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つかまえたのはしろくろの

 水面に顔をつけるみたいに薄い膜を通って抵抗を全身に受けながら沈んでゆく。その先にはよると初めて会った時の石畳、そこに立つ努々屋が見えた。視線が合うと僕の意識が吸い寄せられる。彼と同じ地面に立って見上げる。すると彼はしっかり一つうなずいてから一歩僕に近づいた。

「どうだったかね、薬は?」

「助かりました。夢の中で自分の意志があるの、不思議でした」

「それは薬のせいじゃなく君の眠りかたが緊張していて半分目覚めてるせいじゃないかと思うがね。薬を渡しても飲むことが出来るかは別の問題だよ。だが君はとりあえずそれを果たした、だから来たのだよ」

 深くて重い声音が流れるように紡ぎだしたらそれに沿って体が近づいてきて僕の体の中心に体の中心を合わせてきた。

「夢というのは現よりもままならぬが本来、部分とはいえ意の通り、また工夫苦心の余地があるのはやはり常の状態にないのだよ。余程何がしかの思いが強くあるか、その思いを意識化せぬよう抑え込んでいる状態にそういったことは起きやすい」

 流暢な外国語のような、意味はすんなりは入ってこないけれど喜んでいるような響きがした。鈴でも鳴らしたか転がしたかしたみたいな。入ってきた言葉を咀嚼して飲み込んで、その間ずっと努々屋の視線に囚われていた。彼はあまり瞬きをしないし注視の癖がある。温度はないけれど力がある。

 押されるようにして頷くと彼の目が笑った。そして彼も頷く。そうっと体の中心に大きな手が伸びてきて胸骨の上から心臓を撫でた。

「貘はつかまる。君が毎夜悪夢を巡らなくとももうつかまる」

 静かな声はふわふわと気休めを言うのでなくて先ほどから見つめてくる目と同じで力を帯びている。彼にとってはそれは当然の帰結であるらしかった。そう、僕は獏を追って昨日悪夢の蓋を開けたのだった。誰のものかもわからないままに。

「僕は昨日、誰かの悪夢を見ました。その中に入ったら、もう自分の思う事なんてはたらかなかった」

「食べ残しなのかまた新しく悪夢をみたのか、しかし、いいのだよ、君が居たことにも気付かれぬくらいが」

「あの人はまた、同じ夢を見るんでしょうか」

「かもしれない。だとしたら?」

「……なんとかしてあげられないのかなって」

「悪夢には、貘がいる。君は貘から、食べて貰った悪夢をわざわざ取りかえしに行くのではないのかね」

 そう、僕は悪夢を取り戻しに行く。真正面で僕を見つめる努々屋から目を逸らして、僕の胸に開いた空洞を覗き込むみたいに下を向いた。

大事な何か。あの夢の主も同じように空洞よりも悪夢を選ぶのかもしれない。それは僕の一存では決められはしないことで、また話し合う機会すらも永遠にないのだろうことだった。

 開いた引き出しの中の、無防備な脚。

 あの引き出しが一つ一つ、草木や原生生物に至るまで夢を収めた器だったとしたら。

 ふと昨日を思い出して顔を上げ後ろを振り向けば、一つ一つガラスケースに虫ピンで蒐集されたさまざまな生命を見つける。

これが夢の目次の様なものだと意識して見るならば昨日の引き出しの形から、起きているうちに無意識下の学習があったのかもしれない。昨日は一つずつ開き、また高い位置にあった足跡を追うのに随分と苦労したけれど今日の形なら一目でそれが何か見渡せるから。ずっと機能的な造りだといえる。

 博物館を思い出す。一部屋が酷く大きく天井は視線が届かないほどだったし、壁も先が分らないほどに遠かった。

 でも、暗くはなくて調整されて端々にまで明るさを届かせていた。展示のための調光。

 蒐集された全ての夢に興味があったし、ここで自分では見られない夢を心ゆくまで覗いてみたかった。顕微鏡や虫眼鏡を備えてそこここに誘惑する。

「貘を追うのが願いなら、わき見はいかんよ」

 背後から手を添えられた。そして、彼は僕の薬の入ったポケットをポンと叩いた。軽かったそこが少しだけ重さを増して僕に薬の補充が行われたことを報せた。ポケットの中から目薬を取り出し後ろからだというのに器用に僕の目にさしてくれた。

心臓の裏側に手をそえられぐうっと押し出され、一歩僕は踏み出した。

「さ、行っておいで。私には今君の見ているものが見えない」

 僕の夢に易々と入ってきた彼なのに、今目の前にある博物館が見えていないらしい。思わず振り返って努々屋を見ると街灯の届く範囲だけの世界に彼は立っていた。まだ石畳の風景の中に居て、その風景ごと小さく遠くなっていた。ごくゆるやかにこちらに手を振っていた。

 戻れない。でも、それできっといい。

 踵を返してガラスケースの間を進み始める。

 最初は顕微鏡つきのガラスケース、何が基準でここに並ぶのかわからなかったけれど、地球の全部の夢だとするならいささか少なかった。それでも膨大な数を列にしていて繰り返し繰り返しガラスケースを目の前から背後にしていく。

 同じ明度と同じ彩度、同じ角度で光線を反射して目を射る。ガラスケースに乗るものが顕微鏡から虫眼鏡に変わった。

 そして、草葉に変わる頃ガラスはガラスだけになる。

 歩くリズムと光るリズムが一緒になって、いい音楽を聴いている時に湧く心地よさが体に満ちる。不思議な昂揚感さえもたらしてくれるそれに変化を加えたのは獏の発光する足跡と、サイズが急に大きくなったガラスケースだった。

 歩調を変えてそれを追うとひろがっていたのは人の群れだった。柩みたいに、おびただしい数の人が横たわっている。子供から大人へ、大きさで単純に並べられた人々は昨日の脚とは違って服を着て靴をはいていた。

足跡は点々と続き、やがて壁に行く手を塞がれる。終わりがあるなんて思っていなかった僕は酷く驚いた。

 壁はしらじらとガラスケースを支える土台と同じ色をして、部屋の奥から薄くから濃く変わっていく。視界が白濁していく錯覚に何度も瞬いて俯く。一度視界を真っ暗にしてリセットする。それから顔を上げて視界の蓋を取り除く。同じ白い壁が立ちはだかって、僕はまたその壁に向かって歩いていく。

 ガラスケースの終わりにはプライベート、という部屋とアーカイブ、という下に降りていく階段に選択を迫られてまた立ち止まった。

 けれど、選ぶ余地はほぼなかった。きっと同じ局面はやってこない。だから僕は改めて貘の足跡が続く先、プライベートルームを選んで大きな大きな一枚板でできた扉を開く。重たく、内側から押されているような圧を感じながら全身と体重を使って押し進んでいく。

 よつあしの大きな足跡。その上に立って。

 少しだけ開いたら中から濃い空気を吹き付けられて目を閉じ、その風が止んだら幾分か扉は軽くなる。足跡を踏みしめ踏みしめ体の幅だけ開いた扉へすべりこむ。その先は暗く部屋の隅で赤い花が青に色を取りかえても気付かないくらい、だけれど花があることは判るくらい、光でそこにある何かを痛めてしまわないための薄闇だった。 うるりと大きな目に涙をいっぱい貯めて僕を見る。瞬きをしたらもう溢れて頬を濡らし始めた。

 人を幸せにする、そのことに貘は、とても誇りを持っていたんだと思う。それを、出会い頭に丸ごと否定してしまったのだから、そんな反応も仕方のないことなのかもしれなかった。

 初めて会う人同士の微妙にあけた距離からまた少しにじってそばに行く。

「君、お名前はなんていうの?」

「虹介」

 にじすけ、と響いた声はとても泣くのを我慢している小さな小さな声だった。同じ年頃の姿をしていても、虹介の内実はずっと幼いのだろう。

「僕は、火野重祢。かさね……。」

 じっと不思議そうな目で顔を見た。うまく言えないけれど、大切なことだった。名乗る。名乗られる。それにこめられた自認はお互いに向き合う印だった。

 始めよう、と思ったのだ。たとえば武術において相対してお互いに見合わせて構えを見せるようなもの。

 つまり僕は準備もさせずにいきなり殴りつけるような真似をしたのだった。そう思ったら急に自分まで悲しくなってしまって、彼の頭に手を伸ばし、力をこめない緩く丸まった手で彼を撫でた。

 ふわり、巻き毛は柔らかで、彼の温度は夢の中のものには思えなかった。

 守られていたのだ、この優しい生き物に。か細い位の体つき、幼い表情。

 小さな子を抱きしめるみたいに抱き締めて僕は、全身に虹介を感じた。一回りほど小さな体は具合よく腕に収まった。

「ありがとう、そうだよ、辛いのや悲しいの、苦しいの、疲れたの、君達が預かって休ませてくれていたんだ。だから元気に起きて、もっと眠りたいなんて言いながらでも暮らしていける。それはしあわせ。」

 虹介は僕が抱きしめるのをいやがらなかった。こんなこども扱いは心外だとも言わなかった。

 ただただ驚くことが続いて飲み込めない、そして涙は溢れて止まらない。目の前の僕を一瞬も見逃さないように大きく開いた目、その下に涙の筋を作っていた。その頬を何度も掌で拭う。彼の感情の温度、湿度。

 人をしあわせにするんだ、そう思っていた虹介。

 それでも、僕は彼から取り返すんだろうか。

 悪夢を。

 そして、待っていれば楽なものにして戻してくれるというものを自分で苦しんで取り戻すんだろうか。

 虹介はとても大切なことを教えてくれた。


 僕の悪夢には願いが詰まってるってこと。


 何を願って何に苦しんだのか、僕はきっとそれがないから応えられないことが沢山あるのだと思う。

 虹介が泣き止むまで僕はじっと身じろぎもせず抱いていた。

 よるが言ったから、それだけじゃなくて、僕が応えたいから。

 未消化の悪夢を引き取って苦しむ。

追いかける間、起きて、眠って、逃げる間、起きて、眠って。そうしている間にそれだけじゃなくなってしまった。

必要だった。それが分ったら次は泣いている虹介にこれ以上傷つけないように伝える方法を探さなくてはならなかった。手を頭から背中に流して顔を覗き、彼がまず落ち着くのを待つ。

 綺麗な涙の粒だった。泣き顔なんて皆なりふり構えずにくしゃくしゃなものなのに、虹介は驚いた時の作り忘れた無表情で涙ばかりをぽろぽろと流し、俯いていた。

 それは人の形になることに慣れていないせいだったかもしれないのだけど、覗きこんでいると浮遊感すら伴って引き込まれる。

 泣き声はいつしか止んでしゃくりあげる虹介の手を握ってお互いの間に置いた。

それを伝って僕の思いが流れればいい。言葉だけでじゃなくて、伝っていけばいい。

「虹介は今僕に大事なことを教えてくれたよ。悪夢には願いが詰まってる。希望が詰まってる。僕は、苦しくて辛いのを、今まで虹介が預かってくれていたから準備が出来たんだ。僕、苦しんで辛いのを、自分でやる覚悟が出来た。だから虹介、僕に、悪夢を返して」

 凍ったみたいに動かなかった虹介の表情が柔らかく崩れた。少しだけ笑って、それから首を傾げる。

「どうして? ちゃんと、願いは返すよ。どうしてわざわざくるしい思いするの?」

「僕のだから。任せてしまったから僕、誰にも応えることが出来ないでいるんだ。それは、僕の苦しみなんだ」

「応えずに待っていれば、くるしいのを取って願いにして返してあげるってば」

「間に合わない。それに、苦しくても、その苦しいのを、僕は母さんに伝えないといけない。必要なのは願いと希望だけじゃ、なくなってしまったんだ」

 そう、家を出た、言えなかった理由を、苦しさを、母に届けないとならない。でないと僕らの周辺全てが混乱してしまうだろう。

 虹介はまた表情を作り忘れたような惚けた顔で僕を見て、ぎゅうっと強く手を握った。細かく震えている。 

「おれ、そんなことをしていいかどうか、わからない」

 僕は握る手が熱くて思わず握り替える。片手を虹介の両手に包ませてその上から僕の手を被せる。

 善いか、悪いか。人を苦しめるとわかっていることをする。

 それが、善いか悪いか。

 虹介はその両方を見ようとして、目を忙しく左右に動かしていた。

 こころが、感じられる。

 高いところから低いところに流れて来るみたいに流れてくる。

 それに僕は、何も疑問を持たなかった。持つ余裕がなかった。

「大丈夫、それが悪いことにならないように、僕が頑張る。虹介、虹介を悪い子にしたりしない」

 僕は間に置いた手よりも頭が前になるほどに前のめりになって言った。

くらり、と目が揺らぐ。僕を見定めるみたいに細めた目で視線を注ぐ。きゅっと唇は閉じられたままだった。

 待つ僕の手のひらからは相変わらず虹介のこころが伝い流れてくる。虹介は混乱し、迷っていた。


 何か騙されているのじゃないか。

 今日も悪夢を食べ損ねたのに、その上吐き出したら、お腹がすいてしまう。

 人間のしあわせのために働いているのになぜ。

 彼のために食べてあげたのになぜ。

 けれど。

 一生懸命に追いかけてきて、こんなに大切そうに抱き締めて、腹を裂いたなら簡単に取り出せるものをわざわざおれに選ばせようとしている。

 そして。

 確かに、おれが腹に預かっているのはこいつの夢で、こいつの願いで、こいつの大切なものであるには違いないの。

 いつかは返さなくてはならないもの。

 くるしみを取り去って。けれどかさねはくるしみが必要だって言った。

そんなことってあるんだろうか。くるしみはないのがしあわせだって教わった。


 くるくると虹介のこころは揺らぐ。

 一方で僕のこころはちっとも虹介に伝ってはいかないようだった。

 僕は今までに口にしたこともないような言葉を一つだけ持っていた。

 息が荒れて上手くいかない。これを僕が言うのは卑怯なような気がする。

 でも、虹介にわかってもらうためには、僕のほうが考えを改めないといけないのかもしれない。

 僕にもわからない。努力はできるけれど、結果を保証することなんて出来ない。

 出来ない。誰にも未来の保証は出来ない。

 嘘と本当の境目にある言葉。

 でもそれ以外に虹介に言えることはなかった。

 全力で引き寄せるしかない。

 懇願だった。結果を出す、絶対に出す。そういう、覚悟のかたまりでもあった。

「信じて」

 虹介の細められていた目が大きく開いた。背筋が伸びる。

 手の中で次第次第に震えが止まってゆくのがわかった。

 手に一回り小さな滑らかな手が残る。

 虹介が肩で息をした。こごった肩を動かして緊張を解こうと努めている。伸びた背筋はバネが縮むのに似て力が入り、たわめられていく。

 顔を伏せてしまった虹介の喉がひとつ上下した。

「うん」

 細い小さな声だった。それでも、十分過ぎる程に届いた。僕がした覚悟と同じように、また同じ強さで彼のこころが動いたのがわかった。

 お互いに緊張で息が苦しい。僕は、無理にでも、と口端を吊り上げてみたけれど、笑うことは出来なかった。

 虹介の顔を覗きこむ。きゅっときつく引き結んだ唇が白く色を失うのに反して、意志的な目が見つめ返してくる。

「うん、かえす。……かえすよ」

 唇を解放すると凛としたものが宿る声を出した。

 突然、虹介が酷く大人びて見えた。相変わらず大きさは僕と変わらない、か細い体と巻き毛、大きな瞳。

 ただ、顎を持ち上げて、まっすぐ僕の存在を通りぬけた先に焦点を結んだだけ。

 それだけなのに。

 僕のために悪いものになるかもしれないことを、覚悟してくれたのだ。

 虹介は、包んでいた手をゆっくり、結んであったのを解く手つきで開き、膝で後ろに下がった。

 それから前に傾き、両手を地について、四つん這いになると鼻先から虹が消えていくように白黒の貘の姿に戻った。

 鼻をひくつかせてまた少しだけ下がると、天井に鼻先を向け、強く、何かのリズムで瞬きと足踏みとをすると客間が消えて何もなくなってしまった。

 最後に重たそうに分厚く層を作った睫毛を持ち上げ、夜に似ているのに月も星もない暗闇に目を据えた。

 口を大きく、大きく開き、見る間に膨れて人に乗れる大きさではなくなっていき、丸く丸く膨れていった。

 天の暗闇が少し薄れて明るくなるほどその暗闇を吸い込んだ虹介は、破裂しそうなその体をくねらせる。

 吼えた。

 身の回りに音と一緒に黒曜石の粒のように凝固した闇が薄い明かりを一杯に反射して渦巻いた。

 僕を中心にその渦はどんどん固まり、僕は渦に飲まれた。

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