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14.朝焼けの空に放つ想い

【これまでのあらすじ】(第一部までのあらすじは第九話の前書きにあります。)第二部。医薬品の営業をする佳代にとって、上司の汐崎さんがくだらない社会の中で唯一咲く白い花のような存在となっていた。営業相手の理不尽な医者の態度に落ち込んでいると、汐崎さんは花火と優しい言葉を贈ってくれ、佳代はどうしようもなく好きだと実感する。ところがある日、汐崎さんが自分の姉に興味があるという状況を目の当たりにする。また、汐崎さんの些細な行動によりどういうわけか恋心が割られてしまったと感じた佳代は、汐崎さんを脳内再生してしまうようなこの状況をやめるために彼に何かを伝えなければいけないと思う。

逃がすことができる。

もう戻って来なくていいよ、と言うことができる。

今なら。

“想い”を朝焼けの空に放つ。

他に何もなくて、「人を好きでいる」という状況に救われていた私の想い。




私は自分の体をどこにでも持っていくことができた。

しばらくしたら始発のバスが停まるであろう住宅街の停留所。

人の姿がほとんどないひんやりとした朝の空気には、まだ二酸化炭素が少ないかのような軽さがあり心地良い。


もう一度、何もない自分に戻るには、きっと朝がいい。


夜だと、自分を含めた人の反省や心労や大げさな発散の重苦しさがまとわりつく。

溜息混じりの呼吸や経済活動によって排出された二酸化炭素による夜の重さの中で、もし優しくされるようなことがあれば、私はまたあなたに依存してしまう。


断ち切るために、今ここであなたを待つ。


それにしても、自宅からの最寄りではないバス停留所にいるのも不思議なのに、待っている対象がバスではなく汐崎(しおざき)さんだということもおかしかった。

ストーカーの素質があるのかもしれないな、ともぼんやり思った。

でもおそらく問題はない、この待ち伏せという行為も今日限りなのだから。


閉じかけた目が近づく振動に反応した。


バスは流れるように停留所で扉を開け、乗らない私に確認をするかのように()を作る。

扉を閉めながら発車したバスは、なめらかに朝の空気を縫っていった。


残されたのは私と、少し離れた場所からその私の存在にとまどい足を止めてしまっていた汐崎さんの二人だけだった。


「汐崎さん、お休みの日にすみません」


私がずっと好きだった人は、ボストンバッグを片手に“ここに存在しないであろうものが存在する”という何が何だか分からない表情を浮かべ近づいてくる。


「こんなところで何してるの?」


ここは汐崎さんのマンションからの最寄り停留所。

彼はバスの始発で駅に向かい新幹線に乗って、奥さんと子供のもとへ休日を利用して帰ろうとしているところだった。

昨日、帰ることを知った私は、今朝、最後の行動を起こした。


「あの、お話があるんですが」

「お……俺に?」


部下がこんな時間にこんなところにいる目的が自分に向けられていることに驚き、そして何か気まずいことが頭の中によぎって取り繕ったような笑みを浮かべた。


「違いますよ、姉のことではないです」

「……ん、あー、んっと。……どうした?相談事か?」


明らかにほっとしたような様子と何もごまかせてない切り返しに、初めて汐崎さんの格好悪い姿を認めることができた。


『奥さんや子供がいるのに、姉にちょっかい出すのやめてもらえませんか?』とでも言われると思ったのだろうか。

この人も人間なんだ。

朝の澄んだ空気が物事をクリアにしていく。


「相談というか……、もう決心はしてるんですけど」

「……そうか。とりあえず、ちょっと遠いけど駅まで歩いて話そうか?俺は今日愛知に帰るんだけど、新幹線の時間は何時でもいいから」

「すみません、お時間取らせて」

「全然いいよ」


初めて会った時から、無償の優しさがあった。

日々に弱っていると、尚更それが無性に効いていた。

私たちは、川の新鮮な光の瞬きを瞳いっぱいに吸収しながら橋の歩道を渡る。


「……仕事、辞めたいの?」


そういう相談だととらわれても仕方ない。

築いてきた関係性の結果。

受ける相談が仕事のこと以外である可能性を、きっと考えてもみようともしない。


「まぁいつかは辞めたいですけど……今のところ、辞めても他にやることがありませんね」

「……そうか。ん?じゃあ……」

「私と姉の違いってなんですか?」


川の向こう側から聞こえる電車の音が、私たちの会話に()を作る。

質問内容どうこうより、突然復活した「姉」という言葉に汐崎さんが再び困惑したうわべの笑みを作る。


「違います、これは私の話なんです。ただ単純に私が知りたいだけなんです」

「……俺の勝手な印象でいいの?」

「はい」


橋の終点にある信号が変わり、日の光にやわらぎ薄らいでいる赤色が見えた。

歩調をゆるめる私たち。


「お姉さんって何もかも、隠してるというか。見えないというか」

「はい」

「若い時からあんな感じだったんだろうな、って思う」

「そうですね…淡々としてました」


父がいなくなった時も。


「佳代ちゃんは……隠そうとしてるのに、見えてしまう」

「……何か見えてますか?」


少しどきりとする。


「仕事つらいんだろうな、とか。なんか寂しげな屋上とかで煙草吸ってるし。お酒はがぶ飲みするし」

「……ははは」


恥ずかしすぎる……。


「でも昔は隠そうともしてなかったと聞いたけどな」

「昔?」

「あんまり自分の話が好きそうじゃないお姉さんが、たまたまひとつだけ話してくれたんだ。“父が出て行く時に、気持ちを少しも隠そうとしないで全力でぶつかっていった時の妹が今でもうらやましく思ってしまう”って。まぁ、大人になった今では中学生の時のようにはいかないだろうけど」


姉の気持ちを初めて知って、横断歩道の手前で三歩ほど時間をかけて止まった。


「佳代ちゃんのいいところは素直さがにじみ出てるところだな」


川のほとりで鳥が羽ばたいたような音が響く。


「でも社会の荒波にもまれて、すれて、“気持ちは隠して、一人で噛み砕く”なんて、似合わないことをしようとしてる時もあるかもしれないけど」


信号が光らせたのは、爽やかな緑のような青色。


「佳代ちゃんは、できる限りもう一度自然体に戻ってみたら?」


父のことがあった後からずっと、どうにもならないことは言わないようにしてきたの。

そんなことを言われたら、言ってしまう。


「好きです」


点灯時間が短めの青信号が、木漏れ日のように点滅し始める。


「行ってくださいっ」


私は無我夢中で汐崎さんの体を横断歩道に押した。


「早く渡ってくださいっ」


叫んだ私に急かされて、向こう側の歩道に押し出される汐崎さん。

渡った後にこちらを向いて目を大きくしていた。


「好きでしたっ。今までありがとうございましたっ」


好きだった人に背を向けて、渡ってきた橋を走り戻る。

少し遠くにある一人暮らしのマンションへ、可能な限り全速力で走る。

赤信号につかまっても、膝に手のひらをのせて肩で息をすることだけを考えた。


どうにもならないことを変えられなくてもいい。

想いを告げきったことで、これからは……


心に積んできた花びらのようなものをじりじり燃やそうとしなくて済むんだから。


勢い良くマンションの正面玄関に到着し、インターホンの下に鍵をさし回してエントランスに身を投じた。


休むように手を置いた、自分の部屋の郵便受けを何気なく開ける。


そこに一枚のポストカード。


ぼんやり名前を見る。


「……お父さん」


手元のカードには白い花が咲いていた。

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