猶予
僕の捜索願は出ていなかった。果たして僕への追及は増し、だんまりの時間が続いた。
すぐるさんは三時が過ぎたら頭を下げただけで帰ってしまったし、哲夫さんと警察の人に、交代の人まで来てなんともいえず心細かった。けれど交代の人も警察の人も、じっと我慢していたらすぐに巡回に出ていってしまった。
今日もやっぱり、誰かに迷惑をかけて、誰かの厚意を受けて、僕はここに居るのだ。
目の前に陣取ったままの哲夫さんを見ながら、しみじみ思う。
僕のせいで帰れないでいるのだろうと思う。微塵も口にも態度にも出さないけれど。僕はまた、罪悪感と断りたい気持ちでいっぱいになっていた。
でも、もはや問題はそんなところにはないのかもしれなくて。かれこれ三十分ほどはにらめっこが続いていた。
「もう遅いんだからよ、いい加減連絡先くらい教えたらどうだ」
少しづつこの言葉にも慣れてきて僕は黙ったっきり何も言わなかった。もう、僕の事情のうち、必要なことは伝え終えてしまったから。
こんなに何もしない日は初めてだ。けれど僕はまるで退屈していない。緊張感と、自分に向き合ってくれる人、触れたことのない考え。
「じゃあせめて、電話するか?家に」
ため息とともにそんな提案をうけてたじろぐ。昨日は確かに電話をした。でもそれは高津先生が僕がどこに居るのかを明かさないと約束してくれたからだ。
「電話をお借りしたら、その履歴で連絡をつけるつもりでしょう?」
「それしなかったら電話するか?」
「昨日連絡しました」
「昨日は昨日だろ」
「昨日連絡したから今日もって考えるか昨日連絡したから今日はって考えるかで大きな違いですよね」
「口の減らん子だなぁ。すぐるに分けてやってくれ」
「すぐるさんの無口はあったかいからあのままいてほしいです」
「お。それは本人に言っとこう」
頷きながら、哲夫さんが笑う。哲夫さんには年の功もあるが攻撃する側の余裕がある。対して僕はどう受けて流すかに随分腐心していた。何も答えずに黙っているのも精神力の必要なものだから。
「まあええ、お母さんが気の毒だ。連絡しろ。今日のとこはそれくらいに落ち着いても、ええ。うちに泊まっていけ」
深い深いため息をついて、眉を寄せ、携帯電話を僕の方にくれた。僕も、疲れてもいたから携帯電話に手を伸ばしてため息をついた。じっと画面を眺めて、深呼吸をひとつ。
漸く、その提示された妥協点に着地してみる心の準備が出来た。一つ一つ大事にダイヤルして、母は待っていたように間を殆ど置かずに出た。
その途端に、準備していた言葉が残らず飛んで、頭の中が真っ白になった。息が詰まって声が出ない。
そんな僕の息づかいを聞き取って母が先に反応した。名前を呼ばれてますます動揺してしまい、うなずくだけの声しか出せなかったけれど、それで十分だった。とても当たり前のことをいくつか訊かれて、一度だけ哲夫さんに代わった。
この携帯にかけてくれれば僕と連絡がつくようにしておくとはっきり告げた。どこの自警団の事務所か言うと居場所がわかるから、僕との約束で今日は教えられない、とも告げていた。
短い通話だったけれど酷く消耗した。暫く目を閉じて休む。その僕の頭をまた大きな手が撫でていく。慣れないけれど、嫌ではない。体を丸めて。
それから、僕らは 詰所を出て街灯のならぶ下を歩いた。繰返し繰返し明るくなっては暗く沈み、並んで歩く僕らの顔を読みづらくさせた。
哲夫さんの顔は怒っているように見え、暗くなると泣いているように見えた。呼吸や歩くリズムは一定で声音は相変わらず温度のあるものだったから、表情と声が遊離して、どこかうそ寒かった。
僕は、今改めて逃げるべきなのかもしれない。でも、そうする気になれなかった。泊まる所ならば、高津先生の所に行けばいい。逃げ道ならいくつもある。
逃げ続ける訳にはいかない。
そんな、予感に似た何かが僕をひき止めた。手を握り、開いて、初めて通る帰り道を辿る。
暗さと、繰り返す明滅がトンネルのようだ。
一緒にたどり着いた先は、当然だけれど出口ではなくて哲夫さんの家の入り口だった。それでも穏やかに明るくなったのは、連想と同じだった。
古い一軒屋に、複数の人の気配がした。靴、スリッパ、敷物、いろいろなものが哲夫さん以外の人の存在を示していた。女性物のかたち。
「あら、すぐる君?」
その人は僕から全て姿が見えているにも関わらずそう言った。僕が暫く反応できずにいるとその人は一度立ち止まって笑う。
「違うのね。初めましてかしら?」
「あ、はい……火野重祢です。お世話になります」
僕が頭をさげると前に立つ人の吐息が笑みを感じさせ、次には目でも感じることになる。
「芦原の家内です。よろしくね、重祢君」
僕は奥さんの名前を聞こうと唇を開いた。それよりも早く哲夫さんの声が重なる。
「もう時間が時間だ、風呂浴びて寝るぞ」
「はいはい、もう一つお布団敷いておきましょ、ご飯はおすみ?」
「詰所で食った」
長く一緒に居た人の呼吸で奥さんが応じると僕が名前を聞く機会はそれで失われてしまった。頬を掻いて口を噤むと上がりがまちで靴を脱ぐ。履き慣れたスニーカーが整然としたたたきに不似合いでなんとなく隅に寄せる。
それを哲夫さんが拾って下駄箱に入れてくれた。下駄箱には白い長めの杖が立てかけてあって、その周りには何もないように整えられている。
手で促されて家に入っていくとものの少ない部屋に一人分のお茶と台拭きがあった。高津先生のところもそうだったけれどテレビがなかった。壁を飾るものも、花瓶の類もなかった。
それは素朴に見えて、機能美を感じさせた。
「一緒に入るか、……、そういう年頃じゃねえか」
問いかけておいて僕をじろじろ見て一人納得すると哲夫さんは風呂場を案内してくれる。ざっと教わってまた僕は今日初めて会った人の家のお風呂に入った。それから温かいお茶を貰って、敷いてもらった布団に横になった。
今日は、使ったことのなかった部分をたくさん使った。あんなに真剣に走ったことは今までに一度もなかったし、ここまで意地を張ったことも、大声をあげて泣いたこともなかった。
随分知らない自分を掘り起こしたものだ。
逆に言って、僕は僕を埋めてしまっていたのだ。
今日は一段と疲れた。頭まで布団を被って、自分自身に沈んだ。