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あくむ

 瞼が先に開いて睫毛が後を追った。けれども見えるのは光ではなくて、行ったことなんかないけれど、青みがかった風景は海底のそれを思わせた。ずっしりと体を押し潰すみたいな圧が感じられる、深くて分厚い闇で満ちている。幸いに透明さだけはやはり深海めいて湛えられ、全く先が見えない訳ではなかった。距離がそのまま青さに変換されて、近くだけは透明で、手が届く程の距離より先は一様に青い。青が重なりあって暗く深く遠く、爪先も青みがかって見えている。

 足に触れる床を踏みしめ踏みしめ進んでもいつもの半分も進めていない。風景も視点もまるで変わらない。どれだけ早く足を動かしても力をこめても変わらなかった。気力を失って歩いているせいのか、空間が圧しているせいのか、とようやく気持ちが巡る。それを考えるのに意味なんかない。そう頭をゆるく振って。

何をしても無駄で何をしても進めはしないのだろうか。本当に進んでいないのか。ただ床に目を凝らす。


 ――僕の、家だ。


 そう気づかせたのは、進んだ量を確かめるために俯いて見た足元、床のモザイクタイルを真似た模様だった。青く沈んだ中でもそれは目に馴染んだ模様を描いてたしかにあった。模様を踏む爪先の、その先。そのひと模様ひと模様の隙間から光を孕んだものが見える。

いくら足を動かしても進まないのは滑っているから、流されているからだ。立ち止まるとそれがわかる。足元の模様が止まっているにもかかわらず足の下で動いていた。光を孕んだ何かと一緒に。

 ぬちゅり、と鳴った。おだやかさばかりはいつもの家と全く同じ。独り帰った時のように暗くて、それもいつもの家と同じ。床下でまた何かがぬめりを帯びて動く音がする。耳が痛むほどの静寂の中、それだけが違っている。

 隙間なんて無い筈の隙間からは燐光が漏れて、ゆっくりと下から突き上げて盛り上がってくる。蛸の脚だ。吸盤が無数に貼り付いた脚。ひとつひとつが半透明の液体を纏って伸びていた。ぐんにゃりと定形なんてどこにも持たないような、けれどこごったその形がうごめき盛り上がり床が持ち上がってその分だけ光が増す。青白く青白く、熱や温かさと縁のない光が海の底の闇を仄暗くする。山になり坂道になった床の上を進もうと踏み出すとその脚が分泌したらしい透明な線液でずるりと滑り、平衡を崩す。それを補おうと足を出せばそれも線液の塊に捕まり、重心が前へと落ちる。膝をついた先ですらも粘液にまみれていた。

 手にもまとわりついた粘液が伸縮し尻の下から持ち上がっていた吸盤がぞろりと手に触れて撫でていく。吸盤のひとつひとつが僕を確かめるように吸い付いては離れ、また吸い付く。背筋が寒い。

 それは潮が満ちては退くように、息づいてはまた動き止めて持ち上げた床板の下から時間をかけて去っていく。後にはぬるぬるとした液体が残り、体温を奪うようにゆるやかに流れていた。

 流れていた。傾きもない筈の家の中を、ゆっくりと流れていた。気づけば痛みすらないままに自分の身体を流体が浸食し、境目が消え失せかかっていた。滲む輪郭に恐怖してあわてて立ち上がる。あわてればあわてるだけみじめな姿形で横たわることになった。すなわち、地面に近く、流体に接する面積は増して、立った姿からは遠く。たった自分の身長程度の距離がまるで溺れた人にとっての水面みたいに遠くなる。届かない。

実際僕はその粘液に溺れていた。そう意識したとたんに呼吸さえ粘液の感触に入りこまれ、息をする度に鼻も口も、気管も肺さえもどろんとした重みを持ってくる。苦しく、深く、奥の方まで生温い。体の内側でひんやりとけれどどこかで生き物の温かみを残した液体が流れるのが感じられた。寒気がする。

咳き込んでも液体を排出するどころか吐いた分だけ吸って中を流れる感触がよりはっきりとするだけだった。吐こうにも入っているのは肺腑の中、ふくらみしぼむ度に入れ替えられてけれどどこかが淀んで出ていかない。

口の中をはいずる粘液は甘く、けれど生臭く血のような錆のようないやな味がする。じわりと吐き気がこみあげる。そこに胃酸の苦味酸味が加わると耐えられずに身をよじる。ひきつれた腹筋に押し上げられて内臓が圧迫される。頭をむりやり引き上げたけれどすぐに滑って顔は粘液の中に沈んだ。心臓の拍動でさえ、胃の腑をざわざわと刺激して止まない。そうこうするうち再び吐き気の波がやってくる。口の中で混ざり合って、歯の溶けてしまいそうな甘味が舌の根にこびりつく。喉をかきむしって足を畳み背中を丸くし、その姿勢に耐えられなくなると今度は体を弓なりにのけぞらせる。しぼり上げるように腹の底から内臓がそれぞれ勝手に動いてそのツケを口の中に持ってくる。

 輪郭線が暴れたその分だけ曖昧になっていく。溶けているのか入られているのかすら判然としないまま、片足は膨れ、肌色が輪郭を無くして滲み、片腕は入り込んだ液体が蛸と同じ燐光を放っていた。


 ――絶叫した。


 その声ですら泡と消えて、ただ天井に昇って溜まった。動いたのは粘液だけで声帯の間にすらあの生温さがはさまっている。小刻みに震えながら、と言っても僕の輪郭もわからないからどこが震えているのかも定かではなかったけれど、恐慌で真っ白になった頭を振る。これは何だこれは何だこれは何だと、繰り返し繰り返し頭を振る。恐ろしくてならない。頭が押さえつけられたかのように一方向にしか働かなくて、これは何だと繰り返す。

 その中で奇妙な安らぎが心の奥に湧いた。この蛸と溶けてしまって彼我の区別がつかなくなってしまえばこの自分ひとり違ってるなんて感覚からも解放される。もう異物じゃない、寂しくない、ひとりではない、ずっと、一緒、そんな安心が胸に満ちてくる。

 身体を侵食されながら抗い切れない安息で身体の緊張がゆるみ、必死に振っていた頭を動かすことさえ忘れてしまう。自分を失う恐怖と安心でいっぱいになって何を考えることも出来ない。体はしびれた様な、動こうとする未満で思考が消えてしまうような。表に動きを出すことはもうできていない。経験が無い大量の感情は絶対的な安堵に塗り替えられることさえなくてとめどなく湧き、流れ増えてうねり飲まれて、それもまた膨れ縮み、心臓のようにうごめいた。

 感情が破裂して四散し蛸の中に消えてしまいそうだ。

 自分に残されているのはもう殆ど骨だけと言って良かった。心は安堵と恐怖ばかりで、自分らしい輪郭がどこなのか、自分にはわからなかった。恐怖と安堵の気持ちでさえも融合しつつある何かが感じていることのように感じた。蛸は自分、自分は蛸。

差しはさまれる疑念は押しやられ流されてどこにか運ばれていく。

 湧き、流れてゆく動きと感覚がそっくり同期して動いていた。ど、と流れに背骨を押されると母に抱き寄せられた時のことを思い出す。

希求、憧憬、安堵、無上の一体感。


 オカアサン……、オカアサン……


 言葉を紡ぐ唇さえも動いているかわからない。このまま、お母さんに抱かれて何も怖くなかったこの感覚に融けて消えてしまいたい。子宮にいる胎児のように、お母さんと不可分の個人だったころ。温かく包まれて眠っていたころ。自分で何も考えなくて良かったころ。ただ感じていれば良かったころ。少しづつさかのぼってお母さんになってしまえばいい。けれど、それがなにより恐ろしくてたまらず、自分が消えてしまうことに微かに悲しみが湧いた。それは僕の物だったのか蛸の物だったのか、わからなかった。恐怖よりも、悲しみが増してくる。安堵と融けあっているのに、悲しみだけは大きく何にか根ざして育ってくる。

 それは蛸のどこかでむず痒さに変わる。

取り込まれたまま、目を巡らせる。思い通りになるのはもはや目だけだった。疑いの器官。堅く閉じたら瞼がわかった。それから頬、胸を意識して描く。

そう、悲しいけれど、一緒になってしまうことが出来ない。貫くように胸が痛んだ。肩を、手を自らに由って動かして、ひとつだけ手についた薬を飲んだ。

 最初に飲んだ、解姿の薬。

姿が揺らぎ、ほどけて僕一個の形が戻ってきた。倒れるように足を前に出して蛸の眼球に触れ、泥水に浸かっているみたいにゆっくりとだけ足を踏み出し眼球を押し退け、前に出る力を得る。

その眼球をゆっくり撫でる。蛸の瞼が閉じた。

ほのかにあたたかった。

眼球が瞼の向こうで動いている。

ぱち、ぱち、と瞬いている。その目が僕を見て、そして伏せられる。

 気がつけば頬が粘液よりもさらさらのもので濡れていた。手で触れてみて、泣いている、と自覚が追い付いた。

今度ははっきりと僕が悲しんでいるのがわかる。

 蛸を離れて家を出ていくのがたまらなく悲しかった。

けれど、やっぱり自分をなくして蛸と一緒になってしまうことは出来なかった。それは、あまりにも悲しいことだった。

 どうしようもなく自分だということ。

 動かしがたいそのことを握りしめて、歩き出す。重たい空気の中を、ぬかるみにはまりこんだように足を高く持ち上げて一歩ずつ時間をかけて進む。どれだけかかっても構わない。上半身を左右に振って全身を残らず使い働かせ、泥濘の様な蛸の上を踏みしめていく。

やがて吸盤の丘を下って床にたどり着いた。その先は平らなリビングの床。

そこには僕が家出に持ち出したリュックサックがぽつんと転がっていた。

 さして疑問にも思わずに中身が詰まってしっかり重いそれを背中に背負って玄関に続く廊下へと出る。

ガラス越しに白い光が見える玄関を目指して足跡をひきずりながら歩いてゆく。

 一度はあんなに僕を取り込もうとしていた吸盤の並ぶ脚も、もう追っては来なかった。

追う、と言っても、足元の薄い床板の下には変わらず蛸が動き流れる音がしていて、家の床下には隙間もなく詰まっているのがわかった。ただ、そこは末端であり大波の様な流れや本体は去ってしまったようだった。

 踏みしめると最後にぐんにゃり、末端とはいえ柔らかく、けれど芯のある感触がする床板の上を進み、ごく当たり前に靴をはき、立ち上がって玄関扉を前にする。

 振り向いてそこから見える家の隅々まで目をやった。青く深海に沈む静謐な僕の家。

 そこはたしかに僕の家だ。僕の育ってきた印や僕の世界のほとんどがここだったころの記憶をしっかりと含んで建っている。

小さな時に貼ったシールの跡、ボーダーコリーに見える木目、転んで額を切った階段の角、ソファで寝てしまう僕にぬってくれたクッション。飽きるほど見た玄関マット、特別な時しか開けない靴箱、玄関の明かり取りのガラス。

 何万回何億回と触れて開いたドアノブ。

また触れて外へと出る。滲む視界に歪んだ靴先を見つめて、踏み締めた。背中で軽い音を立ててドアが閉じる。

僕は、家を出た。


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