WBA ~Wet Bet Adventure~
「はぁっ・・・はぁっ・・・」
銅の剣で体重を支えながら、彼女はこの絶望的な状況を打破する一手を模索していた。どんなに攻撃しても、銅より硬い体を持つこのゴーレムには全く効果がないのだ。かといって、逃げ続けることに何の意味もないことは彼女が一番理解していた。
「やああああああ!!」
思考を放棄し、全力で銅の剣をゴーレムの頭上に叩きつけようとしたその瞬間
ズドン!!
「がはッ・・・」
ゴーレムの振り回した凶悪に硬く太い腕が彼女のみぞおちを捉え、そのまま5メートルほど吹き飛ばされると地面をゴロゴロと転がり、やがてピクリとも動かなくなった。
「咲楽! もう起きないと遅刻するわよ!」
居間から聞こえる母親の大声をよそに、今月中学二年生になったばかりの咲楽は恥ずかしさと恐怖、劣等感、さまざまなマイナスの感情に埋もれ大粒の涙を流していた。
「咲楽!! いい加減に・・・はあ・・・。約束、覚えているわよね?」
「うん・・・グス・・・ヒッ・・・ウェッ・・・」
咲楽は泣きながらおもむろにパジャマの下を脱ぎだすと、濃いピンク色のパンツも脱ぎ捨てた。いや、元々は薄ピンクだったのだろう。そのパンツはクロッチ部分を中心に、大きく楕円状に濃いピンク色に変色していた。
バチン! バチン! バチン!
「痛っ・・・ん! ・・・あああ!!」
ベッドで四つん這いになった咲楽の年齢の割には発育の良いお尻をめがけ、母が平手で思いっきり何度も引っ叩く。そのベッドも中心から丸く、こちらは薄黄色に変色していた。
「ごめんなさい! おねしょして! ごめんなさいっ!!」
バチン! バチン! バチン!
「これで七日連続。約束したんだから、今日は早く帰ってきなさい。」
「・・・わかった・・・ううっ」
小学校を卒業し、もうオムツはやだと駄々をこねた咲楽に対し、母は「もしそれでおねしょをして布団を汚したら、10回お尻を叩かれると約束できる?」と迫った。昔に比べずいぶんとおねしょの頻度が減っていた咲楽は勢いでできると答えてしまったが、お尻を叩かれるということがどんなに痛いかを、まさか翌日に知ることになろうとは思いもしなかった。
「今日の17時から予約していた竹下です。」
「お待ちしておりました。隣のこの子が咲楽さんですね。咲楽さん?この紙コップの青い線のところまで、おしっこを入れてきてくれるかな?トイレはここを真っすぐに行ってすぐのところにあるからね。終わったら、あの銀色の箱の中に入れておいてね。」
「・・・わかりました。」
母と交わしたもう一つの約束。それは、もしも七日連続でおねしょをしたら、家の近所にある『五十嵐泌尿器科』に行くことだった。以前から、母は病院を受診することを勧めていた。しかし、その病院は咲楽の通っている小学校からも中学校からも近く、万が一クラスメイトに入るところを目撃されてしまうとおねしょしていることがバレるのではないかと思い、頑なに拒否していたのだ。
「初めまして、院長の五十嵐賢一と申します。」
「あら、ずいぶんと若い先生なのねえ。」
「もうすぐ27歳になります。」
60歳くらいのおじいさんを想像していた咲楽も、あまりの若さに驚いた。五十嵐は細身で優しそうな印象を受けた。咲楽は怖い先生だったらどうしようと思っていたが、ひとまずその不安は解消された。兄弟がおらず、クラスの男子もくだらないことではしゃいでばかり、部活にも加入していないため先輩と縁がない咲楽にとって、落ち着いた好青年というのは初めての存在だった。
(ちょっとこの先生かっこいいかも)
「咲楽ちゃんは、一週間に何回くらいおねしょをするのかな?」
「っ!!」
ほのかな恋心を抱きかけた相手から無情な質問を投げかけられ、咲楽は今自分がおねしょの病院にいることを思い出した。家族以外の人におねしょを知られたのは初めてだが、その相手が若い男性、しかもどちらかといえば美形な部類だ。ショックと恥ずかしさから、咲楽の目にみるみる涙が溜まっていく。
「恥ずかしがらなくても大丈夫だよ。ここには何人もおねしょをする人が来てて、その中には咲楽ちゃんみたいな中学生だけじゃなく、高校生や社会人もいるからね。」
中学生になってもおねしょが治らないのが自分だけじゃないというのは、咲楽にとって衝撃的だった。ただ涙の理由は五十嵐の想像とは少し違ったのだが。
「それに、ここだけの話だけど、僕も10年前まではおねしょしてたんだよ。だから、自分と同じ悩みを持ってる人を助けたいと思って、この病院を始めたんだ。」
「嘘・・・」
咲楽はさらに衝撃を受けた。まさかこの先生がおねしょを、しかも27歳の10年前ということは、高校生までしていたことになる。
いや、と咲楽は思いとどまる。相手はこの道のプロだ。患者の心を開くために、嘘の一つや二つ簡単につくだろう。ひょっとしたら、中高生や社会人でおねしょが治ってない人がいるという話から既に嘘なのかもしれない。
「咲楽ちゃんは、夜はオムツを使ってるのかな?」
「いえ・・・」
「この子ったら、中学生になった途端急にオムツを嫌がるようになったの。オムツをすれば布団を汚さなくてすむし、オムツをしておねしょしなかったからって別に何か損するわけでもないのにねえ。」
「嫌なものは嫌だよねえ。」
「は、はい。」
そう、理屈では分かっているのだ。それでも、どうしても、オムツを使うことは嫌なのだ。この感覚は、おねしょをする人間にしか分からない。それをこの先生は知っている。もしかしたら本当に・・・。
「最近急におねしょするようになっちゃった?」
「いえ、あの、昔からずっとで、でも、小6の時は一週間に1回くらいで、中学生になってから、急に増えちゃって・・・3日に・・・1回・・・くらいで、でもたまに何日もしなかったり、連続でその、しちゃったり、最近は一週間連続でしちゃってて、お母さんと一週間連続でおね、おねしょ、したら病院行くって約束してて、それで、今日来ました。」
恥ずかしさで言葉が上手く出なかったが、それでも五十嵐に心を開きかけていた咲楽は先ほど答えられなかった質問にも自分から答えた。3日に1回というのは少々盛った数字で実際はもう少し多いのだが。
「そうか、よく教えてくれたね。そうそう、僕が昔おねしょしてたって話は誰にも言わないでね。もしネットに五十嵐賢一は高校生までおねしょしてたなんて書かれたら、僕自殺するからね。」
「ぶっ・・・ふふっ・・・あはははは!!」
今まで暗い顔をしていた咲楽が初めて笑った。間違いなくこの人は本物だ。たかがおねしょごときで自殺なんて普通の人には絶対思いつくことすらできない。しかし、本人にとっては命を絶ちたくなるほど深刻な悩みなのだ。この人は、私の気持ちを完全に理解してくれていると咲楽は確信した。
「おねしょの量はどれくらいかな? パンツやパジャマが少し濡れるくらい?」
「ええと、その、シーツまでその、びしょびしょで・・・」
「うんうん、昼間に間に合わなくておしっこを漏らしちゃったことはあるかな?」
「な、ないですっ!!」
「ふんふん、過活動性膀胱炎の可能性は低く、尿蛋白も異常なしか。多尿型が濃厚だな。」
何か小さな声でブツブツと難しい言葉を呟きながら、五十嵐は咲楽が先ほど提出した紙コップに試験紙を漬しじっくりと観察した。咲楽は顔を真っ赤にしながら、先ほどの確信が少しだけ揺らいでいくのを感じていた。
「ンモーー!」
咲楽の脳天を目掛けて振り下ろされた斧を、最小限の動きで回避する。バランスを崩したミノタウロスの顔面めがけ、右手に持った鉄の剣で素早く切りつけた。身体がここ最近と比べとても軽く感じる。特に昨日は完全に鈍足状態で、ゴーレムに簡単にカウンターを喰らって力尽きてしまった。しかし今日は、モンスターの動きもはっきり見えている。
「ンモモモモーーー!!」
右目に傷を負い激高したミノタウロスの隙だらけの一撃を軽く躱すと、今度は力強く胴体を貫いた。ミノタウロスの姿が消え、徐々に視界が開けていく。
一週間ぶりに快適な朝を迎えた咲楽は、上機嫌で学校へと向かった。
「竹下さん、来週の水曜日の放課後新しいクラスのみんなでカラオケ行くんだけど、よかったら竹下さんも来ない?」
「ごめん、その日はちょっと・・・予定があって・・・」
「あ、こっちこそごめんね、無理にさそちゃって。忙しかったよね。また今度ね。」
「うん。」
(竹下さんってスタイルいいよね。)
(それに頭もいいし。)
(1年の時のテスト全部順位一桁だったらしいよ。)
(運動神経もいいよね、部活入らないのもったいない。)
(私なんも取り柄ないから羨ましい。)
カラオケを断られたクラスメイトが教室の後ろの女子の輪に戻ると咲楽の話を始めた。それは最前列に座っていた本人の耳にも聞こえていたが、褒められているにもかかわらず咲楽は非常に複雑な心境だった。
(水曜日はおねしょの病院だからカラオケ行けないなんて言えない・・・部活、やってみたかったな。でも合宿とかあるし・・・おねしょしない皆の方が羨ましいよ・・・)
「きゃあっ!」
3メートル上空からのワイバーンの突撃を躱しきれず、咲楽は地面に叩きつけられた。有効的な一撃を全く与えられないまま、どれだけの時間がたっただろうか。なんとか立ち上がり鉄の剣を構えた頃には、ワイバーンはもう既に上空の定位置に戻っていた。この状態ではどうやってもこちらから攻撃することが出来ない。たまに上空から勢いよく急降下攻撃を仕掛けてくるが、躱すことすらままならず、咲楽の身体はもうボロボロだった。
「こうなったら・・・」
咲楽は鉄の剣を両手で持ち、そのままワイバーンのいる方角に腕を伸ばした。ワイバーンが頭から突っ込めば、この剣に刺さってくれるかもしれないという、あまりにも無謀すぎる作戦だった。ワイバーンが咲楽に照準を定める。今回は避けない! と咲楽は覚悟を決め、両腕に力を込めた。恐怖に思わず目を閉じてしまう。
しかし、最後までワイバーンが降りてくることはなかった。倒れ伏した咲楽の体からプスプスと黒い煙が立ち上り、辺りに焦げた匂いが充満した。
「火球ブレス・・・そん・・・なあ・・・」
恨めしそうに呟くと、咲楽はそのまま力尽きた。
あれだけ長い夢を見ていたのに、辺りはまだ薄暗かった。時計を見ると、まだ朝の5時前である。普段は割と寝起きの悪い咲楽だが、今日は約一週間ぶりに早起きをしてしまった。下半身の「グショ・・・」とした感覚ほど、人の頭を覚醒させるものはない。
「うわぁ・・・」
一週間ぶりに描いた世界地図は、それはもう見事な大きさだった。今年の中で、いや、今までで一番大きいかもしれない。
「あ・・・そういえば昨日寝る前トイレ行ってない・・・6時間目の体育で疲れてたからかなあ。」
咲楽はおねしょをしないために、可能な限りの努力をしていた。夕食後には極力水分を取らず、寝る23時の直前にトイレを済ませるよう心掛けていた。22時に尿意を感じた時は、頑張って23時まで我慢した。その習慣が今回は裏目に出た形となった。寝る時刻の30分前に尿意を感じていた咲楽は、あと30分我慢しようとしたが、30分経つ前に寝落ちしてしまったのである。大きく濡れたベッドをよく見ると、円が二つになっていることが分かった。
「まさか私、一晩に、2回も・・・?」
例え膀胱を空にして眠っても、翌朝までにはオーバーフローしてしまうのだ。膀胱が満タンの状態で眠ったならば、ある意味当然の結果だ。
パンツとパジャマの下とベッドシーツ、今回はさらにシャツとパジャマの上までも汚してしまったためそれらを全て洗濯機に入れると、その物音で母が起きてきた。
「病院に行った途端に治っちゃったのかと思ったんだけどねえ」
ベッドを確認したわけでもなく、母は咲楽がおねしょをしたことがすぐに分かった。普段はなかなか起きない娘がこんな早い時間に洗濯機を回しているのだ。しかも全裸でである。
「丁度いいわ、お尻こっちに向けなさい。」
「え、ちょっと、こんなところで・・・いったいっ!! あああっ!!」
バチン! バチン! と洗面所中に乾いた音が響き渡った。
「えっと、6勝1敗でした。昨日まで6連勝だったんですけど・・・」
「凄いじゃないか! 先週は7連敗だったのに。」
「うぅ・・・」
先週のことながら、7連敗という屈辱的な響きに咲楽は顔を赤くした。今日は2回目の診察。本当なら、先週の診察から一度もおねしょしていないと報告し、五十嵐を驚かせるつもりだったのだが。
「今日は、おねしょの原因を特定しようと思うんだ。」
「原因なんて、あるんですか?」
「もちろん。おねしょは夜尿症といって、立派な病気の一つだからね。」
「病気・・・」
病気という一見マイナスな言葉に、咲楽は少し救われたような気分になった。
(そっか、私は病気だったんだ・・・病気なら仕方ない・・・のかな?)
「おねしょには大きく分けて『膀胱型』と『多尿型』の2種類があるんだ。膀胱が小さくて、朝までおしっこを溜めきれないのが膀胱型。起きている間でも、何回もトイレに行きたくなる場合が多いね。もう一つが、寝てる間でも昼間と同じくらいおしっこを作っちゃう多尿型。1日に8時間眠るとして、昼間なら8時間に1回もトイレに行かないなんて難しいでしょ? でも、夜寝てる間はおしっこが作られる量がすごく少なくなるから、8時間トイレに行かなくても平気なんだ。」
「咲楽はおねしょの量がすごく多いから多尿型かしら。今日なんて特に・・・」
「お母さん!!」
「ははは、お母さんの言う通り、咲楽ちゃんは多尿型でしょう。多尿型は成長が未熟で、体が小さい場合に多いんだ。」
「え? でも私、クラスの女子の中じゃ2番目に背が高いです。」
大きな体と他のクラスメイトより早く膨らんだ胸、それとおねしょという普通は小さな子しかしないことをしているというギャップが彼女のコンプレックスを大きくしていた。
「確かに中学2年生にしてはけっこう大きいよね。身長がね。だけど、多尿型にはもう一つ原因があるんだ。それが、ストレス。先週初めてここに来た時、咲楽ちゃんは中学生になってからおねしょが増えたって言ってたよね。中学生になって、何か変わったことはなかったかな?」
「はい。・・・中学生になってからオムツをつけないってお母さんに頼んで、それでその、おねしょをしたらお尻を10回叩くって約束をお母さんと・・・」
「なんですって!?」
「ひっ・・・」
今までずっと優しい声で話していた五十嵐が初めて大声を上げたので、咲楽はとても驚いた。
「お母さん、咲楽ちゃんが、自分がおねしょをしたらお尻を叩くように言ってきたのですか?」
「いえ、この子がオムツをしたくないなんてワガママを言うものなので、それなら早くおねしょが悪いことだと自覚させて治さないとと思い、少し厳しくすることにしたんです。オムツにする分には洗濯物も増えないので黙っていたのですが。」
「咲楽ちゃん、おねしょするのは、嫌?」
「あ、当たり前です!」
「そう、その通り。咲楽ちゃんだって、何も好きでおねしょをしているわけではありません。厳しくしたって、何の意味もありませんよ。ましてや、罰を与えるなんて言語道断です!」
五十嵐の声には怒りがこもっていた。まだ出会って2回目だが、咲楽は五十嵐が怒っている姿がとても珍しく思えた。しかし恐怖は感じなかった。自分のために怒ってくれているのだから。
「でも、私の母が、その、ええと・・・」
「お母さんが昔おねしょをしていて、それをお婆さんに厳しく叱られていたのですか。」
「そ、そうなの!?」
「なぜ・・・そのことを・・・!?」
「やはりそうでしたか。実は、夜尿症というのは遺伝性の病気なんです。夜尿症の約半数は遺伝と言ってもよいでしょう。」
「で、でも、そしたら残りの半分は・・・!」
「ストレスです。」
「!!」
「おねしょをする度にお母さんにお尻を叩かれることが、咲楽ちゃんにとってどれだけストレスになっていたか分かりますか? ただでさえおねしょで心に傷を負っていたのに、お母さんはその傷口に塩を塗っていたんですよ。」
「そんな・・・私のせいで・・・咲楽、ごめんなさい・・・!! 私、そうとは知らずに咲楽のお尻を何度も叩いて・・・おねしょが恥ずかしいって、私自身がよく知ってたはずなのに、咲楽の気持ちを考えもしないで、自分のことばっかり・・・」
母の目から涙がこぼれる。
「夜尿症は、未だ100%全ては解明されていない病気です。もしかしたら、他にも原因があるのかもしれない。ただ、これだけは約束してください。今後咲楽ちゃんがおねしょをしても、二度と叱らないと。」
「分かりました。先生、どうもありがとうございました・・・!」
この日、咲楽は恋に落ちた。
ちょこまかと動き回るゴブリンに、咲楽は苛立っていた。一発でも当たれば一撃の鋼の剣が、全く当たらない。少なくともこちらが負ける要素はなく、その緊張感のなさが命中率をさらに下げていた。
「こんのおおお!!」
大振りに振り回した剣を、ゴブリンは咲楽の股の間をくぐり抜け簡単に避けた。
「え? きゃあ!?」
ゴブリンの予想外の動きに咲楽は尻餅をついた。実は、咲楽がゴブリンに負ける可能性が一つだけあった。咲楽の急所である頭を、ゴブリンが持つこん棒で叩き割られることである。しかし、体格でも武器の性能でも大きく勝る咲楽が負けることは、よほどのことがない限りないはずだった。戦いの最中でうっかり転んで致命的な隙を相手に見せでもしない限り。
ゴブリンのこん棒が咲楽の頭部に振り下ろされ、咲楽はとっさに左手で頭を庇った。
がごん!!
咲楽の左手が痺れた。しかし、致命傷には至らなかった。咲楽の左手には、聖盾デスモプレシンが装着されていたのだ。致命的な隙を晒したのは、今度はゴブリンの番だった。
「それは面白い夢だね。」
「危うくゴブリンに負けるところでしたよ。」
2回目の診察から2週間後、咲楽はまた五十嵐の診察を受けていた。今回からは咲楽一人での受診となり、間隔も隔週になった。抗利尿ホルモンのデスモプレシンの副作用がなかったことを伝えると、話題は咲楽が以前から毎晩見ている夢の話となった。
「毎晩ソークエのモンスターが夢に出てきて、負けた時だけおねしょするなんて不思議だね。」
「一度戦わずにずっと逃げ続けてみたことがあるんです。でも、モンスターを倒すか私が倒されるまで、絶対に目が覚めないんです。」
5年前に発売され、国内外で累計三千万本を売り上げ空前絶後の大ヒットとなったゲーム『ソードクエスト・ファンタジー』。特に日本ではやったことのない人の方が珍しいとすら言われ、発売当初は学校や職場のみならず、商談の席ですらソークエの話題を出すのが鉄板であった。ゲームにそれほど詳しくない咲楽と五十嵐も同様で、特に咲楽は持っているゲームがこれ1本しかなく、何周もしているうちに持ち前の頭の良さでゲームのほぼ全てが頭に入っていた。
「ついこの間、寝る前にトイレに行き忘れてしまったんです。そしたらあの『ワイバーン』が出てきて。」
「あいつかあ。僕が一番嫌いな奴。何が空の王様だよ、ただ安全なところに居座り続けるチキンじゃん(笑)」
「寝る前に飲み物を飲んだ時なんかは、強いモンスターが出てくる気がします。あと、リラックスしてる時は装備が強くて体もよく動くのに、緊張してたり嫌なことがあった日は装備がすごく弱くて、体もあまり動かないんです。」
「ソークエといえば、あのラスボスだよね。」
「私も初めての時はビックリしました。やっと倒したと思ったのに・・・」
診療時間のほとんどをソークエトークに注ぐ二人。咲楽はこの時間が一番幸せだった。
「修学旅行の班はこれで決定です。」
「竹下さん、同じ班だね。よろしくね。」
「うん、よろしく。」
「竹下さんの班なら安心だあ。」
「小学校の時はマジで最悪だったもんね。」
2学期も中盤に差し掛かり、修学旅行の準備で慌ただしくなっていた。咲楽の通う中学では3年生を受験勉強に集中させるため、2年の秋に修学旅行が行われていた。咲楽にとってはこれが初めての修学旅行だ。小学校の修学旅行は、超大型台風のため中止だった。クラスメイトのほとんどが文句を言い、中には泣き出す人までいたが、咲楽にとっては正直ありがたかった。何年も前から、修学旅行のことは気がかりだったのだ。しかし今回は大丈夫という自信があった。もう30日もおねしょをしていない。学校から渡された手紙の『修学旅行に際して、学校側に伝えておきたいことはありますか? ※秘密は必ず守ります』という項目も『なし』と答えた。咲楽のおねしょを知っている人間は、親と五十嵐だけにしておきたかったのだ。
「30連勝おめでとう。この調子ならもう大丈夫かもね。ここに来なくてもよくなる日も、もうすぐだよ。」
修学旅行前最後の通院での五十嵐の言葉に、咲楽は後頭部を鈍器で殴られたようなショックを受けた。おねしょを治すためにこの病院に通っているのだから、おねしょが治ったらこの病院に来る必要はなくなる。そんな当たり前のことに、咲楽はたった今気づいた。
(おねしょを治したい。それは本当なのに・・・どうしてこんなに胸が苦しいの・・・?)
修学旅行は超過密スケジュールで行われた。浅草を巡り、スカイツリーに昇り、中華街を散策して赤レンガ倉庫で夕食を取った。自宅の食事や学校の給食とは比べ物にならない美味しさで、咲楽はついつい食べ過ぎてしまった。ホテルに戻り入浴を済ませた頃には班の全員がへとへとになっていた。
「ねえ見て、じゃーん! スイカ!」
「え!? ちょっと、どっからそんなもの持ってきたの?」
「ホテルに来る途中の自販機で売ってた!」
「東京の自販機すげえ!?」
「竹下さんもほら、一緒に食べよう?」
「えっ・・・私は・・・」
「ああ、いらないなら無理しなくても大丈夫、だよ?」
「ううん、食べるよ、ありがとう。」
(あとで絶対にトイレ行かなきゃ)
「おいしーい!」
「ねえ、みんなは誰か好きな人いる?」
「まだそれ早いよー消灯時間過ぎてからやるもんでしょ。」
「いいじゃん、竹下さんは大人っぽいし、好きな人、いるの?」
「・・・うん。」
「「「キャー!!」」」
「誰? 同じクラス? 年上?」
「えっと・・・確か、27歳くらい。」
「「「キャー!!」」」
「2倍だよ2倍!」
「一回りも上じゃん」
「その相手は竹下さんのことどう思ってるの? まさか、ロリコンなんじゃ・・・」
「それが・・・私のことなんか全く眼中にないって感じで・・・」
「お子様には興味ありませんよーって感じかー」
「竹下さん見た目大人っぽいのにねえ。」
そんな他愛のない話をしている間に、東京中を歩き回った疲労が皆にドッと押し寄せてきた。消灯時間を待つことなく、班全員が夢の世界へと誘われていった。
ブラックドラゴン。
ガキンッ!!
「そんなっ!」
その硬さはゴーレムをも上回り――
ブウウゥゥゥン!!
「ひぃっ!」
その破壊力はミノタウロスを凌駕し――
ブアサッ・・・ブアサッ・・・
「くッ!」
その高度はワイバーンを超え――
ビュンっ! ドガッ!!
「ごぼあッ!!」
その速さはゴブリンですら及ばない――
まごうことなきソードクエスト・ファンタジーのラスボスである。
より硬い体からより強い破壊力を持つより高い所からのより速いスピードの攻撃を受け、咲楽の命はもはや風前の灯火だった。
ブラックドラゴンの口の周りに空気が集まり、赤く燃えていく。火球だ。それも、ワイバーンのものとは大きさも温度も桁違いのものだ。咲楽はとっさに左手の聖盾デスモプレシンを構えようとした。が、あるはずの聖盾がそこにはなかった。
「どうして・・・あ! 赤レンガ倉庫で薬を忘れて、ホテルに・・・何、何のこと? 赤レンガ倉庫? 薬? ホテル? あああああああっ!!」
ここではない世界の記憶が流れ込んでくる。浅草、プリント、お母さん、五十嵐先生、修学旅行、ソードクエスト・ファンタジー、夢。
ここは、夢のなかだ。
そのことに気づいた瞬間、咲楽の体は宙に浮いた。みるみるうちに上空のブラックドラゴンとの距離が縮まっていく。火球が猛烈な勢いで飛んでくる。咲楽はバッと左手を大きく開くと火球に向かって突き出した。火球が一瞬で雲散霧消する。右手に握った鋼の剣に念を送ると、瞬く間にそれはソークエ最強の武器、エクスカリバーに変化した。
明晰夢である。自分が今夢を見ていると自覚することで、あらゆる不可能が可能になり、全てが自分の思い通りになる。
「はあっ!!!」
一閃。
ブラックドラゴンの体が二つに裂け、そのまま落ちていった。
すべての力を使い果たし、床にへたり込む咲楽。エクスカリバーは元の鋼の剣に戻り、もう何を念じても変化は起きなかった。もはや普通に体を動かすことすらできない。でももう大丈夫。あとは視界が開けるのを待つばかりだ。
その時、ブラックドラゴンの裂け目から、紫色の頭が覗いた。やがて翼、両手、胴、両足が出現し、まるでサナギの羽化のようであった。
「そうだったね・・・」
咲楽は自嘲気味に笑った。何故先ほどの段階で思い出せなかったのだろうか。ブラックドラゴンには、第二形態『サタン』があることを。
咲楽は下半身が暖かくなっていくのを感じた。それは痛覚のないこの世界において、初めてのリアルな感覚だった。
ここは、どこだろう? なんだか途方もない夢を見ていた気がする。天井が白ではなく茶色だ。ここは自宅ではないのか。下半身にここしばらくなかった強烈な違和感を覚える。思考が遅い。それは、脳が現実を受け入れることを拒否しているからかもしれない。
「竹下さん、やっと起きた? 意外と寝起きは悪いんだね。」
嫌だ。
「早くしないと朝食バイキング無くなっちゃうよお。」
嫌だ。嫌だ。
「無くなんないって。でもお腹すいた、竹下さん、早く起きて朝ごはん食べに行こう。」
嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ・・・
「いやああああああああああ!! うわあああああああああああん!」
「え!? ちょっと、どうしたの!?」
「竹下さん落ち着いて!? 一体なにがあったの!?」
「えっと、ホームシック? 泣かないで? ね?」
「うううううううっ! ひっ! んくっ! ああああああああっ!」
「どうしよう・・・誰か、先生読んできて!」
「分かった!」
「竹下さん、1回深呼吸しよう? 大丈夫だから!」
「ん・・・グスッ・・・私・・・布団・・・ううう・・・」
「え? 布団がどうしたの?」
「う・・・ひっく・・・うわあああああああ!」
「あー分かんないよお! どうすればいいの・・・」
「先生連れてきた!」
「あらあら、どうしたのよ竹下さん。」
「何か、布団がどうとか言ってずっとこの調子なの。」
「布団?」
駆け付けた女教師が咲楽の布団をめくると、丸いシミが出現し、辺りに独特のアンモニア臭が立ち込めた。
「うっ・・・私・・・ごめんなさい・・・ぐすっ・・・ホテルの布団・・・汚しちゃった・・・」
「うそ・・・」
「竹下さんがおねしょ・・・」
「ビックリ・・・」
「まずは布団から出ましょう、フロントに謝りに行きましょうね、私も一緒についていってあげるから。まずは着替えなさい。」
「はい・・・ぐす・・・」
咲楽が布団から出ると、学校指定のハーフパンツのお尻の部分が大きく濡れていた。
「みんな、あんまり見ないであげて。それと、このことは、他の班の人には絶対言わないでね。」
「はい。」
「もちろん!」
「分かってます。」
「ごめんなさいね、うちの生徒がこちらのお布団を汚してしまって。」
「・・・」
「いえいえ、お気になさらずに。毎年のことですから。クリーニング台も料金に含まれておりますし。」
結局フロントスタッフへの状況の説明も謝罪も女教師が一人で行い、咲楽はその横でただ立っているだけだった。
「気にしなくても大丈夫よ。毎年必ずいるのよ、あなたみたいに失敗しちゃう生徒が。」
「はい・・・」
先生やホテルの人は気にしなくていいと言ってくれたが、はたして他の生徒はどうだろうか。きっと幻滅しただろう。これから卒業するまでずっと、からかわれたりイジめられたりするんだろうか。咲楽は部屋のドアを開けるのがとても怖かった。心の準備に1分ほどかけ、意を決してドアを開けた。
「竹下さぁん!」
ドアを開けると同時に咲楽はいきなり抱き着かれた。
「大丈夫だった? 怖くなかった? 怒られたりしなかった?」
「うん、大丈夫・・・気にしないでって。」
「良かったあ!」
これはいったいどういうことだろうと咲楽は疑問に思った。おねしょをするという大失態に加え、あれだけ泣き喚いたのだ。ドン引きされても不思議ではない。
「正直今まで竹下さんって近寄りがたいなって思ってたんだけど・・・意外と可愛いね!」
「え・・・!?」
「なんというか、親近感? 勉強もスポーツもできるけどこういう一面もあるっていう。」
「竹下さん人間だった!」
「お前は竹下さんをなんだと思ってたんだよっ!」
「・・・ふふっ」
「あ! 竹下さんやっと笑ってくれた! 笑うとやっぱり可愛い!」
「今日のことはこの4人だけの秘密! 約束だよ!」
「ねえねえ、今から竹下さんのこと、咲楽ちゃんって呼んでもいい?」
「あ・・・うん! いいよっ。」
「あ、ズルい私も! 咲楽さん!」
「咲楽!」
「みんな・・・ありがとう・・・!」
(おねしょする私を、みんな受け入れてくれた。ううん、おねしょがきっかけで仲良くなれたんだ。それに五十嵐先生とも出会えた。きっと、おねしょも含めてこれが「私」なんだ。またおねしょしちゃったから、しばらくはあの病院に行かないとだね。先生、私がブラックドラゴンを倒したって言ったらビックリするかな?)
完
今から約7年前、「おもらし特区」というサイトでおもらし・おねしょ小説の執筆に初挑戦しました。そのサイトは閉鎖されてしまい、執筆することもなくなりましたが、ここ最近のおもらしをテーマにしたコミックの急増により「自分がもし漫画家ならこんな話を書きたい」と空想するようになりました。私は漫画どころかイラストの一枚も描けないので諦めていましたが、ふと7年前に自分が拙いながらも小説を書いていたことを思い出し、小説ならば空想が形にできるのではないかと思い丸一日かけて一気に書き上げてみました。
夜尿症に関する知識は私が趣味(と実体験)で集めたものですが、私自身は医者でもなんでもないので本文中の夜尿症に関する記述は誤りである可能性が大いにあります。
この話はだいたいフィクションであり、登場する人物・団体・名称等は架空の物が多く、実在のものとはあまり関係ありません。