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てのなかのもの

 そうだった。僕は、泣く泣く家を出たのだった。お母さんと同じになれずに。お母さんの言うとおりのいい子で居られなくて。

「帰りたい……」

 そうふり絞ってつぶやいたら身を黒く取り巻いていた粒子が端から次々と目の前に集まっていく。

「でも、僕、お母さんと同じように考えられない。お母さんの言うとおりできない……」

 集まってきた黒い粒の上に僕の涙がぽつん、とひとひら落ちる。

 涙が黒を洗い流し、それにつれて色をまとって輝きだした粒たちに驚いて息をのみ、思わずその下に手を伸ばし、手のひらに集まった光の粒を受ける。

手のひらに光の流れがどんどん集まってくる。

 粒はますます凝集し、塊になって光を放つ。薄明るいだけだった空間に、溢れて視界を奪っていく。

 プリズム。分解された白は七色と不可視の光になって、僕と目の前の虹介をあらゆる色に染め上げる。

「お母さんと、一緒に、一緒の家で暮らしたい、でも、お母さんの言うとおりに出来ない」

 言葉にして言ってしまうと、たったそれだけのことだった。

 それだけのことが言えなくて、僕は家出をし、悪夢を見ていたのだ。

 手の中のその光は輪郭を得て大きくごろりとダイアモンドのような形が出来る。中は透き通って光が乱反射していた。

ちかちかと光はゆるんだり強まったりしている。

 少しずつその光にも慣れて虹介が見えるようになっていく。

「それが、願い」

 光の向こう側から、虹介が言った。

「かさねの、願い」

 貘の姿のままだったけれど、笑ったのがわかった。

「叶わないけど、お母さんの言うとおりしたかったんだ、かさね。それで、お母さんと、一緒に居たいんだよ」

 虹介は貘の姿なのに、また笑いながら、泣いていた。

くろぐろとした睫毛が濡れそぼって重たげに光る。

「しあわせ、って、苦しいのも、願っていることを諦められたりすることも、その中に入るんだね、おれ、ぜんぜん知らなかった……」

 僕は呆然とその様を見て、虹介と一緒に声をあげて泣いた。

きらきらの願いに戻った悪夢は、夢のように美しかった。

これが僕の願い。

「よかった」

 どちらからともなく、そう呟いた。

 僕は、驚きが去って、本当に虹介を人を苦しめる悪い行いをしたものにせずにすんだことに安心していた。

 悪夢を苦しみ遂げた。

 破裂してしまわなかった、融けて一緒になってしまい、消えることもまたなかった。

 自分で選びとり、自分の足で歩き、自分の足で家を出た。

 それは現実で事実したことと全く同じだった。

 僕はあの時あの場所でああするしかなかった自分を知る。

 そう、何度でも僕は家を出ただろう。

 それを選んだことに後悔に似たものはあったけれど、それはもう後悔ではなかった。

 しかたのないこと。受け入れなければしかたないことだ。

 そうして悪夢を苦しみ遂げた。

 虹介が、鼻先でそっと願いの塊を押しやったら、加えられた力に従って塊は僕の胸に触れ、なんの抵抗感もなく入って胸の奥に消えた。

 空虚だったそこに、すっぽりと収まって、やっぱりそれは僕の大切な一部分だったことを全身に感じた。なくした心臓を与えられたらこんなふうに巡り始めるだろうか。

 僕は、もう暗くはなくなった周囲から浮かびあがる虹介の白黒を指先で撫でて、跪いて抱きしめる。

 この、人の安らぎを守るために働く素晴らしい生き物に出会えた。

貘を追いかけるための薬をくれた努々屋に、探せと言ってくれたよるに、眠る場所を与えてくれた先生に、哲夫さん、指差してくれたすぐるさん、思い起こし思いを巡らせれば涙は止まることがなくて、腕の中の温度をしっかりと抱きしめる。

「ありがとう」

「くるしいよ、かさね」

 虹介が頭を僅かに振った。声は吐息で笑っている。

「ありがとう。今まで預かってくれて、僕、よく眠れた」

 僕はその黒い頭を撫でる。首筋に向かって何度も何度も。

 手に余るほどの、短い毛で覆われた頭。

「嘘だよ、こんなところまできちゃった癖に」

「ううん、虹介が預かってくれたから休めた。だから必要だってわかって、今元気になって自分で悪夢が見られたんだ」

「うん……。おれ、これからは取り戻しに来た人には返すことにする」

 食べるものが減ってしまうようなことをまるで何でもないことのようにさりげなく言ってのけて、僕に鼻先を擦りつける。そのお腹がなんだかしぼんでしまった気がして手を伸ばして触る。

「うん……おなか、空いてない? 虹介」

「ぺこぺこだよ。今日はさんざんだ。くいっぱぐれてまだ一か月は反芻するつもりだった夢を返しちゃった。また誰かの悪夢を見つけなきゃ」

 そこで僕らはふふ、と笑いあい、涙で濡れたまんまの自分の頬を、お母さんがアイロンをかけて持たせてくれたハンカチで拭う。

 それを取り出す拍子にぽろぽろとポケットから努々屋の薬が落ちた。それを虹介がつんつんと鼻先でつついてくわえた。

「ああ、これ……これは多分もう、かさねには使えなくなると思う」

 虹介はそわそわと急に落ち着きを無くし、その場で足踏みを始め、周囲を見渡し始めた。

 薬を目を細めて見ている。

「夢中で夢を見るようになるから?」

様子に疑問をおぼえながらもそれに触れずに笑顔で問い返す。虹介は僕を見て肯いた。

「そう。ちゃんと眠れるようになるよ」

「じゃあ、虹介に預けていい?」

 努々屋に届けてもらうには同じ夢の住人の虹介の方がきっといいだろう。そう思って薬を拾い集めていく。

「薬じゃお腹膨れないよ、それに……」

 虹介が嫌そうに顔をしかめた。

そこに影がさすようにぬうっと、それはそれは唐突に努々屋が現れた。ジッパーを開くように空間を割いて、僕と虹介の間に踏み出してくる。

 僕の居た博物館のこちら側には来れないのではなかったのか。見送られた石畳を思い起こして瞬いた。口を開いたはいいけれど言葉も声も出ては来なかった。

「なんだ、首尾よく貘が泣いているじゃないか」

 努々屋は満足そうにそう言って虹介の口元から薬を取り去り、袖の内側に落とし込んでしまうと、今度は虹介の頭を無造作に鷲掴みにして小瓶に涙を採った。一滴残らず採ろうと揺すっている。

「努々屋さん!」

あっけにとられたのが過ぎると思わず僕は叫び、拾った薬を放り捨ててその腕に取り付き、虹介を解放させようと引っ張った。

「何かね。邪魔をするんじゃない」

 そう僕に言って片手に取り付いた僕は肘で振り払い、残る片手は嫌がって後ずさりする虹介の首筋の皮膚を掴んでいる。

 もっと虹介を泣かせようとしているのだろう、睫に努々屋が手を伸ばす。

 僕はその手をひっかいて両手で胸に掻き寄せる。

「虹介をそんなふうに……っ」

 ついさっきまで感謝していた努々屋のすることを止めさせようと、僕は必死だった。

相手の体格はりっぱな大人、自分はほそっこいこども。

 でも、僕はどれだけ力に差があっても絶対に虹介をそんな風に扱って貰いたくなかった。

 全力で暴れる。

 どこをどうすればいいのかなんて知識もなければ体験もない。だから僕のしていることはまったくでたらめだった。

 努々屋の頬を引っ掻いて虹介を掴んだ手指を一本ずつ引っ張り剥がして、呻いて喉を締め付けられ声すら満足に出せないでいる虹介を自由にさせてやろうと、努々屋の懐へ入り込んで虹介との間に入ろうともがく。

それに対して努々屋はその片手に親指で蓋をした瓶を握っているというのに、拳の部分で器用に僕の胸骨を突いて押しのける。

努々屋は大した力も入れていないようなのに押し戻されてしまう。

体の重心をつかまえて僕の体を操っているのだ。

そんなやり方に対抗する方法を僕は何一つ持っていなくて、何度繰り返してもどうしても間に入ることが出来なかった。

ほとんど片手であしらわれてしまう自分の無力さに、悔しくて腹立たしくて、唇を噛みしめる。にらむことしか出来ない。

思い余って一度体を大きく引き、彼らから離れた。

考えるだけ無駄だった。

 虹介を抱える努々屋の体に全身でぶつかっていく。努々屋のお腹に頭が当たるように体を少し縮めて、首にありったけ力をこめた。

 ぐらりと一歩だけ虹介と努々屋が離れる。

 けれどもそれで十分だった。大きく身を捩って虹介は努々屋の腕を逃れた。

「かさねぇっ」

振り返った僕の方を見て叫び、走り去りながら虹が消えるように一瞬のうちに消え失せた。

 僕は、詰めていた息を吐いて口を強く噤む。

「逃げちまったろうが、もっと採れたものを」

 努々屋は僕に虹介が僕のために流してくれた優しい涙を突き付けて怒声を吐いた。

 背筋を伸ばせるだけ伸ばして彼に正面を向ける。

「さよならも言えなかったじゃないか!」

 最初に湧いた言葉をそのままにぶつけた。体当たりした時みたいに、肩に力を込めて。

 ぎろりと白目の多い目をうごめかせて彼は僕を見た。

「お前はもう、目的を果たしたんだろう。その後俺が貘をどうしようと勝手だろう」

「虹介嫌がってたじゃないか」

「貘は希少だ、その涙ともなればどれだけ薬が作れて、どれだけ人が夢から自由になれるか、わかるか」

 僕は、言葉を失った。もしかしたら、僕の貰った薬というのは、貘の涙や貘の体で出来ていたのではないか。獏の命を知らずに奪って利用していたのではないか。

 心臓が早鐘をうち、耳鳴りがするほど頭に血がのぼっていく。

「僕を、利用して貘を捕まえるつもりだったんですか」

「それはこの出来事の一面だ」

 けしてそれは否定の言葉ではなかった。それに唖然として気づけば生まれて初めて人の頬を打っていた。

 骨のぶつかり合う湿った音。それに鈍い感触と酷い痛みがあった。

 ほんのわずかながら、努々屋がよろめいた。表情こそ険しかったけれど、大したことではないらしく、打たれた頬に注意を払う事すらしなかった。

 立ちなおす彼を睨みつけて、体をいっぱいに使って叫ぶ。

「貘をあんな目にあわせてるんですか、いつも」

 僕は信じられない思いをそう吐きつけたのに、努々屋は平然としていて、けれど、最初出会った時のような親切な顔はもうそこになかった。

 見下す目つきで一歩間を殺してくる。

「そうだ。だが私ら薬屋は一枚岩じゃない。とっ捕まえて頭っから尻尾まで残らずぜぇんぶ薬にしちまう奴も居る。だから薬屋と見れば貘は逃げて姿を隠す。君に教えなかったのは貘を見つける案内が欲しかったからだが、少しの工夫で採れる時に必要なものを見逃すのは夢にしかもう住処の無い薬屋のすることじゃねえのよ。そんでな、貘に会いたい、その処方を君にしてやるのも薬屋なんだよ」

 彼がくれた薬に助けられたのも、彼が貘を殺してしまう薬屋とは違うのだということも、全部それで飲み込めた。

 僕の怒りは幾分か勢いを失って、次ぐ言葉を見つけられずに唇を震わせるだけだった。

 彼は、僕を殴り返すこともしなかった。

 彼の頬はひっかき傷と痣で赤かった。

 殴り方も知らずにふるった拳は夢の中を出ていないというのにじんじんと痛んだ。殴りつけた瞬間よりもより強く、焼けるように感じられた。

 唇を噛んで、俯く。

 それでも、虹介に対する振る舞いを許せず、彼の事情もまた分からないとは言えず。

ついつい僕は反発する心から憎まれ口を利いた。

顔を上げてくってかかる。

「忘れないからな、努々屋。虹介は、きちんと話せばあなたに間違いなく涙をくれた。僕に夢を返してくれたくらいなんだから。」

「おう願ったり叶ったりだとも。憶えていてくれる人が絶えれば私の命も絶えちまう。憶えてろ、私が夢に渡りの入れ薬屋、努々屋。――努々屋だ」

 たんかを切って僕の体をどん、と強く跳ね飛ばすと僕はその夢から追い出されてしまった。


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