海さんは素知らぬ顔でまともに音がでない口笛を拭いている。
「えっと、ありがとう雪村さん」
雪村さんは気にするなとばかりに片手を振った。
文芸部の部室は部室棟の三階にある。比較的遠い上に階段を上り下りしなければならないため、体力のない晴海さんはいつも部室にいくだけで息を切らしている。
部長の雪村さんが職員室から借りてきた鍵で部室を扉を開けた。文芸部の部室は通常の教室の半分ほどの面積しかない部屋を使用している。ただでさえ狭いのだが、壁一面に本棚が備えられており、そこに詰め込まれた無数の本も相まって圧迫感が凄い。もう一つの図書館と呼ばれている。
僕たちは中央の長方形の机に各々の荷物を置いた。僕は一番奥の窓側が定位置だ。椅子に座る際、窓のすぐ真下に置かれた三つのダンボール箱をちらりと見る。……大丈夫なはずだ。
僕はさっそく貰ったおにぎりを頬張る。リュックからペットボトルホルダーに包まれたボトルを取り出すが、手にした重さでお茶が入っていないことを思い出す。まあ仕方がないか。
文芸部は何をする部活なのかと、よく友達から訊かれるのだが、僕もよくわかっていない。入部したときから先輩はいなかったし、顧問の先生も熱心な人じゃないので、いつも部活出席日数だけ記録して去ってしまう。とりあえず読んだ本の感想を言い合うという、中身のないことをしている。一応、文化祭には文集でも出そうかという話をしていたが、去年は殺人事件の影響で文化祭は中止になった。今年もおそらく中止だろう。
三人が土日に読んだ本について報告し合っている。僕はそれほど熱心な読書家ではないので、もっぱらみんなの話を聞いて、面白そうなものを読むようにしていた。
みんなの話が一段落した。部室へ来て十五分ほど経過したが、顧問の山内先生はまだこない。いつも通り、四時四十分過ぎに来るのだろう。予定通りだ。
ここいらで一芝居打つことにしよう。僕は椅子から立ち上がると壁際の本棚に寄った。本に埃が積もるのを避けるために被せられたら布を捲り上げる。そして、
「ゴホッ――ゲホッ!」
咳をした。何度も何度も。
雪村さんが駆け寄り背中をさすってくれる。
「薬は今持ってる?」
咳をしながら雪村さんの問いに頷き、息も枯れ枯れといった具合に答える。
「リュックの……ちっちゃい方の口に……」
彰人が僕のリュックをすかさず漁る。
「あれ、ねえぞ? こっちか?」
僕のリュックには大小口が一つずつついているのだが、僕の言う小の口から薬を発見できなかった彰人は大の口を漁り、L字型の吸入器を取り出し、それを持ってくる。
晴海さんはあわあわしなが見守っていた。
僕は吸入器に口をつけると、ゆっくりと吸い込んだ。落ち着く演技をする。
「ありがとう。助かったよ」
みんなに笑顔を向けると三人はほっとした表情になった。僕は喘息持ちで、極々たまに今みたいなことになる。まあ今のは演技だが。激しい運動をしても割と平気だが、埃を多く吸い込むと発作を起こしやすい。
僕は性癖以外、自分のことを普通だと思っていたが、金属アレルギーに喘息持ちと、なかなか厄介な体質だと思う。
「こいつも掃除した方がいいかな」
彰人が本棚に被せられた布を撫でながら呟いた。
僕はリュックからブラシの入った取っ手付きの容器を取り出した。ブラシ部分と持ち手部分が別れており、連結させると歯ブラシになる旅先のお供。容器がコップになるのだ。
「薬が気持ち悪いから、うがいしてくるよ」
僕がそういうと、晴海さんが心配するように彰人を見た。
「あきっち、付いていってあげて」
「わかった」
僕は彰人と共に階段の踊場の先にあるトイレへ赴き、水道水でうがいをして部室に戻った。
そしてしばらくして、みんなに声をかける。
「山内先生も当分来ないだろうし、コンビニでおやつでも買わない?」
この提案に雪村さんと彰人が壁掛け時計を見やった。時刻は四時十二分。
「それもそうね。甘いものが食べたい時間かも」
「俺も小腹が空いちまった」
二人はいつも通りノリノリだ。そして晴海さんは、
「わたし、疲れちゃうから、いつもの買ってきて」
机に突っ伏しながら五百円玉を雪村さんに手渡している。彼女の言ういつものとは、小さなフィギュア入りのラムネのことだ。
本当に、本当に今のところ全て計画通りだ。こんな順調といいのだろうか。
僕たち三人は晴海さんを部室に残して廊下へ出た。文芸部は校舎の端にあり、階段は空き教室を二部屋挟んだ先にある。階段を下り、三階と二階の踊場に来たところで、あっ、と声を発した。
「財布忘れた」
「何やってんだよ」
彰人が馬鹿にするように笑った。僕も笑みを浮かべ、
「ごめん。ちょっとここで待ってて」
高鳴る鼓動を抑えつつ、部室へと引き返す。もうすぐだ。……もうすぐ。
部室へ入ると、晴海さんは机に木枠を置いていた。形は長方形で、面積も容積も小さい。彼女はきょとんと首を傾げた。
「どうしたの?」
「うん。……ちょっとね」
僕は一番大きな本棚に被せられていた布を外し、ローブのように身体に巻きつけた。
「旅人みたいだね」
面白そうに晴海さんは呟く。僕は笑いかけると、用意しておいた凶器を手に取る。更にその凶器を本棚の布、この場にあるうちで最も厚手のものでくるむ。
その様子を晴海さんは小首を傾げながら眺めていた。普通の人なら訝るが、彼女はむしろ興味津々といった感じだ。
僕はゆっくり晴海さんに近づいていく。
「うーん……そーくんって、ちょっと変なとそろあるよね」
僕をじぃっと観察していた晴海さんの言葉に思わず立ち止まる。
「やっぱり、晴海さんもそう思う?」
怖がられないよう笑みを浮かべながら尋ねた。
「うん。だってわたしも、よく変だって言われるから」
まあ、確かに彼女は変わっている。そこが好きなんだけど。
晴海さんは机に置かれた木枠に向き直った。
「ゆっきーからは、いくらそーくん相手でも、くっつきすぎって、よく言われるんだ。男の子は何するかわからないって。けど、わたし、そーくんになら何されてもいいって気がするの」
「……そっか。ありがとう」
僕は凶器を振り回し、彼女の後頭部に勢いよく叩きつけた。顔は絶対に傷つけない。
晴海さんは椅子から転げ落ち、うつ伏せに倒れた。まだ身体が動いている。僕は彼女の頭に何度も凶器を振るっていく。真下の部屋は空き教室、踊場までは本棚のおかげで実質的に壁が厚くなっていることもあって大きな音は聞こえない。存分に暴れられる。
十回以上は晴海さんの頭を殴打した。もう彼女はぴくりとも動かなくなり、後頭部は赤く染まっていた。凶器をくるんだ布も同様だった。
返り血を防ぐため身体に巻いた布には、血の一滴もかかっていなかった。運がいい。布を引き剥がすと、本棚にかけ直しておいた。
凶器をくるんでいた布はその辺の床に放り投げた。
後は凶器を洗って、捨てるべきところへ捨て、現場を調整すれば、終わる。いや、始まるのか。
深呼吸をして呼吸を整えた。死体を動かすのはまずいが、どうしてもやらなければならないことがある。うつ伏せに倒れたままの晴海さんの身体をひっくり返し、顔をこちらへ向けさせる。……息を飲んだ。
「……好きだ」
思わずそんな言葉が漏れた。苦悶の表情だったら可哀想だったが、彼女は目を瞑り、存外安らかな顔を浮かべていたのだ。
頬に触れたかった。しかし、死体に指紋をつけるのはまずいから、それはできない。もっと時間が立てば、晴海さんはもっと美しくなるに違いない。だが、その君には出会えない。それだけが心残りだった。
僕はもう一度、深呼吸をした。




