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5.“人間”としての姿

【これまでのあらすじ】引っ越しの挨拶の品をきっかけに、マンションの上階である403号室の住人と文通をすることになった女子高生の佳代。受け取ったポストカードには印象的な白い花が咲いていた。そんなある日、導かれるように403号室を訪れることに。住人である女性は姉より年上でありそうな落ち着いた雰囲気があり、部屋は影と光が共存した不思議な空間であった。そこで佳代はずっと想い続けていた先輩と奇跡的に両想いになったことを話す。その先輩との満たされた日々、ただ先輩の女友達から感情のない視線を受けていることに気づいて……。

誰かを意識するということは、決して好意を寄せている人間に対してだけではないんだ。

存在を気に入らないものとしている、そのように人に意識された時。

どうしたらいいんだろう。


夕日に染まる茜雲を背に、肩にかけたカバンのひもを両手でにぎりしめ403号室の前でたたずむ制服姿の私。

真相は何も分からない。

ただ、透也先輩の友達の一人に良く思われていない。

それは……男と女の問題が関係してくるのだろうか。

……どうしたらいいのかな……。

こんな時……、私より長く生きていろいろ知っていそうな人……って言ったら変だけど。

そういう人に……大人に相談したら……16歳が気づけない何かが分かるのでしょうか……?

玄関横の押しボタンに指が触れる。

微かに耳に届くチャイム音。

応答はない。

目の端に映る開いた窓からのぞく、風にほんの少し揺れるカーテン。

いるかもしれない……。

そんな思いが胸の奥から小さな泉のようにドアの取手をにぎらせた。

普段では考えられないことをしていると自覚していた。

鍵のかかっていないドアの先には、暗い廊下とその左奥にリビングからこぼれるわずかな光の線。

吸いこまれてゆく。

一歩一歩進むのに反して、一歩一歩「人」のいる世界から遠ざかっていく感覚に陥った。

そこは「人」のいない世界だった。

一人の女性が生きる、「人」のいない世界。

わずかな光に足を踏み入れた時に目に入ったものは、薄暗い空間で窓からのきらきらした光を浴びて目を閉じているあのお姉さんだった。

お姉さんは2人用テーブルの椅子に背筋を伸ばしたまま、おそらく眠っていた。

それは居眠りでもうたた寝でもない。

今自分に起こっていることを静かに受け止めている状態の眠りだった。

白いワンピースに散りばめられた降り注ぐ細かい光の粒たちだけが、お姉さんを見守っているかのように。

この世界に「人」の気配がしない。


この不思議な世界に余計な物音を立てないように近づき、私はお姉さんと向かい合わせに二人用テーブルの席につく。

今、目にしているものは、窓から幾重にもわたる光の線を浴びたまま目を閉じている、消えてしまいそうな美しい女性。

この人……、本当に生きているの……?

足首に届きそうな長さの白いワンピースに、肩に届きそうな黒い髪。

違う……息はしている……息はしているのに……、なんだか……。

彼女の細く長いまつげの影がほんの少し揺れ動く。

この人……、人々が学校に行ったり、働いたり、子供や親の世話をしたり、現状に悩んだり、誰かに何かを言われたり、生きていくためにしたくないことをしたり……そういう誰しもが義務や圧力に囲まれたこの世界で……本当に生きているの……?

揺れ動くまつげから、少しずつのぞく黒い瞳。

まるで何も重いものをまとっていないみたい……、何もない誰とも関わらない世界に一人で生きているみたい……。

私の心に浮かんだ思いは、お姉さんが目を開けきったことで途切れた。

「あら……、また来てくれたのね。ごめんなさいね、こういう状態になるとどうしようもできなくて」

お姉さんは家にいるはずのない私に驚きもせずに、穏やかに、何も感じていないようにそう言う。

「こちらこそごめんなさい……勝手に家に入ったりして……。でも……こういう状態って……?」

あたかも私の方が今目覚めたかのようなぼんやりした状態で、そう問う。

「私ね……病気なの」

それは命に関する病気ではなかった。

「瞬間的に眠ってしまうの……。ご飯を食べていても、歩いていても、人と話していても。どんなことをしていても」

信じるという行為を始めるのに私の脳は時間がかかっていた。

「睡眠発作……ナルコレプシーっていうのよ。私の場合は、ナルコレプシー患者の中でもとてもひどい方なの」

お姉さんは、身に起こるすべてのことを不安なく受け止めているかのように話を続ける。

「一日の中で症状が出る回数が極端に多いの。でも入院する必要なんてないのよ。発作的に眠ってしまうだけなんですもの。でも、外に出るのは少し恐いわ。だから私はずっとここにいるのよ」

“ずっとここにいるのよ”

その言葉は、自由に動かすことができる手足を持った、まだ若い女性の口から発せられたとは思えない言葉だった。

「お姉さんは……旦那さんと二人で暮らしているんですか……?」

私はそっと視線をお姉さんの左手の薬指に向ける。

「あぁ……ううん、一人暮らしよ」

視線を向けられた指輪をそっと右手の指でなぞりながら否定した。

「主人とは別れたの。私の症状がひどくなってしまったから。主人の旅館……主人の実家は古くから旅館をやっているんだけど、そこを手伝えなくなってしまったから。追い出されたわけじゃないのよ。自分で決断したの」

指輪はそのかつての日々をスクリーンに映し出しているかのように、光の加減で細く虹色に輝く。

「でも、主人はたまにここに顔を見せに来てくれるの。忙しいはずだから、無理しなくていいのに。優しい人なの……。だからこそ、彼の人生を邪魔するわけにはいかなかったの」

指輪は右手で覆われた。

「私の両親には結婚を反対されて、勘当同然で家を出たんだけどね。貫き通したかったわ……でも体がいうことをきかないのよ。……こんなことになってしまって、両親には別れたことと病気のことは手紙で報告したの。助けて欲しかったわけじゃなかったんだけど、でも実際助けられてるわ。毎月、自動的に生活費が振り込まれてくるの。ただ、あの人たちは自分たちの会社を大きくし続けることしか興味がないから。きっと一生会わないわ」

いつからか気づいたのは、いつも無機的な穏やかさしか漂わせないお姉さんの内側からにじみ出る寂しさ。

「主人もね、今は……今はここに来てくれるわよ。でもお互い、こんなふうに会ったりすることって……いつかは終わるって分かってるの」

出会ってから初めてお姉さんの中に見ることができたもの、それは……。

「きっと私は一生想い続けるけれど」

“人間”としての姿だった。


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