7.蝶は光を失った
【これまでのあらすじ】引っ越しの挨拶の品をきっかけに、マンションの上階である403号室の住人と文通をすることになった女子高生の佳代。受け取ったポストカードには印象的な白い花が咲いていた。そんなある日、導かれるように403号室を訪れることに。住人であるお姉さんは実の姉より年上でありそうな落ち着いた雰囲気があり、部屋は影と光が共存した不思議な空間であった。そこで佳代はずっと想い続けていた先輩と奇跡的に両想いになったことを話す。その先輩との満たされた日々、ただ先輩の女友達から感情のない視線を受けていることに気づいて、403号室のお姉さんに相談へ。ところがそこで佳代は、お姉さんが突然眠りに落ちてしまう病を受け入れてマンションの一室で過ごしている事情を知り、また彼女の別れた旦那さんへの垣間見えた想いに初めて人間らしい姿を目にしたのであった。その夜、佳代は実の姉がカフェのキッチンに立つ姿をお姉さんに重ね、夢を追いかけて消えた父に思いを馳せたが、この漠然とした気持ちを透也先輩に分かってもらえるとは思えずにいた。
その手につながれた自分の手をうまく想像することができなかった。
たとえそれが私の想像に及ばなくても、「現実」はそんなことにかまいはしない。
「現実」はまるで雲と地表との間に起こる放電現象のように私の視界を独り占めするんだ。
ぼやけた周りの景色には、夜の闇を遠くの世界に押し上げるように輝き渡る屋台の灯り、明確な行き先を持たない足取りの人々の群れ、その合間を縫うように見え隠れするのは夢の世界に存在するようなお菓子や玩具のパレード。
少し時期の早い夏祭り。
透也先輩は私の手を取り、人混みをかき分けて進んでいた。
きっと私は何度でも繰り返す。
独りで透也先輩のことを想っている時の孤独感と、二人でお互いのことを想っているであろう時の幸福感を。
どうしてこの今のような幸福感をすべての時間に満遍なく行き渡らせることができないんだろう。
手の届くところにいないと、静かな思考の世界に堕ちてしまう。
ただ、今は……。
まるで呼吸の出入り口に空気のかたまりがあるかのように、心臓は締めつけられた。
「さっきのところ、すごい人だったな」
星の道のような屋台の列から抜け出した私達。
「ほんと、すごかったですね」
手はつながれたままだ。
「何か食べたいものとかあった?……って、それどころじゃなかったか」
「え、いや、見てましたよ!……ちゃっかり」
なんとなく恥ずかしくなった私を見て、透也先輩は笑った。
「何?何食べたいの?」
「……りんご飴」
透也先輩の目を見ながら言うことができなかった私を見て、また楽しそうに笑った。
「うわー。佳代ちゃんかわいいなぁ。買ってあげるな」
聞き慣れない、心臓を突くようなひとつの言葉に思わず顔を上げてしまう。
そこには、ずっと想い続けている人がいた。
放電現象が続いている。
人工的な光を放つ蝶が砂場のあたりを舞っている。
屋台で売られている蝶のおもちゃを手に公園内をかけまわる子供たち。
厚い木製のベンチには、そんな様子をりんご飴片手に見ている二人の姿。
「透也先輩もりんご飴食べるんですか?」
「なんか気になっちゃったから、今日だけ」
輝く蝶は楽しそうにすべり台に沿って舞い降りている。
「なぁ、佳代ちゃん。佳代ちゃんは何になりたいの?」
唐突な質問にりんご飴が口元から離れた。
「何に……?将来ですか……?」
「うん」
「何だろう……。とりあえず松高に来ることしか考えてなかったから……」
言った後に、その理由が透也先輩を追いかけることがきっかけであることを思い出し、慌てて口をつぐんだ。
「そっか……。まぁ、そうだよな」
「あ、の、透也先輩は何かになりたいんですか?」
「うーん……漠然としか考えてないんだけど。ここは離れると思う」
ここ。地元。
「佳代ちゃん。10年後の今日に、またこの公園で会おう」
輝く蝶がブランコにつながる鎖にとまり、空中に勢いよく揺れる光の線をつくっている。
不意に蝶がブランコをこぐ子供の手を離れ、一瞬独りでに空中を舞い、地面にはじき落ちた。
「透也先輩…それって、この前テレビでやってた映画でしょ?」
蝶は落ちた衝撃で人工的な光を放つ力を失いつつあった。
「あ。分かった?」
子供がブランコを跳び降りて蝶のもとに駆け寄る。
「でも、あの映画のようにさ。10年後、ほんとにこの公園でこういう風に会えればいいな」
透也先輩……それは。
私たち、一緒に来るの……?
それとも……。
ねぇ、あの映画のタイトル。
『再会』だよ。
透也先輩と何かを追い求めて消えた父の表情が重なった。
今の時点ですでにもう、透也先輩の未来に、私、いないんだ。
子供の小さな手の中で、蝶は光を失った。