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9.槍の雨、白い花

【これまでのあらすじ】引っ越しの挨拶の品をきっかけに、マンションの上階である403号室の住人と文通をすることになった女子高生の佳代。受け取ったポストカードには印象的な白い花が咲いていた。そんなある日、導かれるように403号室を訪れることに。住人であるお姉さんは実の姉より年上でありそうな落ち着いた雰囲気があり、部屋は影と光が共存した不思議な空間であった。そこで佳代はずっと想い続けていた先輩と奇跡的に両想いになったことを話す。その先輩との満たされた日々、ただ先輩の女友達から感情のない視線を受けていることに気づいて、403号室のお姉さんに相談へ。ところがそこで佳代は、お姉さんが突然眠りに落ちてしまう病を受け入れてマンションの一室で過ごしている事情を知り、また彼女の別れた旦那さんへの垣間見えた想いに初めて人間らしい姿を目にしたのであった。その夜、佳代は実の姉がカフェのキッチンに立つ姿をお姉さんに重ね、夢を追いかけて消えた父に思いを馳せたが、この漠然とした気持ちを透也先輩に分かってもらえるとは思えずにいた。そして夏祭りの日、幸せな時を過ごしながらも、透也先輩の発言から彼の未来に自分はいないのだということを感じる。後日、学校で告白のようなものを受けた透也先輩がその女子を慰める場面に出くわし、結局人生は「喜」と「悲」の繰り返しだということに、まだ幼い佳代は茫然とするのであった。第一部 完

何が楽しくて、体内に居座るアルコールに首を絞められているのだろう。

「だめだ……」

けだるそうに布団から起き上がり、透明に光るガラスのコップで揺れる水を口に含む。

何が楽しくて、休日の前日はいつも医者と飲まなければいけないのだろう。そう、それは私がこの仕事を選んだからだ。まだ若かった当時は、なぜだか魅力的に見えた。何も知らないがゆえに。

でも、未来のことで知っていることなんてひとつもないじゃない。誰かに何かを聞いていたとしても、自分で経験しなきゃ分からない。そこで私が選んでしまった経験、それが医者相手への営業だったというわけだ。

その毎日は、嫌なことや悲しいことで溢れている。

楽しいことや嬉しいことは?前者と後者のあまりの比率の違いに、乾いた笑みをこぼした。

嫌なことや悲しいことは、まるで空から無数に(やり)のように降りかかる。楽しいことや嬉しいことは、その槍を避けながら自分で見つけなければいけない。若い頃は、河原でぼんやり待っているような状態でも楽しいことや嬉しいことと出会うことができたのに。

今は。

槍を避けながらでも、自分で見つけなきゃ。激しい痛みが伴う雨が降りかかる土地に咲く、小さな白い花。せわしない日々の中で、その小さな白い花を摘みながら「前」と思われる方向に進んでいる。

槍に撃たれるだけの人生はいやだから。

小さな白い花を摘むの。

例え、時間が経つにつれて手の中で枯れてしまったとしても。


私にとっての花は「あの人」。

とても厄介な人を、花にしてしまっている。




普段は一人で行動している。

新薬やジェネリック医薬品の大量の資料を含み、膝の前で手からぶら下がっている営業用カバン。大病院の廊下の壁に体を預け、ただ真正面にある何もない壁を見つめる。

そこには何もない。

花があるわけでもない。

様々な人が通り過ぎてきたであろう薄汚れた白く冷たい壁。“お医者様”の空き時間が訪れるまで、私はずっとそうしている。そういう人生の消費の仕方で、お金をもらっている。


だから、たまには花を目にしたい。


時おり、上司との同行がある。

ふと見上げると左側の車窓から桜が見えた。日の光を浴びて限りなく白色に近い桜。

「たまには私に運転させてくださいよ。汐崎(しおざき)さん、上司ですよ」

「まあまあ、いいから。上司が運転しないなんて決まりないし」

細身で薄くストライプの入ったスーツ。

「でもこの前、飲み会で言われましたもん。汐崎さんの優しさに甘えるなって」

「何それ、誰に」

42歳。

「えーっと……誰でしたっけ……」

「また酔っぱらって覚えてないのか」

単身赴任。

「覚えてないことだらけみたいに言わないでくださいよ」

そう言って運転席の方を少し向くと、彼側の車窓からも遠くで咲き誇る桜が覗いている。

彼と桜が重なって、まるで同じ一つの優しいかたまりのような錯覚を起こした。

私と彼には、部下と上司以外の関係は何もない。

「すごく昔のこととかは案外覚えてるんですけどね」

「他の人だったら忘れちゃいそうなやつとか?」

「他の人だったら忘れちゃいそうなやつ……」

復唱しながら、過去に想いを馳せてみる。

「……そうですね、例えば10年後に再会する約束とか」

「何それ、相手は覚えててくれないの?」

「何それ」という彼の口癖は、秘密にしているけど私はかわいいと思っている。

「覚えてないでしょうねー……きっと。向こうから言ってきたことなんですけどね、16歳の時に付き合ってた人で。まさに今年が“10年後”なんですよ」

「佳代ちゃんは覚えてるのに、相手は覚えてないの?」

汐崎さんはたまに私のことを下の名前で呼ぶ。

「だって……、覚えられてるという想像が少しもできないんです。誰にでも優しかったから、たぶんみんなに同じように優しくしすぎて、好意をくれた女の子は全部記憶の中で一緒になっちゃたんじゃないかなって……」

「俺だったら、その約束覚えてたいけどな。果たせないにしても」

約束をした夏祭りでの透也先輩が目の奥に浮かんだ時、私は10年経っても同じような人を好きになっていることをじわりと実感した。ただ状況が違うのは、汐崎さんはどんなに優しくても、私を一時でも彼女という存在にしないであろうところだ。それは家庭があるから、年齢が離れているから、当たり前のことなのかもしれないけど。

だからせめて。

医者に罵倒されたり、支店長に数字への意識を確認されたりする、とってもくだらない世界にいる私だけど。

その世界に咲く唯一の花として、あなたを眺めさせてください。

その花を、育てることはできないにしても。

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