社会派な親子【解決編】
「私の言ってることが信じられるけど信用ならないって、どういうことなの?」
失礼に対する怒りとか、信じてくれないことに対する焦燥感とか、そんな感情はもうなかった。あるのはただ、純粋な疑問。この人たちが何を思ってそんなことを言っているのかが気になっている。また冗談の可能性もあるけれど。
明日馬さんは麦茶を一口飲み、
「だってさ、荒川さん、昨日の夜お父さんと会ってないでしょ?」
「え……?」
私は頭の中が真っ白になった。明日馬さんの隣で桂川さんは軽く頷きながら「気づいてたのね」と小さく呟いている。
頭の整理が追いつかない私を無視して明日馬さんは続ける。
「変だと思ったんだよね。昨日、ミノがお父さんの着てる服がおかしいって指摘したとき、そんな服着てたんだ的な感じに驚いてたでしょ? 実際に家から出ていくところを見てたらそんなびっくりしないよ。じゃあ家に帰ってきたときだけ姿を見たのかって言ったら、それも怪しいし」
桂川さんが言葉を継ぎ、
「あんたの父親は帰ってきてすぐに風呂にいった。このことを話すとき、あんたは確か『帰ってくるやいなやお風呂へ入ったようだ』……こう言ったわよね。ようだ……あんたが実際に帰宅した父親と顔を合わせて、風呂へ向かうのを確認してたら不要な三文字よね。行動を見ずに、音で父親の動向を予測したから出てしまった言葉なんじゃないかしら? 風呂から上がって家を出た父親の話をするときも『すぐに外へいったっぽい』……っぽいとか言ってたわよね。外へ出ていった父親を見てたらそんな言葉が出てくるはずない」
桂川さんは喋って口が渇いたのか、麦茶を一口飲んで続ける。
「もっと言うと、あんたが父親の出入りした時間を憶えてたのはちょうど時計を見たタイミングだったからよね? スマホじゃなくて時計を見た。これもあんたが、少なくともこのリビングにいなかったことの根拠になるわ。あんたがこの部屋の時計を確認していたら、二十一時じゃなくて九時って言ってたはずよ。ここの時計は針時計だから。デジタル時計を見たから二十一時って証言したのよね? あんたの自室の時計がデジタル時計なのかは知らないし、自室以外の部屋にもデジタル時計があるかもしれないけれど、勉強するならリビングか自室でしょう。父親の帰ってきた時間と出ていった時間の両方を二十一時って答えたあんたは、高確率で自室にいた」
明日馬さんがどん引きしたような顔と声で言う。
「ミノ、そんなことまで考えてたんだね。いくらなんでも気持ち悪いよ。……ええっと、二階にまで玄関の開閉の音が響くんなら、お風呂場へ向かう足音とかも聞こえるんじゃない? どう?」
桂川さんが長ったらしい推理を展開しているとき既に、思い出していた。……そうだった。どうして気づかなかったんだろう。私は昨夜、父さんを見ていない。朝リビングで顔を合わせたのが最後だった。……けど、父さんは確かに帰ってきた。それからお風呂に入り、そして出掛けていった。それらは揺るぎない事実だ。
「確かに父さんの姿を見たわけじゃない……。けど、家に帰ってくる人なんて父さんしかいないよ。父さんは絶対に帰ってきてた。それは絶対に――」
「どうかしらね」
桂川さんが私の言葉を遮った。彼女にはもう真実が見えてしまっているのか、どこか自信に満ちた表情である。明日馬さんは興味なさげに麦茶を飲んでいる。
「この家に用がある人間なら父親以外にもいるわよ」
「そんな人いないから!」
「犯人よ」
「え!?」
予想外の答えに衝撃の声が漏れてしまった。明日馬さんが冷めた声音で言う。
「そんなにびっくりすることじゃないでしょ。九時五十分より前にお父さんを殺した犯人が、アリバイ作りのためにこの家を利用したとしか考えられないじゃん? だからお父さんは家にも帰ってきてなければ、お風呂にも入ってない。服装が仕事スタイルだったり毛髪からシャンプーの成分が出なかったのはそういうことだね」
「家に入るにあたっても、一階に人がいないのは部屋から明かりが漏れてるかどうかと、二階の明かりが点いてるかどうかでわかる。父親が娘と仲が悪いことを生徒にも話してたなら、帰宅した父親を娘がわざわざ玄関まで労いに降りてこないことも想像に難しくない」
私は庭に繋がるガラス戸に目を向けた。夜はカーテンを閉めてるけれど、当然隙間はできる。そして私の部屋の窓も外から見える(流石に室内の様子は見えないけれど)。つまるところ、夜に電気が点いているか否かを外から確認できるのは容易ということだ。
しかし、まだ納得できない。
「だけど、私は玄関にはちゃんと鍵をかけてた。父さんの遺留品の中に鍵は残ってたから、犯人が私の家に入ることはできないわ。言っておくけど玄関以外の鍵もかけてたからね」
私が断言すると、桂川さんはむっとしたように眉根を寄せた。
「言われてみれば確かにそうね。私としたことが迂闊だったわ。一旦鍵を持ち出して家に入ってから、また公園に戻って鍵を死体に戻す……みたいなことをすれば一応可能だけど、わざわざアリバイ作りにきてるのに現場に戻ったら意味ないし、そもそも容疑者二人のアリバイ的に不可能ね」
私はそこまで考えていなかったけれど、どうやらそういう理由があるらしい。
「アスマ。この部分についてはどう説明するの?」
桂川さんが説明を求める。私も強い視線を明日馬に向けた。明日馬さんは特に考える様子もなく答えてくれた。
「あー、鍵の問題ね。まあミノは一人暮らしだし、実家にいたときも両親から愛情注いでもらってなさそうだから、わからなくても仕方ないかな」
「普通に失礼なこと言うわね」
「荒川さん。お母さんももう亡くなってるんだよね?」
母さんの話が出ると思ってなかった私は若干はキョドりながら頷く。
「う、うん」
「ってことは、元は三人家族なんだよね? だったら答えは簡単じゃん。お父さんは普段から鍵を二つ持ち歩いてたんだよ。一つはポケットに、もう一つはカバンに入れておけば落とし物、忘れ物対策になる。家の鍵って家族仲がよっぽど最悪でもない限り、少なくとも家族の人数分+αは用意するものだし、余りの鍵を持ち歩いてても別におかしくないでしょ?」
「言っておくけど、あたしも親から鍵くらい貰ってるから。……それはそれとして、なるほどねぇ。荒川、家の余ってる鍵の本数を数えなさい」
桂川さんから注文を受けるけれど、
「ご、ごめん。鍵がどこに保管してあるのか知らない」
「あんたねぇ……家のことくらい把握しときなさいよ」
ぐうの音も出ない。こういうことは父さんに任せっきり……いや、押し付けてただけか。
「鍵がどこにあるかはわからないけど、確か全部で四本あったはずだから、その推理には納得できるよ」
そもそも反論する材料なんてない。
桂川さんが小さく息を吸って事件の全容をまとめ始める。
「何事かで荒川の父親ともめた犯人は公園で荒川父を勢いで撲殺してしまった。どうしようかと焦った犯人だったけれど、一つのトリックを思いついた」
一拍おいて、桂川さんは続ける。
「犯人はアリバイ作り……荒川父が生きていた時間を偽装するために、この家に荒川父が一度帰ってきたことにしようと画策した。荒川父の荷物をあさったときに運よく鍵が二つあったこと、荒川父の娘との仲が悪かったという情報が、トリックの実行を後押ししたかもしれない。家の電気の点いてる状況を確認してトリックに不備がないの確信した犯人は、鍵を使ってこの家に入った。二階にいる娘に証言してもらわないと困るから、できる限り音を出すようにしたでしょうね。まあこの家は意図しなくても一階の音はある程度上に響くみたいだけど」
桂川さんは一口麦茶を飲み、
「風呂に入ったのは疑われる余地を少しでも減らすためね。犯人が殺した相手の自宅の風呂に入りにくるなんて、まともな人間なら考えないでしょうし。ま、これはあくまで実際の目的の付加価値に過ぎないけれどね」
「どういうこと? 実際の目的って?」
「それに関してはアスマが説明してくれない? どうせあんたもわかってるでしょう? 喋りすぎて疲れたわ」
明日馬さんは顔をしかめて不平を零す。
「喋りすぎて疲れたって……さも被害者面してるけど、ミノが勝手喋って勝手に疲れただけだよね」
「いいから、とっとと説明しなさい」
明日馬さんは嫌そうにため息を吐き、
「えっと、犯人がお風呂に入ったのは、お風呂に入るしか選択肢がなかったからだね」
「犯人はそんなに、さっぱりしたかったってこと?」
「あははは。荒川さん言ってたよね――」
私の軽い冗談は棒読みの笑いで流された。
「お父さんの帰ってきたとき夜食を食べようかと思ってたって。ということは、この部屋まで降りたんじゃない?」
「うん。そうだけど……」
「その途中……つまり荒川さんが部屋から出て、階段を降りている最中にお父さん――もとい犯人のお風呂へ向かう足音を聞いた。違う?」
そこまで言われたら、流石の私でもどういうことか理解できた。
「もしかして、私から隠れるために……?」
「そうとしか考えられないよ。犯人的には荒川さんが何しに降りようとしてるのかわからなかっただろうけど、少なくとも既にお父さんが入ってるお風呂場なら、荒川さん絶対に入らないでしょ? 犯人は降りてくる荒川さんの足音を聞いて、身を隠すために慌ててお風呂に入ったんだよ。わかりやすく玄関の直線上の扉に『浴室』って書かれたカードが貼ってある扉があるし、部屋を探す手間もない」
明日馬さんは麦茶を全て飲み干し、
「お風呂場に入った手前、すぐ出るわけにはいかないし、どっちみち荒川さんも夜食を食べてたから、犯人はそこに拘束されることになった。リビングにお風呂場の聞こえるかどうかは知らないけど、聞こえるのなら水音とかがしないのは不自然だから、仕方なく犯人は湯船に浸かった。実際問題、聞こえるの?」
「聞こえるよ。昨夜もバシャバシャ音がしてた」
「じゃあ間違いなさそうだね。そして、お風呂場にいた犯人は荒川さんが二階に上がるのを見計らって、すぐさま家から出ていった。まあこんな感じかな」
……二人の推理が本当だとしたら、私は殺人者とニアミスしていたことになる。いや、ニアミスどころじゃない。同じ空間に二十分もいたのだ。昨夜の、父さんのものと確信していたあの足音と物音を思い出すだけで背筋がぞっとしてくる。
「それで、結局犯人はどっちなの? 真山って人か杉浦って人か……」
これが最大の問題である。この問いに答えたのは桂川さんだった。
「捜査線上に浮かんでないだけで他に容疑者がいるかもしれないから確実ではないけど、犯人がそいつらの二択の場合、真山が犯人ね」
「どうして?」
「そのくらいは自分で考えなさい。小学生でもわかることよ」
「え、えー……」
ここまできたら教えてくれてもいいじゃない……。
仕方がないので自分で考えることにしよう。えっと、確か真山のアリバイが――
「杉浦のアリバイは九時四十分から十二時まで。この家にきて風呂入ってる時間はない。対して真山はこの家の近くのバーに九時五十二、三分から朝の六時までいた。この家から出てバーに向かったと考えると、時間はばっちり合うんじゃないかしら? だから犯人は真山よ」
結局自分で言うんだ……。
饒舌に語っていた桂川さんだったが不意に肩をすくめ、
「ま、さっきも言ったように他にも容疑者がいるかもしれないし、真山が犯人だったとしても証拠はないわ。風呂場に髪の毛でも発見できれば楽なんだけど」
「でも、私は父さんの姿を見たわけじゃないってことを刑事さんに伝えれば捜査は進展するんだよね?」
「それはそうでしょうね。場合によっては真山から自白も取れるかもしれないわ」
「そんなことしなくてもさ」
突然明日馬さんが口を開いた。
「もっと簡単に真山さんが犯人かどうかわかる方法があるよ」
「え、そうなの?」
普通に驚いた。この人、ぼうっとしてるから何も考えてないように見えるけど、事件の全容を推測できていたようだったし、実は凄い子なの?
桂川さんは特に驚いてないようだが、やや憮然とした表情で尋ねる。
「その方法って?」
「それをやるには明月さんを呼んだ方がいいかもね。追々説明するのも面倒だから」
「後であたしに連れ回されたくないから、今日で事件を終わらせたいってわけね」
「そゆこと」
たぶん、明日馬さんは凄い……凄いめんどくさがりなんだろう。
◇◆◇
刑事さん二人を家に召喚して五人で向かったのは真山がいたというバーだった。明日馬さんがマスターに訊きたいことがあるからだそう。
バーのマスターは刑事二人はともかく、女子高生三人組には反応に困っていたようだったが、明日馬さんはそんなことを意に介さず次の質問をした。
「昨夜真山さんが店にきたとき髪の毛濡れてました?」
その瞬間、私含め四人ともなるほど、という表情になった。真山はロン毛だった。ドライヤーでも使わない限り、そう簡単に濡れた髪が乾いたりしないだろう。昨日の夜はドライヤーの音は聞こえてなかった。父さんは角刈りだから、犯人はドライヤーを使うわけにはいかなかったのだ。
明日馬さんの質問に対するマスターの返事は、
「ああ、そういえば濡れてましたね」
というものだった。
刑事さん二人はその証言と私が昨夜父さんと顔を合わしたわけではないこと、そして桂川さんと明日馬さんの推理を携えてすぐさま真山のもとへ向かった。
明月さんから、真山が犯行を認めた、という連絡がきたのはそれから三十分後のことだった。
「……はい。わかりました。ありがとうございました」
明月さんからの通話を終えた私は大きく息を吐いた。
「真山が犯行を認めたんでしょうけど、他に何か言ってた?」
家のソファでポテチを食べながら桂川さんが訊いてきた。
「証拠を固めるために浴室に残ってるかもしれない髪の毛を採取したいから、お風呂掃除はしないようにって」
「まあ妥当ね」
桂川さんはもうこの件には対して興味なさそうである。
「これでこの事件も一件落着ですな」
同じくポテチを食べている明日馬さんが頷きながら呟いた。
そっか。終わったのか、この事件。私の父さんを殺した犯人は、捕まったのか……。どうしよう、全然感慨深くない。そりゃ昨日の今日でスピード解決だから、積年の思いが果たされた! とはならないのは当然だけど、それにしたって……。
やっぱり、そういうことなのかな……。
「二人とも」
「あん?」
「ほえ?」
言う相手を間違えているのはわかってる。けどこの場には私以外にこの人たちしかいないのだから仕方がない。
「私さ……父さんのこと、嫌いだったんだと思う」
「知ってるわよそんなこと。何を今更」
「言動の節々から察せられるよね」
大体予想通りの反応が帰ってきたけど無視して話を続ける。
「死んだって知ったとき、驚きはしたけど別に悲しくはなかったし。自分の行く末ばかり気にしてた。今も、犯人が捕まったのに嬉しくもなんともない。……私って、冷たい人間なのかな?」
人として、それがどうしても気になってしまった。
「どうかしらね。あたしも父親が殺されても一ミリも悲しまない自信はある。だからまあ、あんたはあたしと同類ってとこね。冷たいかどうかは知らないわ」
「いや答え出てるよねそれ。ミノと同類なら確実に冷たいよね」
明日馬さんは呆れたような表情で桂川さんにつっこんだ。
……どうやら、私は冷たい人間らしい。やっぱり、そうなるよね。もっとショックを受けるかと思ったけど意外とそうでもなかった。たぶん自分が人として冷たい、という現実を知っても何とも思わないくらい冷たい人間ということなんだろう。
しかし……、
「私が父さんと仲がよければ、この事件は起こらなかったのかな?」
それだけが気がかりだった。いくら嫌いだったからといっても、死んでほしかったわけじゃない。
「いや、それはないでしょ。お父さんが殺された動機に荒川さんとの親子仲は関係してないだろうし。たぶん」
……あ、そっか。いや、それでも、
「けど仲がよければ事件がもっとスムーズに解決してたかもしれないし。今回のトリックは私と父さんの仲が利用されたんだもん」
「どうかしらね。確かに真山がこのアリバイトリックを実行しようと思ったのは、親子仲が悪いって話を聞いてたから、ってのもあるでしょう。けど、結局はこのトリックをやらなきゃアリバイがないし、そもそもアリバイ工作中に死体が見つかったらあんたらの親子仲関係なくその時点でジ・エンドの大博打のトリックよ。要は親子仲なんてよくて面倒、悪くてラッキー程度のものね」
「それなら仲悪くてよかったじゃん荒川さん。仲がよくて、帰ってきたお父さんを労いにいったり、お父さんが帰ってくるまで夕食を食べない習慣とかあったら犯人と鉢合わせて殺されてたかもよ?」
……もう、何も言うことはなかった。やはりこの二人に言うのは間違いだった。
三秒ほどの沈黙の後、明日馬さんが明るめな声を発した。
「いやあ、それにしてもあれだね」
彼女は得意げな表情になり、
「今回の事件は父と娘の険悪な関係……父子家庭の虚しい実態を露わにする、なんとも社会派な事件だったね」
「あんた何言ってんの?」
桂川さんの尤もすぎるつっこみによって、この事件は幕を下ろした。