俺は無口なあの子の笑顔が見たい
四月。
東雲学園の桜は、いつも少しだけ遅れて満開になる。
「はい、席替えというかクラス替えの席はもう決まってるからなー」
担任の声を聞きながら、北条正行はぼんやり黒板を見ていた。
東雲学園。
勉強も部活もそこそこ。強くも弱くもない。
いわゆる――自称進学校。
「……ま、こんなもんか」
高校二年生。
将来の夢もなければ、熱中していることもない。
強いて言えば、ペン回しが少し上手いのと、コーラの味の違いが分かることくらい。
(俺、なにしてんだろ)
そんなことを思いながら、席に座る。
正行の後ろの席には、クラスでも目立つ男子グループが集まっていた。
「おい昨日の配信さー」
「マジそれな」
椅子の向きまで変えて、通路を塞いでだべっている。
(あー…先生来たら怒られるやつ)
そう思ったときだった。
「そこ、どいて」
短い声がした。
振り向くと、小柄な女子が立っていた。
茶髪のショート。
吊り目で、きつそうな顔。
平家依子だった。
男子たちは一瞬黙った。
「……は?」
「通れない」
それだけ。
「ちょっと話してるだけだろ」
「邪魔」
表情はほとんど変わらない。
「……なんだよ感じ悪」
男子たちはぶつぶつ言いながら席に戻った。
依子はそれを確認すると、何も言わず席に着いた。
正行は心の中で思った。
(うわ……)
(絶対合わないタイプだ)
⸻
五月。
二年生には職場体験があった。
正行が割り当てられたのは、近くの総合病院だった。
「こんにちはー」
リハビリ室は静かな空気だった。
そこで、正行は一人の女性と話すようになった。
「学生さん?」
「はい、職場体験で」
車椅子に座る女性。
穏やかな笑顔をしていた。
「若いっていいねぇ」
「そんなことないですよ」
何日か通ううちに、自然と会話が増えた。
女性の名前は――平家直美。
ある日、何気なく聞かれた。
「学校どこ?」
「東雲学園です」
「え?」
少し驚いた顔をした。
「うちの娘もそこなの」
「そうなんですか」
「二年生で……依子っていうんだけど」
その瞬間、正行のペンが止まった。
「……え?」
「知ってる?」
正行の脳裏に浮かぶ。
吊り目の、小柄な女子。
「……同じクラスです」
直美は少し笑った。
でも、どこか寂しそうだった。
「そう……」
少し沈黙が流れる。
そして、ぽつりと言った。
「ねぇ」
「はい」
「もし迷惑じゃなかったら……」
「依子と、仲良くしてあげてほしいの」
正行は戸惑った。
「えっと……」
直美は静かに続けた。
「私ね、事故で足が動かなくなってね」
「……」
「依子、中学のとき陸上部でね。走るのが大好きだったの」
正行は黙って聞いていた。
「私、依子の大会を見に行く途中で事故に遭ったの」
「……」
「だからあの子、自分のせいだって思ってる」
直美の声は、優しかった。
「それからね」
「笑わなくなったの」
正行は何も言えなかった。
「無理にとは言わないわ」
「でも……もしよかったら」
その言葉を、正行は断れなかった。
⸻
それから正行は、依子を少しだけ見るようになった。
すると、気づいた。
ある日の昼休み。
依子が、後ろの席の男子に言った理由。
「そこ、どいて」
最初はただの無愛想だと思った。
でも違った。
その席に座るはずの女子が、教室の入り口で困っていた。
脚に装具をつけている子だった。
通路が塞がれていたのだ。
依子は、その子のために言ったのだ。
でも――
「ありがとう」
女子が言うと、
「別に」
それだけ。
説明もしない。
愛想もない。
(……言葉足らずすぎだろ)
それから正行は、さりげなくフォローするようになった。
「さっきのさ」
「その子座れなかったからだろ?」
依子は一瞬驚いた顔をした。
「……見てたの」
「まぁ」
それだけの会話。
でも少しずつ話すようになった。
「あんたさ」
ある日依子が言った。
「なんで私と話すの」
「え?」
「私、感じ悪いって言われてる」
正行はペンを回しながら言った。
「別に」
「困ってる人ほっとけないんだろ?」
依子は少し黙った。
「……うん」
それが、初めて見た柔らかい表情だった。
それから会話が増えた。
依子は家事が得意だった。
料理の話をしたり、学校のことを話したり。
笑わないけど。
でも――
優しい人だと分かった。
気づいたときには。
正行は思っていた。
(こいつ)
(絶対笑ったら可愛いだろ)
そして、いつしか。
(絶対笑わせたい)
そう思うようになっていた。
⸻
ある日。
正行は廊下で声を聞いた。
「北条さ」
「なんで平家とつるんでんの?」
クラスの男子だった。
「感じ悪くね?」
「てか暗いし」
「近づかない方がよくね?」
笑い声が混じる。
正行は角の向こうで立ち止まった。
胸がざわつく。
(俺)
(嫌われるのか)
昔からそうだった。
周りに合わせて生きてきた。
嫌われるのが怖い。
その日から。
正行は依子と距離を置いた。
話さない。
目も合わせない。
依子は何も言わなかった。
でも――
ある日の帰り道。
「北条」
呼び止められた。
依子だった。
夕焼けの校門。
「最近、話さない」
まっすぐな目だった。
正行は視線を逸らした。
「……別に」
「なんかした?」
「してない」
沈黙。
依子は少しだけ俯いた。
「そっか」
それだけ言って、歩き出した。
その背中を見た瞬間。
正行の胸が締めつけられた。
(俺)
(なにやってんだ)
次の日。
正行は病院へ行った。
直美が言った。
「最近依子どう?」
正行は答えられなかった。
そして――
直美が言った。
「依子ね」
「本当はすごく笑う子だったの」
「家でも学校でも」
「でも今は」
少しだけ涙を浮かべた。
「私の前で笑えないの」
「自分が笑うと、私が悲しむと思ってるから」
正行の胸が痛んだ。
その瞬間、決まった。
(俺)
(逃げてる場合じゃない)
⸻
放課後。
屋上。
依子が一人でいた。
「平家」
振り向く。
「……北条」
正行は深呼吸した。
「俺さ」
「お前の母さんに会った」
依子の目が揺れた。
「リハビリで」
沈黙。
「……そう」
「聞いた」
「なんで笑わないのか」
依子は俯いた。
「……そう」
俯いたまま、頼子は答える。
「お前」
「自分のせいだと思ってるだろ」
「……」
沈黙が肯定を示していた。
「違う」
依子の肩が震えた。
「違わない」
「私が呼んだから」
「大会見に来てって言ったから」
「だから――」
声が震えた。
「お母さん、走れなくなった」
沈黙。
正行は言った。
「それでも」
「お前の母さん」
「お前に笑ってほしいって言ってた」
依子の目から涙がこぼれた。
「……無理」
「笑えない」
「笑ったら」
「お母さん、悲しむ」
正行は首を振った。
「悲しまない」
「むしろ」
「めちゃくちゃ喜ぶ」
依子は泣いていた。
正行は言った。
「俺さ」
「お前のこと好きだ」
依子が顔を上げた。
「だから」
「笑わせる」
「絶対」
「お前が笑うまで」
「諦めない」
依子は泣きながら言った。
「……無理だよ」
「私、もう」
「笑えない」
正行は言った。
「じゃあ」
「俺が一生かける」
沈黙。
そして。
正行は、いつものようにペンを取り出した。
「見てろ」
高速ペン回し。
さらに空中キャッチ。
失敗。
ペンが顔に直撃した。
「いっっっ!」
沈黙。
そして。
依子の口元が震えた。
「……っ」
肩が揺れる。
涙を流しながら。
依子は――
笑った。
「……なにそれ」
小さな声。
でも確かに笑っていた。
夕焼けの中。
その笑顔を見た瞬間。
正行は思った。
(ああ)
(これだ)
心の底から。
「俺」
「この笑顔守る」
依子は泣きながら笑った。
「……重い」
「うるさい」
正行は笑った。
「一生かける」
空は、綺麗な夕焼けだった。
その日。
北条正行は誓った。
――この笑顔を守るために、生きると。




