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10.火花の先にある虹

【これまでのあらすじ】(第一部までのあらすじは第九話の前書きにあります。)第二部。医薬品の営業をする佳代にとって、上司の汐崎さんがくだらない社会の中で唯一咲く白い花のような存在となっていた。

「メリットは何なの?」

医者の冷たい一言に、ここ一ヶ月間割いてきた時間が水中の泡のようにぷくぷく音をたてて、なかったことになったような感覚に陥った。

メリットなんてない。

他社の薬とどうしても同じような効能になってしまうものもある。そういう薬を他社の代わりに選び取ってもらうには、接待しかない。だからここ一ヶ月間かけて、人生において最も無駄な時間である接待という地獄に身を投下していたのに。結局この仕打ちか。医者の冷たい一言の後に、私はいつも用意してある「弊社の薬の効能」を科白のように繰り返す。

でも無駄だ。

最初からこの医者は、接待させたかっただけなんだ。

診察室を出ると、受付にはまるで医薬品の香りを漂わせているような白い花が飾られている。

この脱力感から気持ちを切り替える方法を、私はひとつしか知らない。


夕闇の中で、まるで地上より汚れていないかのようなひんやりした空気に身を置く。誰もいない会社の屋上で煙草に火をつける。

何かあったらここに来る。ここに来ても何もない、でも何もないところに来ることが心には必要。そして何もすることがないから火をつける。

今日あったことだって、たいしたことじゃない。よくあることだ。

煙を吐くと同時に、自分でも意識してないため息が混じり出る。

働いてる時間はロボットになればいいんだ。ロボット、心のない、傷つかない、ロボット。頭の中で、自分の体が火花を散らしながら組み立てられている様子を思い浮かべる。

その時突然、頭の中の火花が実際に夕闇に現れた。人影と揺れる火花。

花火だ。

「佳代ちゃん」

いつの間にか近づいていた汐崎さんは手持ち花火で何度か半円を描く。

「汐崎さんっ、こんなところで何をっ……」

火花は4月のひんやりとした空気に吸い込まれるように消えた。

「佳代ちゃんこそ。何かあった時はいつもここに来るんだろ」

きっと帰社時の暗い表情を見られていたんだ。私よりも16歳分生きてきて培われた落ち着きを持て余しているかのような、優しい振る舞い。

「……どうして花火を?」

「気づいたら鞄の中に入ってたんだよ。それを去年からずっとそのままで」

そう言っておもむろに、まだ数本持っているうちの花火のひとつにライターで火をつける。

言葉ではそのまま表現してなかったとしても、それが汐崎さんの子供による悪戯なんだろうということを推し量ることは簡単だった。見える悪戯と、見えない存在。でも必ずそこに影はあった。

「こっちの方がいい」

汐崎さんが一体何と何を比べているのか分からなくて、思考が止まりかけている私はただただ散る火花の花びらに心を奪われた。汐崎さんの顔は幻のように照らし出されている。

すると手持ち花火は突然汐崎さんの口に軽くくわえられた。

「わわ、熱いでしょ???」

落ち着いた大人がするような仕草ではないことにとまどいを感じつつ、どうしてだろう、まるで自分が社会人であることを忘れてしまう瞬間だった。

夢の中のような火の花は散り終える。

「煙草より、こっちの方が楽しいかもよ」

そう言って、ライターによって再び咲いた火花を片手に、もう片方の手で私の煙草を取り上げる。私はおそるおそる両手で火花につながる細い命綱のような部分を持ち、口に挟んでみた。

世界が過去に移動したのではないか?

全然熱さを感じないことへの楽しさ、普段間近で見ることのない火の粉の小さな迫力、いつ終わってしまうかも分からない早くも名残惜しむような気持ち。私の世界は病院の薄汚い白い壁と、くだらない数字と、煙草の煙混じりのため息で作られていたはずなのに。世界が過去に移動して、まるで小さなことに感動していた頃の学生時代の自分がここにいるような。

もしこの火花が散り終わったら、魔法は解けるのだろうか?

その問いに応じるかのように、目の前の花火の雨はやんでいく。

雨の先には虹があるもの。

「くわえてるものが花火だと、ため息をもらす暇もない」

雨の先に、好きな人が優しい言葉と共に微笑んで待っていた。

私は。

あなたのことが。

どうしようもなく好きだと思う。

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