翡翠さん、チューリッヒでダダイストの女と出会う
ニューヨークで手練れの画商が手がけると、ヒトラーのような新人前衛画家の絵も高く売れることが多いのです。芸術好きの富裕層ももちろん多くいますが、前衛絵画に投機的価値を見いだす人々も少なくなりません。ピカソが数ヶ月で10倍の価値になったということがありましたから。
「ロマン・ロランもヘルマン・ヘッセも、両方ともノーベル賞作家じゃないか。いいなー、私もサインが欲しいぞ。」
「女神のくせに人間のサインを欲しがるなよ。」
「ヘッセの『車輪の下』って車に轢かれたってことか?」
「まあ、そう外れてはいないな。ただ車が轢いて去って行ったわけではなく、轢いてそのまま車輪が身体の上にある感じかな。」
「重いじゃないか。さっさとどけろ。内臓が潰れるわ。」
「そう、潰されそうな社会的プレッシャーということなのさ。」
「ロマン・ロランに『ピエールとリュース』という短編があったのを覚えてる。ラジオドラマで聴いた。」
「女神が小説をラジオドラマで聴いたなんて話をするなよ。リアリティがなさ過ぎるだろ。」
「女神だからラジオ受信機がなくても番組は受信可能なのだ。テレビも行けるぞ。なんなら電話の通話も....」
「やめいっ!プライバシーの侵害だ。」
「地下鉄で指が触れ合ったことがきっかけで知り合った2人が、何と言うことでしょう、婚約を果たそうと訪れた教会が砲撃で崩れ落ちて、石柱の下敷きになって死んでしまうのでした。ピエール(石)だけに。」
「途中を抜かして冒頭と最後だけ言うんじゃないよ。」
「地下鉄で指が触れ合ったって、今度の新曲にこのフレーズを使おうかな。」
「パクりを公言するな!そもそも何だ新曲って?おまえはシンガーじゃないだろうが。」
「もしもあの地下鉄で~指が絡まなかったら~♩」
「ガンダム・ジークアクスのOP、米津玄師の »Plazma »の替え歌じゃないか!やめろ、いろいろ危ないわ!」
「よし、今度地下鉄で誰かと指を絡ませてこよう!」
「捕まるからな!」
「ね、興味があるのかしら?」女は翡翠を値踏みするように眺める。
「はい、何か新しい息吹を感じます。」
「あなた、見た目も声もいたってふつうね。芸術家とは思えないわ。」
「芸術家ではありませんから。芸術家を支援する団体の者です。」
「ドイツ語は完璧だけど外国人なんでしょ?」
「はい、日系アメリカ人でジェイディ御巫と申します。とある財団でヨーロッパの若い芸術家を発掘して支援する活動をしています。」
「まあ、支援ですって?それはありがたいわね。さっそく支援して欲しいわ。お腹が空いているの。晩ご飯をご馳走して。私、こう見えても芸術家だから。」
「そうですか。わかりました。どこかレストランにでも...」
「私のこの服装で入れてくれる店じゃないとダメね。付いてきて、知ってる店に行くわよ。」
「さて、自己紹介するわね。私はエミー・ヘニングス。キャバレー・ヴォルテールのオーナーのひとりよ。もうひとりは私の旦那、まだ結婚はしていないから旦那じゃなくてパートナーかな。フーゴー・バルっていう詩人よ。私もものを書いたりもしているけれど、基本的に舞台に立つほうが多いかな。」
「あのポスターのお店は近くにあったのですか?」
「シュピーゲルガッセ1番なのですぐ近くね。」
「詩の朗読や音楽と書いてありましたが。」
「そう、詩と言っても言葉にならない言葉なの。意味を伝えるのを拒否した言葉たちが踊り跳ねる。」
「それで観客は感動するのですか?」
「感動?そんな安い感情を売り物にしていないわ。いや、そもそも何も売り物になんかしない。芸術と呼ばれる殻を壊すのが私たちの革命なの。わかってもらおうなんて1ミリも思っていない。」
「それで観客は集まるのですか?」
「集まるわよ、変な奴らが多いから。変な奴らがどんどん増える時代なのね。まともだと主張している奴らが一番狂ってる。だって戦争なんてしているのよ。」
「まあ、確かにそうかもしれません。」
「あなた、新人芸術家の支援をしていると言ったわね。ジャンルは美術でしょ?」
「はい、そうです。」
「じゃあ今度お店に来なさい。紹介してあげるわ。あなたも知ってる人がいたら連れてきて。財団の仕事をしているならいろいろ人脈があるでしょうから。」
「わかりました。来週にでもお邪魔します。」
「楽しみにしているわ。今夜はごちそうさま。Auf Wiedersehen!」
翡翠は翌日、ジュネーブ近郊レマン湖畔のディオダーティ館を訪れた。
「こんにちは、ヒトラーさん。ジェイディです。」
「おう、ジェイディさん。ごきげんよう。どうぞお入りください。」
「あら、制作中でしたか?」
「はい、妹にせがまれて肖像画を描いているのです。裸婦像を含めてこれで5枚目です。」
「人物画もなかなか良い味を出していますね。あなたのような前衛画家が具象を描くと画廊は喜びますよ。」
「そういうものなのですか?」
「はい。セザンヌもピカソも具象画を描いていますが大評判です。」
「そういうことなら、せっかく風光明媚なスイスに住んでいるので、風景画にも挑戦してみましょう。」
「ところで、描きたまった絵画ですが、すべてをアメリカに送らないで、ジュネーブの画廊にも出してみることをお勧めします。この地の芸術家や芸術愛好家の目にとまるようにしておかないと人脈が広がりませんから。良かったら私が話を付けてきましょう。」
「よろしくお願いします。」
「スイスに来て新しい出会いはありましたか?」
「先日、ロマン・ロランとヘルマン・ヘッセという2人の偉大な作家が我が家を訪れてくれました。2人ともノーベル文学賞作家です。妹はファンだったので大喜びしていました。著書にサインまでもらったのです。」
「ヘッセさんにはデザイナーとしての道に進む私の背中を押していただきました。サインを書いていただいた『車輪の下』は私の宝物です。」
「それは素晴らしい出会いでしたね。どんな話をなさったの?」
「戦争の無益さ、ヨーロッパの行く末、文明と人類の関係などです。」
「大文学者を相手にそんな話ができるようになったのも、あなたの画家としての格が上がったからなのでしょう。芸術は知識を超えて人間に深みを与えます。」
「いえいえ、ほとんど話を伺って相づちを打つばかりでしたが。」
「それでも、です。ところで、チューリヒで面白い人に会いました。あなたやピカソやアポリネールとも違った急進的な前衛芸術家のようです。面白そうなので会いに行きませんか?」
「はい、戦時の今、スイスにはヨーロッパ中から芸術家が集まっています。是非新しい芸術家たちの話を伺って刺激を得たいと思います。」
「その刺激には毒気が含まれているかもしれません。でも、それも良い経験になるでしょう。明日迎えに来ます。私、ジュネーブで自動車を手に入れたので、ドライブしましょう。」
チューリヒでヒトラーはどのような前提芸術家たちの洗礼を浴びるのでしょう?