スラムの頭目、貴族の筆頭
目の前に平坦な闇が広がる。それが自分の瞼の裏側だと理解するのに数秒かかった。
ヨトゥンは意識が覚醒するのを感じてはいるものの、とても起き上がる気分にはなれない。身体から熱が引いていき、暗く冷たい世界に堕ちていく感覚―――死というものを味わったのだから当然だ。気分は最悪である。
恐らく身体を動かせば背中に激痛を感じることだろう。
だがヨトゥンはここで冷静になった。
「は・・・あれ・・・?」
背中が痛くない。それに心地いいほどの暖かさを感じる。ふかふかと雲に包まれるような、身体が沈みこむこの感覚はもしや。
「ベッドじゃないか・・・?」
ヨトゥンは思わず身を起こし、自分が眠っていたその下を手で触って確かめた。さらさらとしたシルクのシーツは触り心地が抜群だ。そして何より、そこにはさっきまで横になっていた自分の体温が残っていた。ヨトゥンは愕然としながらも、その事実に自分が生きているということを実感したのだ。
しばらく呆然としているとノックの音が耳に飛び込んできた。ヨトゥンは周りを確認する。そこはまるで王宮の一室かのような大きく上等な部屋だった。
ドアの向こうから、失礼しますという女の声が聞こえる。
未だ状況が掴めないヨトゥンだったが、彼の人柄か、ヨトゥンは反射的に返答した。
「はい、どうぞ――――」
「はい今日もお世話しま――――」
返答を待たずに女は入ってきた。結果、ドアを中途半端に開けたメイド姿の女と目を合わしヨトゥンは硬直する。ヨトゥンは咄嗟にまずいと思い、自分が何故見ず知らずの部屋で眠っているのか分からないことと、しかし自分が決して怪しい者ではない(テロリストではあるが)ことを説明するため高速で言い訳を構築していく。だが相当パニックに陥っていたようで、対外的にはあたふたしているだけだ。
メイドは目を丸くし、手に持っていた桶を床に落とす。そしてすぐに大声で叫んだ。
「シ、シェイツマン様が・・・シェイツマン様が目覚められましたあああああああああ!!!」
にわかに騒ぎだす屋敷内。ヨトゥンはてっきり悲鳴をあげられると思っていたから、予想外の反応に困惑するしかなかった。
「シェイツマン様!御気分は如何でしょうか!?」
「あ、ああ。悪くない・・・です」
「シェイツマン様!何処か痛いところはございますか!?」
「いや、別に・・・」
「シェイツマン様!何か口にしたいものはございませんか!?」
「まあ特には・・・」
「シェイツマン様!」「シェイツマン様!!」
メイドが叫んだと思ったら、すぐにたくさんの者達が集まってきてヨトゥンを取り囲んだ。皆が何故自分にここまで気を使うのか分からないが、こう周りから口々に叫ばれても鬱陶しいだけだ。だからヨトゥンは小さく、それも少々暗い声で思わず呟いた。
「うるさい」
その瞬間、場の空気が一変した。先程まで大声で叫んでいた者達は水をうったように静かになり、その顔面は青ざめている。一秒遅れて全員が後ろに身を引き、ガタガタと足を震わせながら直立しだした。
ヨトゥンもこの変わり身には内心驚きを隠せないでいた。確かにちょっと冷たい物言いになってしまったかもしれないが、ここまで警戒しなくてもいいのではないか。
ヨトゥンは何かに恐怖する面々に対し何も言えないでいると、またも部屋に入ってくるものが現れた。皆の視線がその者に集中する。ヨトゥンもそれにつられて視線を移した。
その第一印象は炎。目も覚めるような赤いロングヘアーに、強い意志を持った大きな瞳。女でありながら革の胸当てを装備し、腰には丈の長い剣を帯びている。その身なりはさしずめ冒険者、いや剣士といったところだろうか。こちらに歩いてくる挙動一つ一つも洗練されていて、かなりの遣い手だと分かる。
女はヨトゥンが座るベッドの前に膝まずくと、凛とした声で話し始めた。
「シェイツマン卿、お初にお目にかかります。私は第7魔法騎士団ハル・ロートと申します」
「はあ、どうも」
「まずはお目覚めになったことをお祝い申し上げます」
「はあ、どうも」
「・・・っ。シェイツマン卿、貴方にお願いしたいことがございます」
ヨトゥンが気のない返事をしていると、流石にイラついたのかロートは微妙に声を詰まらせる。それが少し面白かったので、これからもこのスタンスを貫こうとヨトゥンは心に決めた。
ロートが反応を待っているので、ヨトゥンは話の続きを促した。
「お願いしたいこと?」
「・・・はい」
ロートは意を決し、ヨトゥンの顔を上目遣いで睨み付けた。
「殺すのなら、私を殺しなさい。この者達の罰なら私が受けるわ、シェイツマン・ユグドラシル。」
ロートの変わり身もなかなかのものだが、今回はヨトゥンもあまり驚かない。それは決して慣れたというわけではなく、彼の思考がある固有名詞にとらわれ他のことが考えられなかったからだ。
シェイツマン・ユグドラシル。確かに彼女はそう言った。世界樹の名を出されるまで気づけなかったが、シェイツマンとは"7"を表すこの世でただ一人に許された名―――世界に君臨する七家筆頭が名乗るものであった。
その人物はヨトゥン自身もよく知っている。何故ならその七家と戦う世界唯一の勢力を率いていたのが自分であったし、七家最強を謳われながら寝たきりとなっていたシェイツマン・ユグドラシルの話はあまりにも有名だったからだ。
考えれば考えるほど意味がわからない。意味は分からないが、確かに自分は死なずに今ここにいて、シェイツマンとして認識されている。ここでカミングアウトすべきか否かヨトゥンは迷ったが、彼自身もまだ理解できていないのだ。周囲が分かってくれるはずもない。
このとき、ヨトゥンは混乱のあまり口角をにじり上げ、虚空を見つめながら暗く微笑んでいた。本人も気付かない無意識の行動にロートは、言い知れぬ不安と底無しの残虐性をヨトゥンに感じたようだ。背筋が凍り、汗が頬を伝う。ヨトゥンが考えるのを止め、ロートと目を合わせると、それだけで彼女は心臓が破裂するほどの圧迫感を覚えた。これから彼の口からどんな言葉が飛び出すのか、まるで裁判にかけられているかのようだ。
そして、ヨトゥンは遂に口を開いた。
「とりあえず風呂に入りたいです。」
「やっぱり別人だな」
鏡を見つめながら、ヨトゥンは独り言を呟いた。顔は精悍、といえるだろう。目鼻立ちはしっかりしている。長年寝込んでいたとは思えないほど肉体も良く引き締まっている。そういえば腹も減っていない。これはどういうことだろうか。
ヨトゥンは取りあえず風呂に入り、大きく息を吐いた。どうやら自分が別人になって目覚めたことは確かなようだ。自分がシェイツマンであるかどうかなどは確認のしようがないが、それはまた追々考えていくとしよう。
湯船でリラックスしていると、後ろから人が入ってくる気配を感じた。音を限りなく消して歩いている。布の擦れる音も聞こえないから、おそらく裸で近付いてきているのだろう。それは長年戦いの中に身を置いてきたヨトゥンだから分かったことである。
「動くな」
ヨトゥンは振り向かずに自分に近寄る不届き者に話しかけた。